或る小説家の遺稿

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 ふかふかのお布団。知らない匂い。まどろみと毛布の感触が心地よくて、まだ優しい暗闇の世界に浮かんでいたくなる。  けれどひんやりとした手に頬を撫でられて、オレは目を開けた。  ――眼前に、帆沼さんがいた。 「うわーーーーーーーっ!!?」 「あ、起きた」 「おわっ!? あーーーっ!? あ゛ーーーーっ!!??」 「落ち着いてほしい」  帆沼さんに宥められるも、オレは驚きのあまり布団を引っ掴んでずるずると後ろに下がった。が、すぐに壁にぶつかってしまう。  その隙に、帆沼さんがのしりとベッドに乗った。その唇には、いつものようにうっすらとした笑みが広がっている。 「……よく寝てたな。やっぱ、だいぶ疲れてた?」 「ほあ、あ、すいません! オレ、ベッド借りちゃったみたいで!」 「気にしなくていい。……俺も楽しかったし」  帆沼さんの言葉にはたと動きを止める。オレの額からは、だらだらと冷や汗が流れていた。  ――楽しかった? オレが寝てるのに楽しかったって、何だ? オレが寝てても楽しめることって?  彼は一体、オレに何を――!? 「ねぇ、膝蹴りと延髄切りを封印して地下闘技場で優勝できれば、オリンピックのメダルは総なめにできるって何?」 「何スかそれ!??」 「あと結局人類はダンゴムシに勝てないってどういうこと?」 「どういうこと!!!??」  聞けば、オレはへらへら笑いながら信じられない寝言をどんどこほざいていたらしい。何それ恥ずかしい。二度と誰かの前でお昼寝できない。  あと、一瞬でもよぎってしまった自分の不埒な考えにとてつもなく自己嫌悪した。引き寄せていた布団で顔を覆い、オレはため息をつく。 「……すいません。オレ、寝ちゃって……。しかも変な寝言まで聞かせちゃって」 「気にしないでって言ったじゃん」 「でも」 「それより、帰らなくていいの?」  帆沼さんは、親指で時計を指す。見ると、短針は既に6の部分を過ぎていた。  ヤバい、まだりんごも買ってないのに! オレは動転してベッドから飛び降りた。 「すいません、今日はありがとうございました! また来ますね、帆沼さん!」 「うん、お願い。あ、あと」 「なんですか!?」 「慎太郎はもっと食べたほうがいいんじゃない? 痩せすぎだよ」 「え、な、なんでです!? オレ結構食べてますよ!」 「そう? 抱き上げた時に結構軽かったから体重計で測ってみたら、同身長同年代の成人男性にしては軽かったけど。健康体重という言葉もあるぐらいだ、これからは気を配ってほしい」 「何してんです!?」  マジで何してるの、この人。でも、そういう意味では帆沼さんの方がもっと食べるべきだと思う。見るからにガリガリなのに。  そう伝えると、帆沼さんはシレッとした顔で言った。 「俺は好きなものしか食べないから」  病気になる前に、お手伝いさんとか雇ったほうがいいんじゃないかな。  不健康な帆沼さんにちょっと呆れながら、オレは靴を履いた。  それから、最後に挨拶をしようと顔を上げる。その時ふと、靴箱の上に乗っかった大きな花瓶に目が止まった。 「……ダリアだ」 「あれ、知ってるんだ」  赤がくすんだダリアが、二本だけ花瓶に刺さって萎れていた。オレは頷き、その花弁に触れる。……忘れるはずがない。だってこれは被害者の口に詰めこまれていた花だ。 「……綺麗な花だろ。とても、不穏な花言葉がついているとは思えないくらい」 「え、そうなんですか?」 「うん」  帆沼さんはダリアを持ち上げると、ぺきりと茎を折った。 「“裏切り”」  そしてやはり彼は、薄く笑って。 「それが、この花に持たせられた意味だ」 「心配した」 「すいません」 「連絡も無い。電話も繋がらない。スーパーに探しに行ってもいない」 「はい」 「とてもとても心配した」 「ごめんなさい」 「そして道中鍵を落とした僕は、君が帰ってくるまで家の前で待ちぼうけを食らう羽目になった」 「そこはオレのせいじゃないです」  ついツッコんでしまって檜山さんに睨まれ、慌てて縮こまる。現世堂に帰ったオレは、檜山さんにお説教を食らっていた。  正座で向かい合わせになったまま、両者無言の時が訪れる。けれどもともと怒るのが苦手な彼は、諦めたように肩を落とした。 「……疲れて友達の家で寝てたってのは、分からないではないよ。事件が起こって気が張ってたんだろうし」 「はい」 「でも、こんな時だからこそ連絡は密にしておきたい。