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「黒崎」  背中には固くて冷たい感触。それとは全く正反対の熱い手が俺の腕を床に縫い付けていた。 「黒崎」  さっき無理やり倒された時に打った頭がジンジンと鈍く痛む。黒崎の顔には苛立ちと焦りが滲んでいて、そんな顔を久しぶりに見た俺は、ただその名前を呼び続けることしかできない。 「黒崎」  腕を押さえつけるのとは別の手が、性急にシャツを脱がしかけている。耳を濡れた音が打つ。お互い靴さえも脱いでいない足は絡め取られて、熱が上がり切る前に俺は唯一自由になる左手で黒崎のワイシャツの襟を掴んだ。 「将太!」  半ば叫ぶように呼んだ名前に、ようやく動きが止まる。いつだってこの関係に必死だったのは俺の方で、黒崎はいつもその場しのぎにへらへらと誤魔化すだけだった。もっと早くこんな顔を見せてくれていたならば、もっと違った結末があったんじゃないかと思ってしまう。今となってはもうどうにもならないことではあるのだけれど。 「なんだよ」 「帰ってくれ」 「なんで」  今まで何度も別れを決意して、結局いつも流されていた理由を今はっきりと理解していた。黒崎に向けて伸ばしかけていた手を下ろす。もう二度と、あんなふうに触れることはないだろう。 「好きなやつでもいるの」 「関係ない」 「やっぱ隣のやつとできてるのか」 「違う」  見下ろしてくる顔は玄関の照明を背にしていて暗い。こんな距離でこの顔を見るのも最後。俺は今までで一番冷静に黒崎を拒絶することができた。 「吉井君は、俺を好きだと言ってくれたけど」 「やっぱり」 「でも俺はそれを断った。彼のことは俺も好きだけど、それはそう言う意味じゃない」  でも吉井君と出会ってから俺の中に変化が起きてお前と別れる決意ができたんだと、それは口に出さなかった。言葉を飲み込んで、押し込んでから口を開く。 「今は誰とも付き合ってない。それでも俺はもうお前とは寝ない」  このままじゃダメなんだ。俺も、お前も。 「……何で」  黒崎は何かを言いかけて、止めた。聞き返したりしなかったのは、それをしたところで意味がないと思ったからだ。  しばらく見合ったまま時間が過ぎる。一瞬のような一生のような不思議な時間だった。  やがて黒崎は諦めたように体を起こすと、玄関に入ってすぐに放り出していた鞄を手に取って何も言わずに出て行った。これでいいんだと分かっていても込み上げるものがあって、俺は床に寝転んだまま腕で顔を覆う。 「疲れた……」  まだ肝心なことは伝えていない。俺は何もうやむやにしたりはしないと決めたんだ。  それでもほんの少しの名残惜しさを抱えた俺は、熱くなった感情が冷たい感触に冷やされていくのを床に寝転んだまま待っていた。
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