スタミナ丼とじゃがいもの味噌汁、もやしのナムル

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スタミナ丼とじゃがいもの味噌汁、もやしのナムル

   ウサギが落ちていた。  いや、正確に言うならば、ウサギの格好をした人間が落ちていた。  もっと正確に言えば、そうだな、ウサギの耳を模したカチューシャを頭につけて、首には襟付きの黒い蝶ネクタイ、身体のラインにぴたりと沿う、黒い水着のようなものを身につけた人間が落ちている。足にはハイヒール。  つまりバニーガールと呼ばれる類のものだ。 「なんでこんなところに……」  俺は低くつぶやく。  なんでこんなところに。  秋も深まる十月の終わり。  夜明け前の濃紺色に包まれた新宿歌舞伎町のゴミ収集場に、バニーガールなんかが寝っ転がっているのか。  不思議な光景かと言えば、そうでもない。  ここはそういうことが起きたっておかしくない街だから。  すなわち、酔っ払いがその辺りの路上で寝ていることはままあるのだ。  しかし、それにしたって、必要最低限隠すところを隠したような格好でゴミの上に倒れてる人間を見たのははじめてだった。 「人形か?」  もしかしたらマネキンの類なのかもしれないと思った。  やけに派手なピンクのボブヘアをしているし、白い手足は棒っきれみたいだ。  人形だとしたらたちが悪い。こんな目立つような場所に捨てるやつがあるか。  だが、人形じゃないとしたら。 「死体か?」  その線も侮れない。ここはそういう街だからだ。  ひとまずその首に手を伸ばす。片手で容易く手折れそうな首だ。  そっと触れると冷たかった。  だが。 「生きてるな。おい、大丈夫か」  脈を確認して声をかけた。ついでにぺちぺち頬を叩く。 「おい。意識はあるか。俺の声が聞こえるなら手を握り返せ」  ウサギは軽くうなり声をあげる。  俺の手を微かに握り返すと、閉じていた瞼を持ち上げる。  大きな瞳は吸い込まれそうなほど深い、闇色をしていた。  とろんと眠たげな瞳を見つめていると、握られていた手を引かれる。  結構な力だ。  身体が前につんのめり、俺はウサギに覆い被さるようにその上に落ちた。 「たすけてよ」  耳元で鼻にかかったような甘い声がした。  その瞬間、ぞわりと肌が総毛立つ。身体を起こそうとしたら首に腕が絡みついてきた。一緒に起き上がったウサギが夢でも見ているかのような目をして笑う。 「ねぇ、たすけてよ」  微かに酒臭い。やはり酔っ払いだ。 「助けてとはどういう意味だ。酔って動けないなら警察に連れて行く。そこで介抱してもらえ」 「ちがうよ、ぼく、おわれてるんだ」 「追われてる?」 「そう。このままじゃころされる」 「殺される?」  口元に笑みを浮かべての発言にしてはやけに物騒だ。 「どこの誰に追われていて、どうして殺されそうになっている」 「そんなにいっぺんにしつもんしないでよ」 「ただ事じゃないだろ。交番まで連れて行ってやるから、そこで事情を話せ」 「けいさつはあてにならないし、そもそもすきじゃない。ぼくがおねがいしてるのはあなたにだよ」 「俺はただの一般人だ。お前を助けられない」 「そんなことないよ、ねぇ」  ウサギは両腕に力を込めてぐっと顔を寄せた。  顔を寄せれば寄せるほど、チョコレートのようなウイスキーのようなやけに甘ったるい匂いが強くなる。  ウサギは悪魔みたいな笑みでこう言った。 「ぼくはどこにもいくところがないし、このままじゃころされちゃうし、そうじゃなくたってこんなところでねてればしんじゃうよ。つべこべいわずに、ぼくをたすけてよ」  なんて強引で身勝手な願いの押し付けだろう。  だけど、どうしても目が逸らせなかった。  黒くて、まるで俺の心の奥底まで見透かすような瞳から逃れられない。  いくらでも振り払うことはできたのにしなかった。  普段飲まない酒の匂いに酔ったのかもしれない。軽く目眩がした。  俺は頷いて、ウサギを抱きかかえた。  小さくて軽いウサギを、歩いて十分、一人暮らしの狭いアパートに連れ帰っていた。
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