ピンク、黒、白

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ピンク、黒、白

 がたんがたん、がたんがたん。  線路の継ぎ目が規則正しい音を立てている。通勤通学で混雑しているその車内で、私は迷わずある男子高校生を見つけた。今日の彼は、イヤフォンで何か聞きながら車窓に流れる景色を眺めている。彼はどんな歌が好きなのだろう。はやりのあのアイドル? 街なかでよく流れている人気バンド? それとも大人っぽく洋楽? いったい窓の外の何を見ているんだろう。間近に連なる家々? 遠くの小さな緑?  考えても答えなど出ないのに、想像することはとても楽しい。大切なひとときだった。  彼は遠藤君。下の名前まではわからない。私は、遠藤君のことはほとんど知らなかった。わかるのは、着ている制服が市内の男子校のものだということと、私よりも遠くから通学しているらしいこと。朝、彼が決まって一両目に乗っていること。それと、あとひとつだけ。  がたんがたんが間延びしてゆく。やがて、止まった電車からたくさんの人々が吐き出され、飲み込まれ、また動き出した。  飲み込まれたほうの人々の中から、よく響く声がした。 「おっはよー、真緒」 「おはよう、璃子」  声の主が人ごみから抜け出してきた。長い髪は明るいピンク色のシュシュでまとめられ、肩に垂らしてある。それは彼女の歩みに合わせて揺れていた。  璃子は私より一つ後の駅から乗ってくる。  彼女と私は、行きも帰りも同じ電車を使っていた。私たちは、いつの間にかそれが当然だったかのように仲良くなっていた。登校が一緒なのはもちろん、帰りにも二人で寄り道することも多かった。  璃子は頼りがいのある人だ。隣にいるとこちらまで元気にしてくれるような女の子。私が遠藤君に好意を寄せていると知って、名前を調べてくれたのは彼女だ。頼ってしまいがちな私にもいやな顔一つせず、親身になって相談に乗ってくれた。  璃子は満席の車内を一度見回してから、私の隣の吊革を握った。 「真緒、物理の宿題やった?」 「やったよ。今回は易しかった」 「じゃ、昼休みに頑張ろう。昨日はバイトで、疲れて寝ちゃって」 「大変だね」 「自分で忙しいシフト組んだんだから仕方ないよ」  璃子はちょっと前からアルバイトを始めた。携帯電話を持つためらしい。ご両親からは、持つこと自体に反対はしないが、経費は自分で出すようにと言われたそうだ。  璃子は、思い出したように声を上げた。 「今日も一緒じゃない。よかったね」 「小さい声で言ってよ」 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。音楽聞いてるみたいだし」 「でも、こっち見てた気がするよ」 「……気にしすぎじゃないの」 「そうかな」  私は、そっけない璃子の態度に肩を落とした。私には、彼が意志を持ってこちらを見つめていたという確信があった。それだけではなく、私は彼がいつも一両目に乗っているわけも、おそらく知っている。  のらくらと先延ばしにしたところで苦しいだけ。昨夜のうちに、今日こそ結論を出そうと決心したはずだ。璃子に聞いてみればわかる。私は、迷う気持ちを心の底に追いやって尋ねた。 「璃子、今日ひまだったら買い物に付き合ってくれる?」 「今日はごめん。明日ならいいよ」 「あ、そうなの?」  その答えは予想していたとおりのものだったが、私は動揺していた。少し寂しかったのかもしれない。私と璃子が一緒に買い物に行く機会は、たぶんもう訪れないからだ。 「明日は私がだめなの。仕方ない、一人で行くよ」 「そっか。悪いねー」  璃子は残念そうに私を見つめ返した。  私と璃子は、いつもの駅で降りた。他愛ない話をしながら人の波に乗り、改札の方へと流されていく。  混雑の中、私は璃子を先に行かせた。そして、自分は改札の前でそっと足を止める。たくさんの人たちが、私をよけるように追い越していった。璃子も、立ち止まる私に気づかずに改札を抜けていった。  彼女は自動改札の向こう側で振り返り、そこで初めて、不思議そうな顔で私を見た。 「真緒?」 「私、今日は休む。先生に言っといて」 「具合悪いの? さっきまで普通に電車に乗って、歩いてたじゃない」 「いま急に気持ち悪くなったの」 「変なこと言ってないで、早く学校行こ」 「璃子、早くスマホ買いなよ」 「急にどうしたの? ほら、行こうよ」  璃子は笑いながら私を呼んでいた。その顔が、私の記憶にある光景と重なった。  私は、このおおらかな笑顔がとても好きだった。彼女も遠藤君も好きだったのだ。あのときまでは、ほんとうに。 「遠藤君もきっとそう思ってる」 「遠藤君?」 