金木犀と父

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
甘い香りが鼻を擽る。甘美なそれは、他の何かに形容し難く、特別な香りを惜しみなく風にのせていた。 その香りが何の香りなのか、私は知らなかった。 (何の匂いだろう) すん、と鼻を鳴らす。 とても甘くて、優しい香り。 香りが強くなる方へと歩いていけば、小さな橙色の花をつけた木と出会った。初めて見る植物だった。 携帯で写真を数枚撮り、家へ帰ってコンピュータを開いた。 写真を見ながら、色々なワードを組み合わせて、打ち込む。 何度か検索を繰り返していると、それらしい植物にヒットした。 (キンモクセイっていうんだ) その名前には聞き覚えがあった。 瞬間、急に誰かに後ろへ引っ張られるような感覚。 目の前に広がる光景は、幼い頃の実家の居間。私はそこで、奥の部屋から誰かの声が聞こえることに気づく。 父の声だ。 自分の意志に関係なく、視点が動いて奥の部屋へと私はゆっくり進んでいく。 どうやらこれは過去の記憶のようだ。 当時の自分の視界らしく、見える世界がいつもより低い。 奥の部屋は仏間で、大きな背中を丸めて正座している父の姿が見えた。何かを探しているようだった。父の独り言から線香を探しているのだと分かる。 『良い香りの線香、なくなっちゃったんだよなあ』 アロマオイルやアロマキャンドルにも手を出すくらい、香りに興味のある父は、線香も色々な香りのものを使っていた。 『本当はさ、金木犀の香りが欲しいんだ』 ぽつりと呟いた父の言葉に、無意識のうちに声が出る。 「え」 『金木犀って知ってるか?知らないか、この辺には無いからな。甘くて、良い香りなんだよ』 目を細める父の顔が、なんだか懐かしかった。そういえば、今年は帰省していないな、とぼんやり思う。 『金木犀の線香なんて、ありそうだけど無いんだよな。お前にも一度、どんな香りか教えてあげたいのに』 振り向いて笑う父は、とても優しい顔をしていた。 ああ、この顔が私は好きだった。 勿論、今も好きだけれど、昔と違って一年に一回会えるかどうかになってしまった。小さい頃は当たり前のように一緒の時間を過ごしていたのに。 現実に引き戻される。目の前のモニタには、金木犀の検索結果が表示されたままだった。 「……金木犀の線香、探してみようかな」 きっとあるような気がする。 かたかたとキーボードを鳴らす。 想像もつかない世界になってしまって、親にすら、なかなか会えないことになって。 誰かに会う大切さ、会える幸せを知った。 当たり前だとか、また今度だとか、そう思っていた自分はもういない。 「あ。これ、かな」 次に会う時は、この線香を持っていこう。 大好きな父の、大好きな香りを持っていこう。 金木犀の甘い香りに包まれて微笑む父の顔が、早く見たい。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!