第22話 雨に滲む

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「頭をお上げよ。昔むかし眞玄に太棹を置いていった時もそうやって、アタシに頭を下げた。けどね、そんな姿を見たいわけじゃあないんだよ。わかるだろう」  冷ややかな初音の声は、幾分怒りを含んでいるようにも聞こえた。 「さっき馨子の着物を見せた時、妙なことを考えただろう。大方、この子も取られるんだ、とかかね」 「……いや。馨子に眞玄を取られたとは思っちゃいない。俺はただの、種馬だ。馨子もそう言った」  一度上げられた扇子が、かつんと上弦の頭を叩いた。 「そういう言い方するんじゃないよ。今の時代に家がどうのなんて、古臭いことをアタシは言わない。眞玄は別にこの家継がなくたっていいし、音緒だって孫のように思ってる。それでいいじゃないか」 「先生に、甘えすぎたと思ってる」 「わからない男だね。アタシが好きでやってるんだよ。上弦、あんたのことだってアタシは息子のように思ってる。馨子と別れたって、一度は『辻』の姓を名乗っただろう?」 「――はい」 「ただね……アタシもいつまで元気でいられるかはわからない。眞玄はいいけど、音緒はまだ小さい。その辺のことは、わかってるだろう?」  少しばかり、初音の声のトーンが落ちた。  初音が先に死にゆくのは、自然の摂理だ。それは単なる事実だったが、上弦はそのことについてあまり考えたくなかった。  親ではないが、ずっとそこにいてくれるものだと、どこかで思っている。  ――かたん、  話している途中、外で微かに物音がした。夏織子が来たのかも知れない。しかし一向に呼び鈴が鳴らない。なんの音だったろうか。 「来たかい?」 「いや、様子を見てくる。そろそろ来てもいい頃だろ」  廊下はしんとしていた。  音緒が居間でテレビでも観ているのかとも思っていたが、その音もしない。気配がない。  玄関へ行く。しかし誰もいない。雨に濡れた上弦の和傘が脇に立て掛けられ、先ほど脱いだばかりの草履が置かれているが、すぐに違和感を抱く。  音緒の靴がない。  紫陽花の鉢の傍に揃えてあったのを来た時に見た。なんとなく嫌な予感がして、上弦は玄関から外に出た。  相変わらずの雨が降っていた。  そこには誰もいない。音緒も、やってくるはずの夏織子の姿も見当たらない。  いつの物かはわからないが、飛び石のところにうっすらと、女性の履くヒールのような痕跡が残されていた。  それは雨に滲み、既に消えかかっていた。
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