【間話】変容-1

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【間話】変容-1

 河の水位が下がり、朝夕が涼しくなる季節が訪れていた。  沼地を満たしていた水が引くと、緑の葦に覆われた中洲がそこかしこに浮かび上がってくる。その中州を目指して鳥たちが集まり、狭い水溜りに取り残された魚を狙って騒々しく騒ぎ立てる。その中には、餌を追ってやってきた鰐たちの姿もあった。太陽の船は夏よりも低い位置を巡り、日差しが斜めに村を照らし出す。  彼が水辺に姿を現すと、近くにいた鰐の何匹かががあわてて水の中に滑り込んだ。残りも、注意深くこちらを伺いながら距離をとる。いつものことだ。鰐たちには、彼の姿は巨大な白い鰐に見えているはずだった。獣は、自分より大きく、力の強いものを純粋に恐れる。ここが彼の縄張りと認識される限り、獣たちは決してその中で彼に属するものに手を出すことはないだろう。  右眼で風景を見渡したあと、<緑の館の主>は、視線は動かさないまま陸の奥の気配を探った。シェヘブカイは、…相変わらず、畑のほうだ。よくやって来るあの少女、ティティスと話しながら手を動かしている。周囲の気配に気になるところはない。  それを確かめてから、彼は、音もなく水の中に体を滑り込ませた。  向かう先は川の流れの行き着く果て、沼地の奥の湖だった。  以前、河の神(ハピ)のもとを訪れた時、そこがどの神の領域でもないことは聞いていた。彼自身かつて訪れたことはなく、今も知覚の範疇外だ。だからこそ、行ってみたいと思ったのかもしれない。  泳ぎだしてすぐ、行く手に多数の人の気配があることに気が付いた。  守護者のいない土地だと聞いていたのに、盛り上がった中州のようなところに家々がぽつりぽつりと建てられ、それらの合間に畑が作られている。家が集まっているのは湖のほとりだ。その先は、かつて河の神が言っていたように、西の荒野へと通じている。  良い状態ではない。  水の中に立って村を見つめながら、彼はそう感じた。流れのない水の澱みに村が作られているせいか、病の気配がある。それに土地に力がたりない。川の本流から遠すぎるのだ。水は枯れないかもしれないが、川の流れの運んでくる黒い土が届きにくい。  ここでは、今のままでは、決して豊かな実りは得られまい。  だが、彼にできることは何もなかった。この先の村の人々は、自分を望んではいない。むしろ強い「拒絶」を感じた。  (…あの先には、かつて私を知っていた者たちがいる) 胸の辺りがざわつき、消し去ろうとしていた感情が再び蘇ってくる。  彼は、左の眼に瞼の上から触れた。幾度も繰り返した孤独な昼と夜――、罵詈雑言を吐き、自分を棄てて去って行った人間たち…。  怒りを飲み干すには、まだ時間がかかるだろう。分かたれた半身はいまだ完全に統合されていない。  思いを断ち切るように踵を返し、彼は、湖に通じる何本かの水路を見渡した。  奥の湖は今は手を出せない。ここまでが、自分の<領域>。  沼地と湖の交わるところまでが、彼の守るべき場所となる。  周囲を一巡してから祠に戻ってみると、前庭の木陰に体を伸ばして、気持ちよさそうに眠りこけている少年の姿が見えた。ナツメヤシの幹に体をもたせ掛け、花が両脇から上半身を包み込むようにしだれかかっている。近づいていくと、気配に気づいたシェヘブカイが目を覚ました。  「…あれ、帰ってたんだ」  「よく寝ていたな。」  「うん―― そうみたいだ」 少年は、起き上がって小さく伸びをした。頬のあたりに寝癖がついている。  「ここは気持ちがいいね。あんたがいつもここで昼寝をしてるのが分かる気がする」  「ああ」 シェヘブカイの隣のいつもの場所に腰を下ろして眼を閉じると、涼しい風が額の上を通り過ぎてゆく。シェヘブカイでなくても、すぐに眠ってしまいそうな心地よさだ。入れ替わりに、少年が立ち上がる気配がある。何か言いたげな微かな沈黙があったが、少年は、何も言わなかった。  「じゃあ、僕はもう行くよ」 足音が、気配が遠ざかってゆく。  まどろみながらも、彼の感覚は周囲の沼地の気配をとらえていた。祠を出て、家のほうへ向かうシェヘブカイ。家には少女が待っている。裏庭には、牛が増えている。それから陸の奥のほうを歩く旅人と、奥の湖のほうから葦舟で漕ぎ出す農夫と…。それは眼で見るよりもはっきりとしたものだ。  さらに遠く、沼地と河の交わるあたりの岸辺を、見慣れない格好をした一団が汗を拭いながら走り回っているのも見えた。揃いの簡素な鎧を身につけ、長い槍を持ち、岸辺の草の中をまさぐったり、通りかかる農夫に何かを尋ねたりしている。誰か探しているのだろうか。ひどく焦っている様子なのは分かった。  だが、それらはただの人に過ぎない。"悪いもの"ではなく、"敵"でもない。