一、少女A

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一、少女A

人の復讐は恐ろしい。 思いがけないところで襲ってくる。 季節は六月の中頃、蒸し暑さが増して、日差しは夏に向けて一層強くなっていく。 湿地帯である千葉県北東部は、その恩恵を受けていた。湿地の霞を作物が吸い上げ、辺りの田園は青々と成長していく。田園は一帯に広がり、その片隅には農家や民家、小規模のビルが広がる。 香原署はその一帯に存在していた。署内は(節電)と言う名目もあって、人が留まる箇所を除いては昼でも薄暗く陰気臭ささえ感じる。おかげで至る所に無機質なコンクリート臭が漂っていた。 『防犯課』もまた例外ではなかった。敷き詰められた書類棚が壁に並び、その部屋の中心には署員の机が向き合って並べられている。 大瀬由香、中島徹、荒木美緒、各々が机に突っ伏して書類仕事没頭している。 その中の一つ、大瀬の頭が起き上がった。 よし 吐息のように小さくつぶやきながら、書き上げたばかりの書類を片手に花井信也の机に向かった。 「課長、お願いします」 大瀬は片手の書類を机上に提出した。 花井は大瀬の書類を手に取り、凝視した。 「よし、ご苦労さん」 「じゃあ私、巡回行ってきますね」 「こら、そういって時間つぶしに行くつもりだな?」 「え?そんな・・・私はただ、地域の安全を守るために・・・」 「地域の安全?守りたいのは自分の時間じゃないのか?」 「そんなつもりはないです、心外です」 「だったら、個人の携帯電話は置いていけ」 「え?そんな・・・どうやって連絡をとればいいんです?」 「署の無線を使え、何かあったらそこに連絡する」 「いや、使い方、わかるかなあ・・・」 大瀬が気づかないうちに、さっきまで書類を書いていた荒木が隣に並び、花井に書類を提出した。 「課長、私だったら無線使えます」 「荒木君、代わりに行ってくれるか?」 「ええ、地域の安全のために、行ってきます」 「いや、荒木さん凄いなあ、メカニックなんですかね?」 「この無線は制服組が常備しているものだよ大瀬君、知らないはずはないんだけどねえ」 「あれ、おかしいなあ、何か記憶が・・・」 「悪いが、大瀬君は部屋の掃除でもしてくれるかな、ロッカーにモップがあるから」 「はい・・・了解しました」 大瀬は部屋の端にある用具置き場のロッカーからモップとバケツを持ち出した。水しぶきとクチャっというモップの音が静かな部屋の中に響く。 外から祭囃子が聞こえたのはそれから間もなくのことであった。 「ああ、今日はあやめ祭か」 火がついていないタバコを口にくわえた花井が外を見ながらつぶやいた。 香原地区では、五月から六月いっぱいにかけてあやめの花が咲き始める。水郷の町の象徴であるあやめを観光の目玉にしようと、三十年以上前から催す「あやめ祭」、見頃となる六月十七日には様々なあやめを植樹した香原公園周辺で屋台などが軒を連ねる。その祭囃子の音色は数キロ離れた香原署まで届いていた。 「一年が経つのは早いですね」 「そうか、大瀬君と徳利君がここに来たのも去年の今頃だったな・・・」 大瀬は、黙って掃除を続けた。大瀬の言う一年はもう一つの意味があった。それは決してよい意味ではなかった。
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