はじまり

1/1
259人が本棚に入れています
本棚に追加
/270ページ

はじまり

午後8時、ちょうど洗濯物を室内に干し終えた時、トークアプリに1件のメッセージが入った。 “川出”と苗字だけをユーザー登録しているその人は、いつも用件だけを簡潔に送ってくる。 『今から大丈夫?』 絵文字もスタンプも、主語目的語さえもない。 私と彼しか分からないやり取り、なんて言えばロマンチックだけれども、実際はそんな大層なものではない。 『行けます』 私も負けず劣らず端的に返すと、返事を待たずにスマートフォンを机に置いた。 今日の夜は例年より気温が低いと天気予報で言っていた。 手近にあったパーカーを羽織ってから、ベランダの窓を開ける。 これを掃き出し窓と呼ぶことは、前に彼が説明してくれた。3個年上なだけなのに、私の何倍も物知りだった。 私が100円ショップで買ったゴムサンダルを履いた時に、ちょうど隣人もベランダに出てきた。隣の部屋との境にある隔て板の向こうで、私と同じように掃き出し窓を閉める音がした。 隔て板の向こうから、川出さんがひょいっと顔を覗かせた。無表情は毎度のことだ。 「お疲れさま」 「こんばんは。今日は少し肌寒いですね」 私たちの交流は、予定の合った日にベランダで数十分話すだけ。おとなり同士のくせに、互いの部屋に上がることはまず無い。 こんなんで私たちが付き合っていると、いったい誰が信じるだろう。
/270ページ

最初のコメントを投稿しよう!