――  眼を覚ました時、空は、黄昏から夕闇へと変わろうとしていた。空の低い位置に、白く月が浮かんでいる。  彼を呼び覚ましたものは、まどろみの意識の中に捉えたかすかな違和感だった。彼の<領域>の中に、ひっそりと侵入してきたものがいる。  「…何の用だ」  「誰だ、とは聞かないんだね」 池のほとりに銀の影がゆらめくと、それは、以前どこかで見たような細身の男の姿をとった。白いたすきを肩にかけ、手には巻物と葦のペンを持ち、いかにも人間の役人のような姿だ。彼の怪訝そうな視線に気づいて、男はちょっと肩をすくめて見せた。   「この姿、今の君に合わせたつもりなんだが。気に入らなかったかな」  「あんたのことは"知って"いる。知恵の神(ジェフウティ)、記録者が何をしに来た」  「仕事さ、もちろん。新たに――といっても君にとっては再びだろうが、沼地(メヒ)の守護者となったものを記録するために」 言いながら、男は生真面目な顔で書類を調べるようなしぐさをしたが、それは真似事だけだ。目の前に見えている紙もペンも、ただそこにあるように見せかけているだけの幻だ。神々の書記と呼ばれる存在が使う筆記具は人間の使う紙のように朽ちることはなく、インクのように薄れることはない。  「…<沼地の守護者>?」  「気に入らないかもしれないが、君の公式上の名前はそうなる。」 人間らしい演技を続けながら――それはもはや彼に見せるための演出というよりは、半ば自然に身についた癖とでも言うべきものに見えたが――、男は、片手を顎に当てる。  「名前というのは、実体なき者にとっては<本質>を決定するものだ。人間でも悪霊でも神でも同じさ。我々はたいてい複数の名を持つが、本当の名は一つだけ。そしてそれは、魂の本質を決定付ける。たとえ複数の姿を持っていようとも、その名は<真の姿>を意味する。だから、本当の名が公式に記されることはない」  「……。」 彼は、無意識に左眼に手をやった。音もなく、男が近づいて来る。側まで来た時、彼は、その男には影がなく、足は地についていないことに気がついた。人の姿をとっていても、人ではない。  「まだ、うまく半身が馴染めないらしいね」 すべてを見透かすような口調だ。「心配は要らない。君はうまく制御しているよ。その"半分"は、もう離れていったりはしない。それとも、――人を傷つけるのが怖いのかい? あの時もそうだったから?」  「どうして、…それを」 彼は顔を上げた。月明かりに照らされた、人ならざるもう一人の存在の白いおもてが闇の中に浮かび上がる。  「無論、以前起きた出来事のあらましくらいは知っている。神々の歴史を記録すること、その名を管理することが、<記録者>たる者の役割だからね。君が何故、放棄されなくてはならなかったか…」 男は、すいと指を空に、白く輝く月へと向ける。  「月は地上で起きるすべての出来事を視ている。」  「知恵の神…月神…、そういえば、そうだったな」前に出会った時も月のかかる晩だったことを思い出し、彼は合点した。「知っていたなら、何故、そのまま死なせなかった?」 答えは静かな、そして冷酷とも思える口調で返される。  「――我々を生かすことも、殺すことも、人間にしか出来ないからだ。」  「そのために、シェヘブカイを巻き込んだのか」  「そう。でも彼は君を信じることを選び、君は彼と共に生きることを選んだ。それは君たち自身が選んだ結果だ。」 話している背後で、月の舟は、ゆっくりと天の高みへと昇ってゆく。謳うように言いながら、男は、見えない翼をふわりと広げ、舞い上がる。  「太陽と月は空を巡り、地上の全てを見通すだろう。しかし人と、人ならざるものたちの思い内までは見通せない。君やあの人間が、どの未来を選ぶのかが誰にも分からなかったように――あの時、君が聞き届けた願いが何だったのか、君が何を思ってどう判断したのか――それは誰にも知りえないこと。」  「……。」  「再び同じ過ちを繰り返さないことを願っているよ、<沼地の守護者>。本当の名を手にしたとき、君は新たな存在になるだろう」 羽ばたきとともに姿が消え、一瞬、人の姿が何かに変わった気がした。だが。それは視界にとらえるには短すぎ、気がついたときには気配も、羽音もはるかな空の彼方へと遠ざかろうとしていた。  空を見上げ、眸を閉じる。  そしてまた開く。  (私が聞き届けた願い――…)  "なぜ止めてくれんかった" 脳裏に蘇る、搾り出すような声。  "なぜ見逃した?! 毎日お供えをしていたのは、わしではないか!" 突き刺さるような視線と、叩きつけられる感情と。  今もはっきりと覚えている。あの時、本当は、自分は何をすべきだったのだろう。一体どうすれば、あの時――誰も傷つけずに済んだのだろう。
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