50.日彦

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ベッドに仰向けに横たわった日彦(はるひこ)の耳に、ピアノの音色が聞こえてきた。 現実なのか夢なのかは定かではない。 耳なじみのあるような、懐かしい曲。でも、初めて聞いた気もする、不思議な曲だった。 身体を起こしたいのだが、瞼を開けることも、腕も脚も動かすことが出来なかった。 耳だけが、ピアノの音色をはっきりと受け取っていた。 まろやかで、円熟した果実のような、心地の良いメロディ。 誰が、どこで弾いているのだろうか? ずっと聞いていたい。終わらないで欲しい。 やっとの思いで、うっすらと瞼を開けた時、見えたのは薄いグレーの天井。 自分の部屋でもない、ホテルでもない。あたりを見回して、そこが佑一郎(ゆういちろう)のマンションだと思い出した。 が、隣に佑一郎がいない。 寝室のドアが薄く開いていて、隣の部屋からの明かりが漏れていた。 そして。 (夢の続き・・・?) 隣の部屋から漏れていたのは、明かりだけではなかった。 柔らかなピアノの音色。 日彦は身体を起こして、ベッドの回りに脱ぎ捨てられたシャツを拾い上げ、羽織った。 扉を押して隣の部屋の様子を伺うと、壁に付けた焦げ茶のアップライトピアノに向かう佑一郎の背中が見えた。 ワイシャツをひっかけただけの姿で、佑一郎は小さく背中を揺らしてピアノを弾いていた。 そのメロディは、夢の中で聞いた曲と同じ。 日彦の気配に、佑一郎が手を止めて振り返った。 「起こしましたか」 「・・・ピアノが、弾けるんですか」 「趣味です。って言っても弾くのは久しぶりなんですが・・・」 日彦はピアノの譜面台を見た。が、そこに楽譜はなかった。 「さっきの曲は・・・?」 「えっと・・・これはまだ、なんて曲でもないんです」 「え?」 「作っている途中で・・・」 恥ずかしそうに笑った佑一郎の側に、日彦は近づいた。ピアノに身体を寄せて立つ日彦を、佑一郎は座ったまま見上げた。 「日彦さん、ピアノは好きですか」 「・・・弾けないけど、音色がすごく好きです」 「好きな曲、ありますか」 「え?」 「簡単なものなら・・・弾けるかも」 日彦の心臓が、どくん、と跳ねた。 「ショパンの・・・雨だれ・・・って、弾けますか」 佑一郎の目が大きく開いた。あまだれ、と曲名を繰り返した。 二人の視線が交差したのち、佑一郎が微笑んでうなづいた。 佑一郎の指が、静かに鍵盤の上を滑り出す。 日彦は、何度も画面の中で追いかけた指を今、見ていた。爪の形、手の甲に浮かび上がる血管、白鍵と黒鍵を行き来する指の癖。 「雨だれ」という曲を構成するひとつひとつの音が、日彦の身体に染み渡ってゆく。 「Yuu」の音楽。 苦しい日々を支えた、大切な音楽との時間。 仁井田(にいだ)のこと、(つづり)のこと、愛してもいない男たちと身体を繋げ続けた日々のこと。 佑一郎は少し微笑んで、ショパンの原曲のままの雨だれを弾いていた。 最後の音が空気にとけ込むと、佑一郎はゆっくり鍵盤から手を離した。 「・・・ずっと泣いてばかりですね」 佑一郎は日彦を見上げて言った。笑顔と涙を同時に浮かべて、日彦はうなづいた。 佑一郎は椅子から立ち上がり、腕を開いた。 その腕の中に、日彦は溶け込むように身を任せた。
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