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ドリームキャッチャー
その老婆と出会ったのはアメリカ、ブルックリンのダウンタウン。
低所得層向けのアパートの屋根が煤けた青空を細長く区切る峡谷の底、建物の外壁には色褪せたポスターや、それを剥がした痕跡が皮膚病の斑点の如く穿たれている。
風に吹かれて舞う紙屑は丸めた古新聞、お世辞にも治安がよいとは言えない猥雑な街並み。
「夢見が悪いんだろ」
道半ばで振り返る。
露天商の老婆がいた。
鞣革のように日に焼けた皮膚に深い年輪を刻んだ老婆が、路傍に一枚の大きな布を広げ、アクセサリーや雑貨などの商品を無造作に並べている。
背中にライフルを担いだ青年は老婆へと歩み寄り、布の上に広げられた商品をつぶさに観察する。
くすんだ銀のアンクレットにビーズの腕輪、兎の足のペンダントや小鳥や動物をモチーフにした木彫りのマグネットなど、よくいえば素朴なハンドメイド、ありていに表現すれば目新しさのない陳腐なラインナップ。
インディアンの末裔とおぼしきエキゾチックな風貌の老婆は、落ち窪んだ黒曜石の瞳に預言者じみた達観を宿し、一つの装飾品を掲げてみせる。
「ならばこれはいかがかね」
「それは?」
「ドリームキャッチャーだよ。インディアンのお守りだ。枕元に吊るしておくと悪い夢を捕まえてくれる。網目をすりぬけて頭に吸い込まれるのは良い夢だけさ」
老婆の手からぶらさがる不思議な形状のアミュレットに、好奇心と疑念の綯い交ぜとなった凝視を注ぐ。
皺ばんだ手の中でかすかに揺れるドリームキャッチャー。
蜘蛛の巣を模した複雑な形状に革紐を編み上げて、カラフルな羽飾りを括り付けたインテリア。
中心の輪の部分から深淵の目が覗いている。
「悪夢よけのおまじないか」
「これがあればいやな夢は見ない」
「本当?」
「信じるものは救われる。天国にいるような気分でぐっすり眠れるともさ」
少し悩んだあと青年は老婆の手に紙幣をのせる。
老婆の手から青年の手へ、ドリームキャッチャーが受け渡される。
「ありがとう。お釣りはいらないよ」
青年は背中のライフルをおろし、その場で片膝ついて今しがた買ったばかりのドリームキャッチャーを邪魔にならないよう銃身に括りつける。
器用な手つきでドリームキャッチャーを銃身に結わえる青年を、座した老婆は黙って見詰めている。
いやな夢を追い払ってくれるインディアンのおまじない、快適な眠りをもたらす魔法の道具。
なればこそ、人殺しの道具に付けるべきだ。
痛みや恐怖を感じる暇を与えず、死の自覚すらないままに迅速に死に至らしめる。
弾丸一発で天国に叩き込む標的にこそ、優しい夢に守られた無謬の眠りを約束すべきだ。
安眠と永眠を秤にかけたら後者が重い。
「お前さん、人を殺したね」
「……まあね」
「何人殺したね」
「さあね」
責めるでも詰るでもなく、ただ事実を確認するような老婆の問いにはとぼけて言葉を濁し、ライフルを担ぎ直して立ち上がる。
銃身に吊るしたドリームキャッチャーがその拍子に軽く揺れ、見えない蝶の如く白昼夢の残滓が網目をすりぬけた。
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