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第41話 破滅の序曲
その日も彩水は黒家の邸宅を訪れ、義父である蛇水を見舞っていた。二階にある蛇水の寝室に足を運ぶものの、義父はいつもに増して顔色が悪く、ひどい咳を繰り返している。
蛇水の寝室は南側にあり、黒家邸の中では最も日当たりの良い部屋であったが、北側にそびえる《関東大外殻》のせいで、一日の大半が日陰となってしまう。そのせいか黒家邸は年中じめじめとして、屋根瓦や壁、塀までもが苔に覆われていた。
もう少し部屋に日が入り、風通しも良ければ、蛇水の病状も多少は改善するのかもしれないが、黒家は《レッド=ドラゴン》から割り振られたこの土地以外に居を構えることを許されていない。だから、どうにも手の打ちようが無いのであった。
「父上、今日のお加減は如何ですか? ……家政婦に泣きつかれましたよ。父上が薬を残されている、どうしてもお飲みにならないと。どうかお体を大切にしてください。父上は黒家にとって、なくてはならない方なのですから」
彩水は寝室に常備している水差しの水を取り替えながら口にするものの、蛇水は上半身を起こしたまま、うるさそうに一瞥する。
「ふん……薬など飲んだところで効果は無いわ。自分の体は自分が一番よく分かっている。儂はもう長くは……ゲホッ、ゲホッ!」
「そのように仰らないでください。家の者が悲しみます。みな父上の回復を心から願っているのですよ」
「貴様こそ妙に機嫌がいいではないか。何を企んでいる……?」
どす黒い顔色で咳をしつつも、ぎろりと眼光を閃かせる蛇水に、彩水は静かに笑みを浮かべて見せた。
「企むなどまさか……私はただ、父上に一刻も早く回復していただきたいだけです」
「ふん……おためごかしはよせ。それより例の『商売』はどうなっている?」
「例の『商売』、ですか……」
「とぼけるな。『お客人』との共同事業のことだ」
とぼけているわけではない。百も承知の上だが、不愉快なことを思い出してしまって一瞬、感情のやり場に困っただけだ。しかし彩水は、そんな事はおくびにも出さず、にっこりと答える。
「ああ……あれですか。ご心配なく。万事、順調に運んでいますよ」
蛇水はそれを何の疑いもなく受け入れた。
「そうか、それならいい。あの事業を紅家に嗅ぎつけられでもしたら面倒なことになる。くれぐれも慎重に事を進めよ」
「……ええ、分かっております」
彩水が従順に答えると、蛇水は再び激しい咳をする。
「こちらのお水をどうぞ」
彩水は水差しから水を注いだコップを差し出すが、蛇水はそれを制すると、まるで犬でも追い払うかのように、痩せこけて節くれだった手を振るのだった。
「もう良い。下がれ。儂はもう少し休む」
「……失礼します」
彩水は蛇水が寝所で横になるのを見届けてから、陰気きわまりない寝室を後にすると、廊下を歩きながらひとり考えた。
(父上はいよいよ危ういな。いつ危篤状態になってもおかしくない)
彩水は真実を蛇水に告げなかった。『お客人』との『共同事業』はとうに紅神獄に嗅ぎつけられ、その責任を取って彩水がブラッド=チェンの首を刎ねて、清凛園に火をつけたことを。
放火には証拠隠滅の目的もある。あの施設に黒家に繋がる証拠が残っていたら困るからだ。本音を言えば、清凛園に捕らわれていた子どもも処分したかったが、訳あってできかった。少しでも《レッド=ドラゴン》における黒家の風当たりを和らげる必要があったし、《死刑執行人》たちの動きも牽制しておかねばならない。だから、わざわざ火を放つ前に子どもたちを地下から運び出したのだ。
その事実を彩水は蛇水に報告しなかった。今の蛇水にまともな判断能力や責任能力があるとは思えないし、事実を教えたところで、また怒り狂って泣き喚くのがオチだろう。
(父上は……黒蛇水はもう長くはないだろう。あの男が鬼籍に入れば、黒家の立場はますます悪くなる。まったく……泣きっ面に蜂とは、まさにこの事だな)
今回の件で、彩水に対する紅神獄の心象は確実に悪化しただろう。人身売買の後始末をしたことで、どうにか最低限の信用を繋ぎ止めたものの、はっきり言ってさほど役に立つとは思えない。まったく、頭の痛いことばかりだ。
「そういえば……」
紅神獄のことを考えたせいで、ひとつ思い出したことがある。それは清凛園に繋がる地下トンネルで、久しぶりに実弟の狼と再会した時のことだ。
狼はセーラー服の獣耳少女と、清凛園から助け出したと思われる日本人の少女を連れていた。
その日本人の少女の顔を、どこかで見たような気がして、彩水はずっと引っ掛かっていた。彼女をどこで見たのか。それを今、ようやく思い出したのだ。
(あの少女の顔は誰かに似ていると思っていたが、ようやく思い出した。紅神獄に似ているんだ。目鼻立ちや、あご、耳たぶの形……他人とは思えないほど酷似している)
彩水はかつて《紫蝙蝠》の長として組織を率いていた。《紫蝙蝠》は暗殺だけでなく、諜報活動の一端も担っていた為、彩水は一度見た人間の顔は決して忘れない。そういった訓練を受けているからだ。
骨格ごと脳内に記憶するので、化粧をしようが髪形を変えようが、たとえマスクやサングラスをしていても対象の顔を見分けられる。雰囲気の変化に騙されないのだ。
だからこそ彩水は驚いていた。あの少女は紅神獄と何の関係も無いはずだ。もし関係があれば日本人の格好をしているわけが無いし、そんな要人が人身売買組織に捕らわれているはずもない。
それなのに、少女の顔立ちは紅神獄に瓜二つだった。他人の空似だと無視できないほどに。
(紅神獄には子どもはいないはずだ。それに《レッド=ドラゴン》の首領である彼女に子どもがいたとして、その子が日本人として生きているのは不自然だしな……それにしては、よく似ていたが。あの少女と紅神獄は本当に何の関係のない、赤の他人なのか……?)
いったいどういう事なのか。彩水は少女と出会った時のことを再び思い出してみる。
あの時は暗い地下トンネルの中だったため、少女の姿は良く見えなかった。おまけに少女は頭から血を被っていたため、余計に見分けがつきにくい状況だった。いかに《紫蝙蝠》》の長であった彩水といえど、先入観が勝ってしまった可能性はある。
いや、そんな事はあり得ない―――彩水はそう頭を振る。この自分が紅神獄によく似た顔を見間違えるはずがない。
もう一度あの少女に会えば、すべてがはっきりする。それは分かっていたが、そのためだけに《中立地帯》へ足を運ぶのも躊躇われた。
《中立地帯》は《死刑執行人》の巣窟だ。潜入するには、あまりにも危険すぎる。
真偽のほどを確かめられないのであれば、よけいな詮索をしても仕方がない。ただの気のせいだ―――自分を無理やり納得させつつも、彩水はやはり考えずにはいられないのだった。
あの偶然に見かけただけの少女は、いったい何者なのだろうと。
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