書く仕事

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 空想の世界に浸っている時だけは現実から目を背けられる。  だから、ミサキは無我夢中でキーボードを叩く。よどみないタッチで、すらすらと文章を打ち込んでゆく。  やがてミサキは手を止めて、ふぅ、と疲労交じりの息を吐いた。  できた。  今回の作品はちょっと自信作だ。もしかしたら、賞にも手が届くかもしれない。  そんな淡い期待を滲ませた目でパソコンの画面を見つめるミサキ。  その時だった。 「帰ったぞー! おいミサキ! 聞こえないのか!」  玄関の方から聞こえたしゃがれた声に、ミサキは小さく身を震わせた。 昼から家事の合間に細々と作業をしていたパソコンの画面をそっと閉じ、慌てて玄関に向かうと、案の定、真っ赤な顔をした夫がうずくまるように座っていた。 「またお酒?」 「うるせぇな。自分で稼いだ金をどう使おうと俺の勝手だ。文句あるか!」  目を血走らせながら怒鳴る夫に、ミサキは渋々ながら「いえ」と答える。なぜなら、下手に刺激すると手が出るから。 夫はそういう人間なのだ。 「わかったなら、さっさと熱い茶をくれ。お前の仕事だろう」 「……わかりました」  ミサキは大人しく従い、急いで台所へと向かった。後ろからどかどかと夫の足音が聞こえるだけで、きゅうと胸が締め付けられるような心地がする。  いつからこんなふうになってしまったのだろう。結婚した当時は優しい人だったのに、ともう戻ることのない輝かしい日々を思い、ミサキは遠い目で夫を眺めた。  夫もまた、ソファーにどっかりと腰かけながらミサキのパソコンの方をぼんやりと眺めている。  嫌な予感がした。 「お前、また何か書いてるのか」 「……ええ。小説のお仕事をちょっと」 「お仕事? はははははは! ほとんど稼ぎもないくせに、いっちょまえに仕事気どりか」  笑われた。  ミサキは悔しさで唇を噛む。  ごくたまにはした金が入るだけでも、家計の足しになると思い、忙しい家事の合間を縫い、プライドを持って執筆を続けてきた。 誰が何と言おうと、ミサキにとって小説を書くことは「仕事」だった。 「笑わないで」 「……なんだと?」 「確かに稼ぎは少なくても、私は本気でやってるの。執筆は私の仕事なのよ」  言ってしまった、と後悔したときには遅かった。夫はもともと赤かった顔をさらに真っ赤に燃え立たせ、ものすごい勢いで立ち上がった。 「口ごたえするのかこの野郎! お前の仕事は家事と、俺のご機嫌取りだけだ! 全く、誰が養ってやってると思ってるんだ! 生意気な口ききやがって」 「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ」 「本来の仕事が疎かになるぐらいなら、こんなもの辞めちまえ!」  そう言って夫は、パソコンを持ち上げると思いきり床に叩きつけた。ディスプレイがひび割れ、中の部品が飛び、ミサキの頬に当たった。  それからのことはよく覚えていない。気が付いた時にはもう、床に伏せた血まみれの夫と、包丁を握ってその脇に立ち竦む自分がいた。  ピンポーン、と間の抜けたチャイムの音が鳴る。 「うそ、こんな時間に……?」  ミサキは慌てて手に持った包丁を台所で洗い、返り血の付いた上着を脱ごうとしたその時。 ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。  しまった! 鍵を閉め忘れて……!    ゆっくりと近づいてくる足音。 あぁ、もう終わりだ。そう思った瞬間、ミサキの前に現れたのは意外な人物だった。 そしてその人物は血まみれのミサキを見ても一切動揺することなく、こう言ってのけたのだ。 「大丈夫。僕はあなたの味方です。死体を隠すなら、手を貸しますよ」 / 美咲は手を止めて、ふぅ、と疲労交じりの息を吐いた。  できた。 まだ序章に過ぎないが、今回の作品はちょっと自信作だ。続きを書くのが楽しみで仕方ない。  だけどそろそろ夫が帰ってくる時間だ。美咲はキーボードを叩く手を止め、パソコンの電源を落とし、夫の目につかないようにクローゼットの奥に隠した。  夫と自分の歪な関係を小説にしていることが、美咲の一番の隠し事。夫にバレたらと思うと身の毛もよだつけど、辞めるつもりはない。  なぜなら、執筆は誇り高き仕事だから。  そしてもう一つ。  あなたを殺す空想に浸っている時だけは、現実から目を背けられるから。
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