「ピンクのシュシュの日はデートだから、私とは遊べないね」  璃子の顔から血の気が引き、唇がどうしてという形に動いた。どうしてもこうしてもない。本当のことを言っただけなのだから。  遠藤君は璃子と付き合っている。  それが彼について知っている最後の事実だった。  並んで歩く璃子と遠藤君を見たのはまったくの偶然、先週末の放課後だった。璃子は楽しそうだったし、遠藤君は彼女の歩幅に合わせて歩いてあげていて、やはり笑っていた。ふたりの仲が浅からぬものであると一目でわかった。  思い返してみれば、璃子がシュシュの色を変えだしたのは、彼女が遠藤君の名前を調べてくれてから少し後だった。璃子は、そのころから急に華やかに、きれいになった。私はそれがピンク色のシュシュがそう見せているのだと思いこんでいたが、そうではなかった。彼女が変わったのは遠藤君との出会いのおかげだ。  ピンクの日、璃子は決まって私の誘いを断った。私が二人を見かけたその日も、彼女は今日と同じシュシュで髪をまとめていた。 「ピンクはデート。黒は部活、白はバイト。璃子、スマホ持ってないもんね。私がいる前だと彼に予定を伝えられないから、シュシュを使ったんでしょ。考えたね」 「いつ気づいたの」 「ぜんぜん知らなかったよ。先週、偶然見かけるまでは」  だって教えてくれなかったじゃない。  一度知ってしまえば、裏づけるのは簡単だった。先週以降、璃子がわざと髪を直したり、彼の方を必要以上に気にしたり、それまでは私が気にとめなかった仕草がよく見えてきた。 「ごめん」  璃子は、謝りながら泣きそうな顔をしている。どうして璃子が泣くのだろう。好きな人の彼女が、自分の友達だったのは私。それを知らずに、その友達に恋の相談をしていたのも私だ。一生懸命話を聞いてくれた璃子の真剣な顔も、今となってはひどい茶番だ。 「真緒が彼のことを好きだって知ってたから」 「それなのに、付き合ったの」  璃子は答えに窮してうつむいた。 「私は告白する勇気もなくてただ遠藤君を思ってただけだったけど、璃子みたいにはできなかった。そんな勇気やしたたかさなんて持ってないから。だから、こんなことになる前は璃子に憧れてた」  でも、もうだめだ。私と彼女は一緒にはいられない。  私の胸の内で、どす黒い感情が渦を巻き始めていた。これ以上璃子と一緒にいたら、彼女に汚い言葉を浴びせかけそうだった。  できるならほんとうに嫌いになる前に距離を取りたい、私はそう思った。大切な友達として過ごした日々は確かにあったし、何より璃子は、遠藤君をあんなに幸せそうな顔にしてあげられる人なのだ。 「私、明日から一つ遅いのに乗るから。お幸せに」  私は璃子に決別の言葉を送った。  これできれいに別れられる。そう思った矢先に、それまで下を向いていた璃子がふいに顔を上げた。 「どうして気づいちゃったの。なんで今になってそんなことを言うの? 私は真緒が気づいてなくてうれしかったんだ。そのおかげで真緒とも遠藤君とも仲良くしていられたんだから。知らなければずっとこのままだったのに」  璃子は顔色も変えずに言った。きっと、璃子にとっては当然なのだろう。  しかし、その言葉たちは私の頭には入ってこない。今ここにいるのは私が知らない、私には理解できない心を抱えた誰かだった。私が、頼れる姉のように思っていた璃子はもういない。 「私、璃子がわかんない」 「私は変わってない」  璃子は言い切った。 「真緒には見えなかったかもしれないけど、もとからこんなだよ」  不適に笑う璃子。さっきまでは涙を浮かべていたはずなのに。  色を変えていたのは、シュシュじゃない。璃子自身だったのだ。彼女が持っていた沢山の色。璃子が言うように、私はその違いを今日まで見抜くことができなかった。なんて、愚かだろう。 「お幸せに」  再び言って、私は逃げるようにホームに戻った。振り返ることはできなかった。  私が乗ってきた電車はすでにホームを去り、次発を待つ人々の列が長く伸びていた。  ホームのベンチに腰掛けて、電車待ちの列を眺める。明日からは電車を一本遅くすると決めたものの、打ちのめされた心はすっかり冷えていた。  今となっては遠藤君の姿も遠い。最後に見たのは、さっき窓の外を眺めていた横顔だった。彼と同じ時間に、同じ車両から同じ景色を見ることも、もうない。そしておそらく、璃子とも。  がたんがたんと、あの音が聞こえた。  いつもの電車に乗るといろいろ考えてしまうだろう。それなら、いつもと違うところまで行ってみようか。遠藤君が住むかもしれない町よりももっともっと向こう、知らない景色が広がる場所まで。  朝の光の中、私は少しだけ軽くなった体でベンチから立ち上がった。
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