ドナーの記憶

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ドナーの記憶

「上田さん、上田さん――」  覆いかぶさるような黒い影の向こう側から耳に、いや脳に直接入り込んで来るような不気味な甘い声。  寝たきりの私の枕元に立つ、全身黒づくめの銀髪の女性。その瞳は墨汁を流し込んだように真っ暗で何も映し出さない。  手足が異常に長く、全身は折れそうなほどに細かった。  闇夜のように真っ黒で美しく、怪しげな雰囲気をまとった女がそっと寝たきりの私の顔をのぞき込む。華やかなかおりは、なぜか私に献花を連想させる。  とうとうお迎えがやってきたのだろうか。  声すら自由に出すことのできない口で、寝たきりの私は必死にあえいでいた。  ゆっくりと、意識が自分の奥深くへと沈んでいった――。  カーテンで閉め切られた薄暗い部屋に、いくつもの規則的な機械の音が響く。  私は人工呼吸器をつけて仰向けに寝かされたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。  もう何度も見慣れた、薄ら寒い白色に染められた部屋。  清潔感をイメージしたいのか、病室のなかは壁も床も天井に至るまで、白一色だった。  ため息すら自由につくことが出来ない私の胸の上で、大きなペースメーカーが正確なリズムを刻んでいる。  重度の心不全を患った私の心臓は、すでに治療手段を失っていた。今、なんとか機械の力で脈打っているこの心臓は、もはや治る見込みのないものなのだ。  延命治療は虚しく、そして途方のないものであった。  私の命が助かる唯一の方法は、心臓の移植手術を受けることである。  しかし、臓器移植とは受けますという意思を示せば簡単に移植を受けられるものではない。  臓器を提供してくれる誰かがいなければ、成り立たない治療法なのである。  移植希望者(レシピエント)ととして登録して数か月、未だに私への臓器提供者(ドナー)は現れていない。  ――もはやこれまでか。  五十代に差し掛かった今、私はとある大企業の取締役を務めていた。  必死に生きて全力で働いて、前だけを向いて走り抜いてきた人生。  欲しいものは全て手に入れてきた。世に言う『勝ち組』を地で行くような人生であった。  その勝ち続けた旅路の終わりが、どうしても手に入らないものによる終焉だとはあまりにも皮肉である。  心の中に、自分ではどうしようもない暗い絶望があった。  希望という光に全身を包まれていると信じていた若かりし日には、気付くことさえなかった闇。それは自らの死病という、まさに自身の暗い影そのものであった。  必死に駆け抜けて、振り返ることさえしてこなかった生き方のなか次第にその影は大きさを増していき、自分さえも飲み込んでしまうのか。  光が強ければ強いほど、影も闇も強くなる。  そんなことは、言葉遊びに過ぎないと思っていた。この病室で、寝たきりになるまでは。  心身を蝕む絶望のなかで、私にはどうしても歯がゆい思いがあった。  もしも自分がもっと自由に動けたら、私自身に必要な心臓だってこの手に入れられた。  自分はそうやって欲しいものを我が手で掴んで生きてきたはずだ。それなのに。  歯を食いしばって悔しさに身震いした瞬間、その声が私の耳元から脳まで響いた。 「上田さん、上田さん――」 「だ、れだ……」  人工呼吸器が邪魔で、満足にしゃべることさえ出来ない。  声の聞こえた左耳のほうに目を向けると、ベッドの影から黒い何かがゆっくりと膨れ上がってくる。  まるで、影が生えてきたかのような光景であった。  伸びてきた影が、じぃっと私をのぞき込むようにかがんだ。  異様な訪問者に私は目を見開く。うめき声は、音にすらならなかった。  黒いハットに黒いジャケット。その下には真っ黒なタートルネックの服を着ている。かすかに見えるズボンも黒の、全身黒づくめの女だ。  長く光を放つような銀髪と病室の白さの中でも際立つほどの青白い顔。  何よりも息を飲んだのが、女の吸い込まれそうな真っ黒な目であった。  墨汁を満たしたような黒目はいっさいの光も映し出さぬ深淵である。  ひとたびそこに転げ落ちてしまえば二度と這い上がることの出来ないような闇。  まるで死神のような出で立ちの美しい女に、私は全身をかすかに震わせた。 「突然の訪問、大変失礼いたしました。上田さんがひどく苦しんでいるように思えましたもので。わたくしは、あなた様の声無き声に導かれて、ついつい足がこちらに伸びてしまったのですよ」  そう言った女の薄い唇が、ぱっくりと裂けるように両側へ吊り上がった。 「ああ、申し遅れました。私、脇坂未明(わきさか みめい)と申します。趣味が高じて世界中の様々なものを取り扱っておりまして、ハイ」  脇坂と名乗った女が慇懃に一礼すると、再び身を乗り出して私を見下ろした。  