遥かなる塔のカインヴェール

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 カインヴェールの音がした。  秋空を舞う鳶の群れが雲の間で織物模様をはためかせる姿。天空が鳴らす笛の音に指揮されて、空の舞踊はより雄大に見えた。僕は寝床の中で背中を向ける少女の柔肌を撫でる。  出会ってもう一年が経つのか。 「どうしたの? 朝、まだ早くない?」  毛布を巻き込みながら、君が寝返りを打つ。 「それほど早くもない、と思うけれど? 休日だからね。まだ寝ていてもいいよ」 「うん。そうね。眠いわ。だって昨夜も」  そこまで口にして、君は上目遣いに僕を見た。 「そうだね。休日前だからって、遠慮しなかったからね。お互い」  僕の右腰が小突かれる。  君を寝床に残し、僕は石造りの床に置いた部屋履きに足を入れ、立ち上がった。  窓枠に両手を突く。風に吹かれて半分開いた木窓から街の広場が見えた。遠くには白磁の塔が聳え立つ。  風が頬を撫でた。 「もうすっかり起きちゃうの?」  毛布から顔だけを覗かせて、ぷっくり膨らんだ唇を開く。半身で振り返り、顎を一つ引く。  床には昨夜脱いだ服がそのままになっていた。僕の上着も、君の下着も。 「カインヴェールの音がしたんだ」 「本当? もうそんな季節だっけ?」  君が眠そうな目を真ん丸に開く。 「そんな季節みたいだね。巡り行く時の流れは、神話の時代から変わらないみたいだ」  大仰な言い回しに、君は薄っすらと微笑み、僕は肩を竦めた。  それでも、と空を見上げる。遥かなる塔はいつもこの街の中心にある。  天空へと続く円柱の周囲を回遊していた鳶の群れは、すでにそこにはなくて、東の山々へと、二手に分かれて羽ばたいていた。  秋は地上を赤く染めても、空の色は変えない。天空にある神々の世界まで続く無限の塔の周りには雲もなく、ただ青い。巡る季節にさえ、色彩を変えられない空。変わるのは音だ。秋が深まり西から冬がやってきそうになると、空からカインヴェールの音が降る。 「じゃあ、もう一年経つんだね。あなたと出会って、一緒に暮らしだしてから」 「そうだね。そうなるな。長かったような、あっという間だったみたいな」 「私にはわかんないや。私にとってはこの一年が全てだから。あなたと暮らしたこの一年が、私の」  一年前、鮮やかなカインヴェールが天空から舞い降りた日、僕は真っ白な塔の下で、光に包まれた少女を拾った。空から降ってきた彼女に、過去の記憶は無かった。 「やっぱり、記憶を、取り戻したいかい?」 「それはね。自分が誰だか分からないと、人間は不安になるものみたいだから」 「今でも、不安なのかい?」 「もう、そうでもないかも」  毛布を体に巻きつけて、少女は僕の背後までやってくる。背中に柔らかな頬が押し当てられて、僕はそっと瞼を閉じた。 「私は私。記憶が一年分しかなくても、あなたと一緒に過ごした時間が、私を私にしてくれた。今は、そう思うの」 「それは、僕も同じことさ」  君と出会うまでは、抜け殻だった。空から降ってきた君が、僕に届けてくれたのは、人生そのものだったのかもしれない。  あの日、空から音がした時、僕はきっともう恋に落ちていたのだ。 「あ、本当だ。鳴っている」  君が隣で窓枠から顔を出した。  彼方では、鳶の群れがまた一つの群れへと合流し、雲の間へと舞い上がった。  秋が深まる。  今年もまたこの街に、カインヴェールの音が降る。  【了】
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