259人が本棚に入れています
本棚に追加
/270ページ
はじまり
午後8時、ちょうど洗濯物を室内に干し終えた時、トークアプリに1件のメッセージが入った。
“川出”と苗字だけをユーザー登録しているその人は、いつも用件だけを簡潔に送ってくる。
『今から大丈夫?』
絵文字もスタンプも、主語目的語さえもない。
私と彼しか分からないやり取り、なんて言えばロマンチックだけれども、実際はそんな大層なものではない。
『行けます』
私も負けず劣らず端的に返すと、返事を待たずにスマートフォンを机に置いた。
今日の夜は例年より気温が低いと天気予報で言っていた。
手近にあったパーカーを羽織ってから、ベランダの窓を開ける。
これを掃き出し窓と呼ぶことは、前に彼が説明してくれた。3個年上なだけなのに、私の何倍も物知りだった。
私が100円ショップで買ったゴムサンダルを履いた時に、ちょうど隣人もベランダに出てきた。隣の部屋との境にある隔て板の向こうで、私と同じように掃き出し窓を閉める音がした。
隔て板の向こうから、川出さんがひょいっと顔を覗かせた。無表情は毎度のことだ。
「お疲れさま」
「こんばんは。今日は少し肌寒いですね」
私たちの交流は、予定の合った日にベランダで数十分話すだけ。おとなり同士のくせに、互いの部屋に上がることはまず無い。
こんなんで私たちが付き合っていると、いったい誰が信じるだろう。
最初のコメントを投稿しよう!