溢れる文字

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溢れる文字

 30年前。東京都某特別区。区立小学校図書室。  皆川香織(みながわかおり)は図書委員の仕事を終えると、人がいなくなった図書室をぐるりと見渡した。利用の生徒は皆帰り、彼女も当番を終えて後は帰るだけだ。委員の先生が職員室で、春香が鍵を返しに来るのを待っている。最後に、出しっ放しの本がないか確認してここを出よう。 「あった」  彼女の目は、一番奥にある閲覧席に出された、日記帳サイズの本を見付けた。あんな本あったんだ。読書は好きだが、図書室の本を読み尽くすような人間離れしたことはできない。春香の知らない本の一冊や二冊、あったところで何も不自然ではないのだが、妙に「知らない」印象が焼き付いた。  知っていても知らなくても、整理番号に応じて片付けなくてはならない。ランドセルをカウンターに置いて、机に近寄る。その周りだけ妙に汚れている。やだなぁ。この寒いのに雑巾がけなんてしたくない。しかし、その汚れが蠢いているようにも見えて、春香の足が止まった。虫? 古い本に虫が沸くというのは聞いたことがある。でも、あんなに?  先生に知らせないと。でも、本当に虫? 動き方に違和感を覚える。本の周りの黒い汚れはどんどん広がっていく。本から溢れ出ているようだ。閉じられた本から。  虫じゃない。春香は悟った。そろそろと近寄る。本からはじき出されたそれが、春香の傍まで転がってきた。  それを見て、春香はひゅっと息を呑む。そんなわけない。なんだこれは。目の前のものが受け入れられなくて、春香は後ずさる。「所」の文字が本から飛び出しているなんて!  本から溢れる黒いものは全て文字だった。平仮名も片仮名も漢字もアルファベットも数字も、全ての文字と言う文字がその本から溢れ出している。  春香は弾丸のように図書室を飛び出した。 「先生! 本が変!」  本が好きで、国語が得意な彼女が発したその拙い表現に、図書委員の教師は驚いて腰を浮かせた。
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