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温魚姫は湯煙の中を泳ぐ
お風呂の中って、異世界だと思う。
いつものように浴槽に身を沈めたわたしは、四十度の液体が身体に触れた瞬間、自分が「お湯になる」のを感じた。
暖かい異物に包まれて全身の毛穴が開き、それから打ち解けるように再び閉じてゆく瞬間。ここにはお湯とわたしが互いに心を開き合う美しいドラマがある。それから、私とお湯は溶けあうように一体化し、身体を包むお湯とわたしの体液とが同じハーモニーを奏でるのだ。
私は羊水の中の胎児であり、アマゾンのワニであり、大海原を往くクジラだった。
浴室を満たす大量の湯気はわたしを現実から切り離し、誰もが幸福に浸れる異界へと誘ってくれる。
「気持ちいい……」
わたしはいつも、無意識に呟く。エコーのかかった声が響くだけで、現実のあらゆる憂さが浄化されるのだ。
わたしが手でお湯をかき混ぜたり、つま先を浮かせたりしてお湯と親密なひとときを過ごしていた、その時だった。ころんというくぐもった音が響いて何かがわたしのお尻のあたりに当たるのが感じられた。
――なんだろう?掃除の時に何かを置き忘れた?
わたしは手を伸ばし、音の正体を探った。お湯の底で指先が探り当てたのは、硬い円筒形の物体だった。わたしは思い切って物体を掴むと、お湯の中から引き揚げた。
「……なにこれ?」
私が手にしていたのは、見たこともない不思議な形状の物体だった。
複雑な装飾が施された円筒は、生活用品というよりオブジェか何かのようだった。
「何に使うのかな、これ」
私はエコーのかかった自分の声を聞きながら、ふざけ半分にお湯の出口に物体を押し当てた。物体は中央が窪んでいて、何かが入りそうだったのだ。
――お湯をかけると変化が起きたりして。
ほどよく血のめぐったわたしの頭は、ばかげた考えをためらうことなく実行した。
片手で物体を持ち、取っ手をひねった瞬間、勢いよく迸ったお湯が物体に注がれた。
「あれっ、溢れない。なんで?」
物体の窪みに注がれたお湯は、いつまでたっても外に溢れだそうとはしなかった。
さすがにこれはあり得ないぞ、そう思ったわたしがお湯を止めかけた、その時だった。
突然、お尻から床の感触が消え失せたかと思うと、わたしは頭のてっぺんまでお湯に呑みこまれた。嘘、こんなに浴槽が深いわけない。そう思った直後、わたしは排水口に吸い込まれるお湯のように、目に見えぬ力でどこかへと運ばれていった。
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