死に際演技

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「こうしたほうが、苦しむ女性の表情まではっきり見えますよね、くふっ」  大変なことが起きているという、人間的な私の内面は焦り恐怖していた。  しかし、今目の前で最も求めていたものが展開されているという女優の顔の私がその葛藤に勝り、瞬きひとつすることなく苦しむ女性を見下ろし続けた。 「あっ! あっ! あああっ! ぜっ、ぜぇ、うぷっ! ごぼ! ごぼ! あぇ……。うううああ、え、あ……あ、あ、あ……か、さ……」  一瞬天井に伸ばされた女性の手が、ぼとりと地面に落ちる。  声すらほとんど発しなくなった女性が、ガレージの冷たいコンクリートのうえでビクビクと痙攣を繰り返いていた。 「これが、ひとが死んでいく様……」  呆然と立ち尽くしたまま、私はなおも痙攣を続ける女性に目が釘付けになった。  やがて、数度大きな痙攣を繰り返したのち、女はまったく動かなくなった。  死を、目の当たりにした。  その事実が、私のなかに大きな塊として沈み込んでいく。 「さて……それでは、後片付けは私がやっておきますので、西原さんは裏口よりお帰り下さいませ。こちらですわ」 「え、ええ……お願いね」  なかば呆けたまま、私は脇坂に導かれて裏口からガレージをあとにした。  ふらつく足取りでマンションへ帰る。  ついに、私は目撃したのだ。ひとの死のなんたるかを。  それは抱えきれない衝撃とともに、役者としての、今回の舞台の最後を任された人間としての喜びでもあった。  ――これで、完璧な演技が出来る。  シャワーを延々と頭から浴びながら、私はかすかに微笑んでいる自分に気付いた。  それから日々、私の死の演技の練習が繰り返された。  舞台でどれほどチヤホヤされても、マンションに作ってある練習スペースでひとり何度練習を重ねても、あの境地へは達せない。  本当の死。  命が身体から少しずつ抜け出し、やがて冷たい遺体となるまでの過程。  何度となく、苦しみもがき地面にのたうち、生を吐き出すような練習を繰り返す。  それでも、届かない。  あの圧倒的な死の迫力の前では、私の死の演技は児戯に等しかった。 「どうすればいいの? 経験していないから出来ない? そんな甘えはダメ、私は女優なのだから。もっともっと、死へ近づかなくては」  食事の量が減り、徐々に痩せていった。  目つきも、前よりもずっと鋭くなった。舞台監督に言われて気付いたことである。 「西原さん、最近ちょっと詰め込み過ぎじゃない? それにやせ過ぎちゃうと、役柄からも遠くなっちゃうからさ、適度に! 適度に行きましょ!」 「そーっすよ西原さん。もう演技は完璧なんですから。あとは公演を待つだけです。皆で一丸になって、がんばりましょ」 「あたし、西原さんと共演出来て本当に光栄です、毎日が新しい発見ばっかりで! これがほんとの女優なんだって、稽古のたびに実感します。一緒の舞台に立てることが、本当に嬉しいです!」  彼らの励ましや賞賛の言葉は、私には重荷にしかならない。  自分が完全に出来ていないことは、自分自身が誰よりも知ってしまっているのだから。  あるいは、あの女の死を見ることがなければここまで苦しむことはなかったのだろうか。  しかし、私は自分の演技を高めていきたい。  そのためには、あれは大きな前進だったのだ。  私は、あの普段生きていく中では決して見ることの出来ない壮絶な光景を、糧にしなくてはいけない。  夕暮れ、舞台稽古の帰り道、あの少女に声をかけられた。脇坂未明である。 「西原さん、お久しぶりです」 「あなたは……まだ、舞台練習のスタッフをしていたの?」 「はい。黒子役のようなものですから、西原さんはお気づきになってないと思いますが、ここ数日の稽古も拝見させていただいておりました」 「そう……」  私は顔を伏せた。  脇坂は人殺しである。しかし、あの死体をどうしたのかはあまり気にならなかった。  もちろんそれはとんでもなく大きな事件だが、私にとって重要なのは演技のほうである。  そして、私と同じく死を目の当たりにした彼女が私の演技を見ていたということに、恥ずべきような思いを感じた。  あの領域には、まるで届いていない。  それは脇坂も、よくわかっているはずだったから――。 「こんなことを素人の私が言ったら生意気で、本当に申し訳ないんですけど……。西原さんの死の演技、前よりずっとずっと良くなりましたね」  微笑みを浮かべて、どこかとりなすように脇坂が言った。  私は小さくかぶりを振った。 「あなたがその……実演を見せてくれたし、それを私は私なりに日々研究しているから。でも、あなたにはハッキリ言って欲しいの。私の演技は、あの死の域にまで達することは出来ていないでしょう?」 「それは……はい。残念ですが、西原さんの演技はまだ本当の死には至っていない、と言えると思います」 「やっぱり、これが私の限界なのかしら」  うつむいて言葉をこぼした私に、脇坂がねばつくような声で言った。 「いいじゃないですか。所詮は『演技』なのですから」 「なっ……!?」  思わず顔をあげると、脇坂が口角をつりあげて笑っていた。 「西原さんは、演劇の世界においてはトップレベルの死に際演技が出来る。それでいいじゃないですか。演技は演技。どこまでも本物にこだわる必要はありません」 「……言いたいことはわかる。けどね、私は本物に少しでも近づきたいの!」 「もう、十分に近づいています。演劇界において、死んでみせろと舞台の上で演らせたら、あなたほど出来る人がいかほどにいるでしょうか? もう、西原さんは上り詰めているんです。これ以上、いいじゃないですか」  くふっ、と脇坂が声を漏らして笑う。  まるでここがお前の限界だと言われているようで、私は頭がカッとなった。  しかし、すぐにその熱も下がっていく。  脇坂の言葉は腹立たしい。だが、的確に事実を述べている。それがわかるのだ。 「どうすれば、いいと思う?」 「私は西原さんを見てきました。ドラマなどでご活躍していたときからずうっと。もう、あのころより何段もレベルアップなさっておりますわ。それでいいと、認められないのですか?」 「認められない。私は、完璧な死を体現したい」  ああっ、と声を漏らし、脇坂が自分のほほに右手をあてた。 「それです。ストイックすぎるほどのその姿勢こそ、私があなたを大好きな理由。私は嬉しい、あなたがあなたで有り続けてくれることが。ここまで上り詰めても一切の慢心なく自分を追い込んでいく姿勢が、本当に嬉しい! ……たとえ、実際には実現できない演技であっても、ね」  くふっ、くふふふふふっ。声を漏らして笑う脇坂。  私はどこか恥じ入る気持ちになった。彼女は私を認めてくれている。そのうえで、死の演技は足りないとはっきり言ってくれているのだ。  ここがあなたの限界ですよと、突きつけられているようなものである。  芸能界で演技派女優として生き残る。  そのための舞台、そのための練習であった。だけど、今は違うと気が付いた。  私のなかであの舞台の最後のシーンは、自分の限界との戦いになっていたのである。
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