そのまま手にした名刺を私に握らせる。なんとか動く目でそれを確認すると、名刺には脇坂の名前以外、連絡先や住所など何も記されていなかった。  それにしても、この脇坂という女はどこか怪しい。少女のようなあどけない姿のなかに、ふと身構えたくなるような不気味さを纏わせた女だ。  ――あんたなんて知らん、何者だ。こんな病室まで押し売りか。  突然の異形の訪問者に怒鳴りつけてやりたかったが、私の声はかすれ言葉にさえならない。それでも言葉が届いたのか、意図することを察したのか、脇坂が大きく首を振った。 「いやだなぁ、押し売りだなんてとんでもありません。私はただ、心から上田さんをお助けしたいのですよ」 『私を助けるだと? お前に何が出来る?』  心のなかで叫んだ。すると驚いたことに、脇坂はその問いかけに応えたのだ。 「私なら、あなたにもっとも必要なものをすぐに用意することが出来ます。あなたが望めば、あなたが今一番渇望しているモノを、たちどころに準備することが出来る。そういうことです」  発声すらままならないはずの私の声を拾い、その言葉に答える脇坂。  彼女が私の胸の上に置かれたペースメーカーに指先を伸ばす。 『必要なものを用意するだと? 簡単に言うな。もう何ヶ月、臓器移植のドナーが現れるのを待っていると思っている?』 「いやいやいやいや、臓器移植というのは難しいものですよねぇ。ただ人間が死ねばそれを使っていいというわけでもない。損傷が激しければ使えない。ドナーとして生前の同意がなければ、使えるものでも捨ててしまうだけ。いやはや、これはなかなか手に入らないでしょうね」  ペースメーカーのうえで脇坂の白魚のような指が躍る。  苛立ちを覚え、私は右腕をナースコールのボタンに伸ばした。 『冷やかしならいいかげんに帰ってくれ。じゃないと看護師を呼ぶぞ』 「ああーっと、それは困ります。それに、上田さんもよろしいんですか? 臓器移植に必要なのでしょう、『生きた心臓』が。上田さんに必要な心臓、私ならあっという間にご用意出来ますよ。なぁに、ご心配はいりません。拒絶反応もなく、ピッタリと適合することでしょう。まさに、あなたのためだけの心臓です」  天井を見上げ、大げさに歌うように言った脇坂が人差し指をさしあげた。 「ただひとつ、上田さんが新しい心臓を手に入れるお手伝いさえしてくれれば、それですぐにでも貴方様の心臓を準備をしてご覧にいれましょう」 『あっという間にだと!? そんなバカな』  自分に適合する心臓が手に入る。  私にとってはこれ以上ない申し出である。  しかし、まさか心臓ひとつをただで差し上げますなどと言う話はないはずだ。この脇坂という訳の分からない気味の悪い女は、一体何を企んでいるのだろうか。 「色々と疑問に思うこともおありでしょう。納得の出来ないことばかりで混乱なさっているでしょう。でもいいんですか? このチャンスを逃せば、あなたの残りの一生は薄ら寒い病室のベッドのうえで終わってしまう」  私の疑いを読み取ったように、脇坂が落ち着いた声でささやいた。 「あなたは今大切な選択を迫られているのです。私の言う通りに動き、自ら生きた心臓を手に入れ移植手術を受けて生きていくか。それとも、このまま現れることのないドナーを待ち続けて、この狭い部屋のベッドで無念のまま息絶えるか」  心臓を手に入れることが出来る――。  それは願ってもないことであった。脇坂と名乗るこの女は決して信用出来ない。しかし彼女の言う通り、このままではただベッドのうえで弱っていくだけではないか。  もしも万が一、脇坂が術後に法外な大金を要求してこようと、私の会社ならばどうにでも出来る。一縷の望みがあるのであれば、今はそれに賭けるべきではないのか。 『分かった。あんたの言う通りにしよう。私は心臓を手に入れて、一刻も早く移植手術を受けたいんだ』 「くっふふふふふ……。そうでしょうそうでしょう、そうこなくては! そうです上田さん、今のあなたには新しい心臓が必要でしょう! ああ、貴方が勇気ある選択を出来るひとで良かった!」  脇坂は感に堪えないをいった声で、手を全身にはい回るようにせわしなく動かし恍惚とした表情を浮かべている。  くふ、くふっ、と空気の漏れる音が続いた。  どうやら脇坂が笑っているらしい。  この女はどこかおかしいのではないか、という予感は脇坂がとつぜん取り出した注射器と小瓶によって大きな不安へと変わった。 「おおっと、心配はご無用です。これから、上田さんが少しの間動けるように特製の薬を注射するだけでございますから」 『薬だと? そんなものですぐに動けるようになるなら、私の身体はとっくの昔に回復しているはずだ』 「この薬はあくまで、『上田さんを一定の時間、人工呼吸器などの器具がなくても動けるようにする薬』です。治療を目的としたものではありません。