じゃないと僕は、また冬眠明けの熊みたいに家の周りを歩き回ることになるよ」 「すいません」  本当に申し訳なかったと思ってます。反省しています。だから許してくれませんか……とおずおずと檜山さんを見る。いや、オレが悪いのだからこれ以上言い訳を重ねるつもりもないのだけど。でも、あわよくばそろそろ檜山さんといつも通り笑ってご飯を食べたかったのだ。  そんな思いで彼を見つめる。が、腕を組んでいたその人は、オレと視線が合うなりふいと目を逸らした。  ガン、と頭を殴られた気持ちになる。じわりと目尻に涙が滲んだ。 「檜山さん……ごめんなさい……」 「い、いや、いいって。もう許してるから」 「嘘だ、まだ怒ってる」 「怒ってないよ。本当に」 「だって、こっち見てくれない」 「そりゃ君がそんな顔するから……!」 「?」 「あー……なんでもない。うん、ほんとにもう怒ってないよ」  こめかみを押さえて、檜山さんが大きく息を吐く。けれど気を取り直したように顔を上げると、彼は立ち上がった。 「ご飯にしよう。今日は僕が作ろうか?」 「あ、いいです。オレ作ります」 「疲れてない?」 「お昼寝いっぱいしましたから!」 「ほほう、いっぱい」 「すいません」 「じゃ、お願いしようかな」  檜山さんのお許しも出たので、オレは勇んでエプロンをつけた。今日は帰りにスーパーに寄ってきたのだ、リンゴと言わずたくさん具材がある。なんだって作れるぞ。  けれどそうしてキッチンに立つオレの一方で、檜山さんは現世堂のカウンターの方へ向かっていた。 「どうしました? お仕事のやり残しですか?」 「ああ、気にしないで。事件の調査をまとめておこうと思ってさ」 「……何か、進展はありましたか」 「うん。君を探すついでにね、この辺の花屋さんを片っ端から当たってみてたんだけど」 「すいません」 「いいって。……当たってのはダリアの件でだ。事件に使われた花は結構な量だった。だから、ここ一週間の内にまとめて買いに来た人がいるなら、その人が怪しいだろうと思ったのだけど」 「……どうでした?」 「一人だけ、いたよ」  え、と目を剥く。檜山さんは、パソコンを覗き込んでいた。 「男の人なんだけどね。結婚式場で使うんだと言って数日前からダリアを十数本予約して、一週間前ぐらいに取りに来たらしい」 「それは……よくあることなんじゃないですか?」 「調べてみたところ、その男の人の電話番号も名前も全部デタラメだった。該当の式場はあったけど、その人は働いていなかった。つまり彼は、偽名でダリアを購入したことになる」 「はぇ!? じゃあその人が犯人なんじゃ……!」 「どうだろうな。何か関わりがあるとは思うけど」 「なら、麩美さんは無実なんですか?」  尋ねるオレに、檜山さんは首を横に振った。   「いや、僕は犯人は麩美さんだと考えている」 「え……」 「でも、この人も決して無関係ではない。……共犯とまではいかなくても、何かあるはず……」  パソコンに、花屋の監視カメラの映像が映し出される。だぼだぼのズボンをはいてツバの広い帽子をかぶり、マスクをつけた男の人が、ダリアの花束を抱えていた。 「うわっ痛っ」  けれど、何故かそのタイミングで檜山さんがすっ転んだ。……え、今どうやったの? 完全に見逃したけど、普通に椅子に座ろうとしてなんでひっくり返ったの? 「大丈夫ですか!?」 「痛い。机の角で指切った」 「すぐ救急箱持っていきます!」  急いで彼の元へ行き、救急箱を開ける。少し切ったらしい指に絆創膏を貼る間、檜山さんは呆けたようにオレの手元を見ていた。 「あー、これぐらいならすぐ治りますよ。良かった、そんなに深くなくて」 「……」 「檜山さん、終わりましたよ。……檜山さん?」 「……ああ、そうか……。だったら、もしかすると……」 「え?」 「慎太郎君、ありがとう。お陰で糸口が掴めるかもしれない」  そう言うなり、何か閃いたらしい彼はパソコンに飛びついた。そして何やらぶつぶつ呟きながら、監視カメラの映像を数個展開して早送りを始める。  残されたオレはというと、ぽかんとしながらなんとなく画面の隅っこに表示された花屋の映像に目をやった。そこでは、全く顔の見えない人が花束を抱えて去ろうとする所で一時停止されていた。 「……」  肩幅ががっちりとした背中に、頭に浮かんでいたとある男の人の影を消す。ダリアという奇妙な偶然に、年上の友人を連想した自分の短絡さを、オレは一人責めていた。
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