『ペンと薔薇のカノン』

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 やたら格好つけたタイトルが掲げられ、また勿体ぶったような表紙で飾られ、誠にやりにくいことこの上ないものの、どちらもそうした過度な演出をやってしまったのは自分自身に他ならず、怒りのぶつけどころに迷ってしまっているわけですが、エッセイです。小説ではありません。  ではどんなエッセイかと言いますと、「ではどんなエッセイかと言いますと、」なんて開始早々にいきなり説明しだしてしまうような感じのエッセイです。  は? という声を幻聴したので訂正します。  いえ、あるいはエッセイは、得手して最初にどういった意図でエッセイを始め、どんなテーマでエッセイを進めていくのか(したた)めるものなのかもしれません。  しかしこのエッセイは、どんなエッセイかを説明するときに「エッセイって最初にこのエッセイがどんなエッセイかを説明しがちだよね」みたいなことを言及しなければ気が済まないタイプの人間が書くようなエッセイなのです。  そこのところを強引にでも理解していただかないと、今後このエッセイを読んでも「は?」以外の感情が湧いてこないと思うので。もう少しだけ、しちめんどくさいこの茶番にお付き合いくださいませ。  閑話休題。  じゃあそんな人間は、結局のところ何を思ってこのエッセイを書き始めたのか。そう問う向きもあるでしょう。  自分が書きたかったのは、こうした「回りくどい人間の書く、回りくどい文章の積み重ねによってのみ、初めて意味の現れる回りくどいエッセイがあり得るのだろうか」という試みです。つまり、エッセイ全体がエッセイの説明になる、なんてことはあり得るのだろうかと。  エッセイを最後まで読み通した人にのみ、このエッセイが何について書かれているエッセイなのか理解るエッセイ。  もちろん、そのエッセイがどういうエッセイかを定めるのはエッセイそのものであって、そんな狙い通りのエッセイを本当に実現できるのかと訊かれれば望み薄だというのが正直なところです。  なぜなら読み手は自らが読むものを好きなように読むことが可能で、そこに書き手の意図は介在しません。また、そもそも書こうとしたものを書けるとは限らないのが世の常で、本来の趣旨や目的を果たせる書物が一体どれだけ存在するのか。僕にはちょっと想像できません。  たとえば読んだ人をしこたま人を笑わせてあげたいという意図のエッセイがあったとして。どんなにその書き手がまだ見ぬ読み手のことを想って書いていたとしても、笑いと文章のセンスが絶望的で、あまりにも内容がつまらなければ、これを一生朗読させる刑罰などが定められたりすることだってあるかもしれません。  その場合、エッセイはシーシュポスが運搬させられる岩となるのであって、決して腰を下ろすためのものではなくなります。たとえその岩がどんなにシーシュポスの尻に敷かれたくとも。
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