むしろ心臓には負担がかかり、効果が消えればさらに心臓病の症状が悪化することでしょう」 『悪化するだと。なぜそんなものを……』 「くふっ、いいじゃないですか。どうせ数日中には捨てる壊れた心臓なのですから」  捨てる心臓。  言われてみれば確かにその通りである。  新しい心臓さえ手に入れば、今胸の中でろくに機能していないこの臓器とはお別れだ。  しかし、それでもやはり拭いきれない恐怖があった。  唾を飲み込み、私は脇坂にゆっくりと頷いた。  これもすべて、自分の手で新しい心臓を手に入れるためだ。 「念のため、薬の説明もしておきましょう。この注射の主な成分はシルデナフィルという薬品で、本来ならば経口で摂取するものです。世間的にはバイアグラの主成分といえばわかりやすいですかね」 『バイアグラの成分だと、ふざけているのか!? そんなもので、一時的にでも心臓がまともに動くようになるものか!』 「いやいや、このシルデナフィルという薬は様々な分野で研究が進んでいる薬品なんですよ。薬物の原理は脳を介した血管の拡張の促進と血液の循環作用にあります。慢性心不全などの治療としては現段階でもすでに注目されているのですよ。もっとも、上田さんの心臓はすでに末期。この注射で無理やり血液の循環を促したところで治療効果は望めません。あくまで、短い時間動けるようになるための苦し紛れの処置と心得てください」  そう告げた脇坂が、私の左腕めがけてゆっくりと注射器を下ろしていく。針が腕にたどり着くまでの時間さえ楽しむように、顔には不気味な笑みが浮かんでいた。  やがて、腕にちくりとかすかな痛痒を感じた。  少しずつ、薬液が腕に注入されていく。  すべての液体を注ぎ終えると、脇坂が注射器をしまい笑顔でこちらを見つめた。 「いかがですか、上田さん」  ゆっくりと、全身に何かが行きわたっていくように感じられる。  ひどい肩こりをマッサージ師にほぐしてもらったあとのような、心地よい熱感が身体中を駆け巡っていく。 「これは……」  知らず知らずのうちに、声が漏れていた。  息が、出来る。  私は恐る恐る呼吸器を外し、大きく深呼吸した。  血液が活発に動き回っている感覚はどこか高揚感があり落ち着かない。だが確かに今、自分の心臓はきちんと身体に血液を送り出しているようである。 「さて、薬の効果はバッチリのようですね。それではあまり時間がありません、さっそく準備して上田さんの新しい心臓を手に入れに行きましょう」  脇坂は手慣れた様子で私の身体につけられていた機器や点滴の管を外し、私を促した。  確か、着替えが引き出しの一番下に入っていたはずだ。すぐに病院のパジャマを脱いで私服に着替えると、脇坂はその様子を見て嬉しそうにうなずいた。 「では、参りましょう。あなたのための心臓は、すでにご用意してありますので」  ベージュ色の廊下に出ると脇坂を前にして、隠れるようにナースステーションを通過する。勤務に忙しい看護師たちが私の脱走に気付いた様子はない。  エレベーターで一階まで出て、一般外来の入り口から堂々と表に出る。  大通りまでたどり着くと、私は大きく手を広げ深呼吸をした。 「ああ、いつぶりだろう。自分の意志でこんなふうに呼吸出来るなんて」 「新しい心臓が手に入れば、いくらでも呼吸なんてできますよ。ささっ、こちらです」  脇坂はほとんど足を動かしていないように見える。まるで地面のうえを滑っているかのようだ。それでも彼女の歩く速さはかなりのもので、長い間寝たきりであった私はついていくことがやっとのペースである。  病院横の三車線道路から一本細い道へ、もう一本細い道へと曲がっていき、数分も歩くといつの間にか道は人ひとりなんとか通れる程度の狭さになっていた。  周囲をコンクリートの壁が多い、舗装すらされていない道には雑草が生い茂っている。 「こちらになります」  脇坂が足を止めたのは、なんの変哲もない一軒家の前であった。  ふるぼけた鉄製の門扉を開くと、いやな金属音が鳴る。  そのさきにあるのは青い屋根にグレーのペンキが塗られた家があった。  手入れはされていないようで、ベランダは雑草が伸び放題になっている。  脇坂が鍵を開け中に入る。  驚いたことに彼女は靴すら脱がずにずかずかと廊下にあがりこんていった。  躊躇したものの、私も脇坂と同じように土足のまま家の中に入ることにする。  そして居間と思しき場所にたどり着いたとき、私は目を見開いた。 「はい、ごたいめーん! なぁんて、くふっ、少々驚かせてしまいましたかね。こちら、上田さんの新しい心臓の所有者になります」  大きくて重そうな、一昔前前の歯医者の診療にでも使われそうな椅子に痩身の男性が腕と足を結び付けられたまま固定されていた。
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