涅色の月

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「悪かった……」 「何が?」 「その、あの子……大丈夫か?」 「じゃあ、送ってくr……」 「いやダメだっ……」  玄関に向き直ったマリを行かせないとばかりに、俺は玄関の扉に手を突き立てた。 「オレは、文が好きだったよ……」 「知ってる」 「オレは、マナカが心臓くれなきゃ、今ここにはいない。だから、マナカに心残りがあるなら、それをどうにかしたいと思った」 「だから俺と恋愛しようって言うのか? お前は」 「……文は、俺が病床にいる時から、ずっと傍に居てくれたんだ。ドナーが見つかるまで、ずっと」 「マリ……」 「そんな文を、オレは今、置き去りにして来たんだよ」  トドメを刺すその一言に、俺は黙ってマリを見返した。  あぁ、これは真中じゃない。  三木真理と言う、別の人間なんだと、当たり前のことを思う。  真中は俺に、こんなに追い詰める様な喋り方はしない。  大人しそうに見えて、俺がさっき“軽々しく”と言ったことに、マリは怒っているのだと気付いた。 「辛辣だな……」 「ハチ先生がいけないんだ」 「そうだな。俺が悪い」 「オレが憎い?」 「何だって?」 「オレはマナカの命を奪って生きてる」 「それは違う……お前は、悪くない」  救っても救っても、意味がないなんてどうして思えたのだろう。  命を長らえる事で、人を愛したり、空を眺めたり、誰かの為に泣いたりする事が出来る。  マリはそれを、存在で証明してくれている。 「お前が生きていて、良かった」  指先で薄い唇の熱を、首筋の香りを、生暖かい感情の雫を確かめたかった。  真中はこの世から消えてしまったけれど、その命を懸けて俺を探し出し、会いに来た青年がいる。  貰った心臓の記憶を頼りに、大事な人を傷つけてまで、マリは俺の所に来た。  それが無意味なことだなんて、どうして思えるだろう。  細い肩を抱き締めて、その呼吸を確かめる。  神様、お願いだ。もう一度チャンスを――――。  手術台の傍で呆然と立ち尽くした俺の願いを、神はちゃんと聞き届けたのだ。 「ハチせんせっ……苦しっ……」 「あぁ、悪い。つい……」  俺の肩に埋もれた顔を仰ぐように突き出したマリは、その両手を俺の背中に回して呟く。 「マナカが煩い……」 「何だって?」 「心臓壊れそうって言ったの」 「それは困ったな」 「どうしたらいい?」 「どうしようか?」  なぁ、真中。  お前に出来なかったこと、してやりたかった事が、いっぱいあるよ。  こうやって抱き締める事すら出来なかったのは、お前を汚したくなかったからなんて、都合のいい言い訳は今更だ。  お前はいつだって水面からこちらを覗くように、カメラ越しに俺を見ていてくれたのに。 「泣きたい」 「あ、えっ? マリ?」 「何か知んないけど、涙出る……」 「良いよ。泣いていいよ、我慢するな」  そんな事すらお前に言ってやれなかった。  俺は自分の事ばかりで、お前がフランスに行くなんて言い出しても、引き留める事すらしなかった。  お前、あの時俺を試したんだろ?  今更だけど、お前そういうとこあるよな。  明言しない代わりに、俺に言わせようとするんだ。  それが分かってたから、言おうと決心したはずだったのに、躊躇した代償が余りにも大き過ぎて忘れていた。 「オレ……明日が来ない毎日がずっと怖かったんだ。今だって、瞼を閉じるのが怖い時がある。だから多分、文の事は忘れたり出来ない」 「あぁ……」 「ハチ先生も……マナカを忘れなくていいよ。でも、本当は代わりは嫌だ」 「あぁ、お前は真中じゃない。マリ、お前が好きなんだよ」  あの“涅色の月”は、俺の左目だけが写ってる異様な写真だった。  けれど、俺の左目にはカメラを構えた真中が写っていた。  夜勤明けの死んだ魚の様な眸を覗き込んで、真中は満足そうだった。  真中は俺があいつを好きだったこと、とうの昔に気付いていたんだ。  そうして伺うようにこちらを覗いては、こう言った。  ハチは真面目だねぇ――――。  人はいずれ死ぬ。  俺もいつか真中の様に、唐突に明日を失うかもしれない。  もしくは、かつてのマリの様に確証のない明日に怯えるのかもしれない。  でも今、人を愛し、空を眺め、誰かの為に泣いたりする事が、無意味だなんてもう思わない。
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