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第一章
1
五月も終わりに近いある日の夕暮れ。帰宅ラッシュの電車に揺られ、いつもの様に亜希子は帰って来た。吊り革につかまって、片手で文庫本を読みながら。
いつも読む本は近所の図書館で借りているのだが、行き帰りの電車と昼休みにしか読まないので、いつも返却期限を過ぎてしまう。
面白そうな本なら何でも読むけれど、やっぱりミステリー系が一番好きだ。事件の真相や犯人は誰か等、面白い展開だと読むのも早いけど、今回の本はいまいちなので、なかなか読み終わらない。
小田急線の経堂駅で降りて、南口の改札を出ると農大通り商店街を買い物をしながら歩く。
スーパーや八百屋等、行き付けの店を何箇所か回って予定の買い物を済ませて行く。
スパゲティにかけるレトルトのソース、お弁当の付け合せにするトマト。朝食代わりに食べるバナナ、飲料水のペットボトル。夜のお笑い番組を見ながら食べるスナック菓子……。
今日はディスカウントショップに6本で600円の発泡酒があったけど、もう両手が一杯で持てないや。
隆夫が一緒にいれば持ってくれるから買えたのに……でもまだ冷蔵庫に3本くらいあったから、今夜飲む分は足りるだろう。
買い物を済ませると、商店街を抜けて車道を渡り、住宅街に入って行く。両手に下げたビニール袋が重く指に食い込んで痛い。
いつもの通りを近くまで来て、アパートへ続く道への角を曲がった時、異変に気付いた。
暗い道を赤い光が照らしては消え照らしては消え……どうやらパトカーが止まっているらしい。
それも一台や二台ではない、ピカピカと点滅を繰り返す赤色灯が、少なくとも三つ以上は見える。
後から考えれば、その時の異変をもっと敏感に感じていれば、側に立っている警察官に、近所の者ですが何かあったんですか? と質問でもしていれば、警戒心を持つことが出来て、あのことも無かったかもしれない……。
その時はとにかく両手に提げた買い物袋が重かったので、何事が起きたのかを見物することもせずに、目と鼻の先にあるアパートへ急ぎ足に向ったのだった。
亜希子の住んでいるアパートは木造モルタルの二階建てで、一階と二階にそれぞれ三世帯ずつ、合わせて6世帯が住んでいる。
薄い壁を隔てて何年も同じ屋根の下に住んでいながら、他の住人とは殆ど顔を合わせることは無い。それこそ何ヶ月かに一度、出かける時や帰って来た時すれ違いに「こんにちは」と会釈を交わすくらいで、それ以上の付き合いは無い。
隣りに住んでいる20代後半くらいの無精ひげの男も、学生なのか、フリーターなのか、一体何をしている人なのか分からなかった。
毎日遅い時間に出かけて行く音が聞こえるので、何か夜中の仕事でもしているのかな……くらいの認識しか無かった。
亜希子のアパートは高級な一軒家の建ち並ぶ住宅街の中の、車道から路地を入って、ちょっと奥まったところにある。場所が分かり難いので、ピザを配達に来た人が辿り着けなかったこともあった。
むき出しのブロック塀に囲まれた敷地へ入ると、二階へ上がる錆びた階段があり、その下に集合ポストがある。
その中から「倉田」と名札の付いた蓋を開く。何も入っていないのでパタンと閉めて、一階の一番奥にある自分の部屋の前へ来る。
買い物袋を二つとも右手に持ち替えて、左手でバックからキーを取り出す。ガチャガチャと鍵を開け、真暗な部屋へ入る。
とにかく重い買い物袋を置いてしまいたい。入ってすぐ床に置き、パンプスを脱いで台所に上がる。
最初に違和感を感じたのはその時だった。室内の空気が動いている……。
ドアの外からではない、ドアを閉めて、一度空気の動きが無くなった後に、まだそよそよと微かに空気が動いている感じがするのだ。
壁のスイッチを入れて台所の電気を付ける。
この部屋には三畳程の台所と六畳の和室しか無い。六畳の方は真暗なままだ。
着替えようと六畳間へ入って、垂れ下がっている蛍光灯のスイッチを引こうとした時、その声がした。
「声出したら殺すからな」
それは霊魂の様にいきなり暗闇から沸いて出た。そんなに大きな声ではなかったけれど、何処か違う世界から響いて来た様な声だった。
ビクッとして振り返ると、目の前に今にも突き刺さりそうな包丁の先端がある。
暗くて顔はハッキリ見えないけど、亜希子が仕事に行っている間に侵入していた何者かが包丁を突き付けているのだ。
「こっち見るなよ、向こう向いてろ!」
弾かれる様に顔を背ける。何が起こっているのかさっぱり理解出来ないまま、身体が縮み上がってしまう。
全くリアリティーが無い。でも今見た包丁の刃には、全体にヌラヌラと魚をさばいた様な血の模様が付いていた。
「言う通りにしないと今すぐ殺すからな」
全身の毛が逆立つのが分かる。
「分かったのかよ! 返事しろよ」
その声は男の様だったが、女性が金切り声を出している様にも聞こえる。アニメに出て来る中性的な悪魔みたいな感じもする。
「おい、分かったのかよ!」
ドカッ、と亜希子の腰の辺りを蹴ったのか殴ったのか分からなかったが、強い衝撃が当たる。
「はっ……はいっ」
亜希子は震えながらぎこちなくガクッと頷く。今殴られた(蹴られた?)腰の後が痛い。その人は項に息がかかる程側にいる。
「電気点けるからな、絶対こっち見るなよ」
亜希子の肩越しにその人の手が蛍光灯のスイッチを引っ張る。
ピカピカッと短い明滅があって、部屋の中が明るくなる。閉めてあったはずの窓を覆うカーテンが風で波打っている。
顔は全く動かせなかったが、亜希子の目に入る範囲で部屋の中が物色されているのが分かる。
「そのまま下に両手をついてうつ伏せになれ」
言う通りにしなければ……硬直して身体の感覚が無かったが、ガクガクとぎこちない動きで膝を折ると、その場に両手をつく。四つん這いになり、スカートが捲くれない様に手で押さえながら両脚を延ばし、腹這いになる。
「両手を後ろで組み合わせろ」
言う通りにする。
「絶対こっち見るなよ、ちょっとでも動いたら殺すからな」
このまま私をあの大きな包丁で串刺しにするつもりなんじゃないだろうか……殺される! 殺される! 殺される! 殺される!
その人は亜希子の腰の上に座り、後に回した両腕を紐でグルグル縛り始める。縛り難いのか無理に引っ張ってギュウギュウと締め上げる。
「ああっ……痛い……あの」
「喋るなって言ってるだろうが!」
恐怖で訳が分からなくなっていたが、口が勝手に言葉を吐いてしまう。
「あの、お願いします、私何も……」
ボカッ! ボカッ! と後頭部に硬い物がぶつけられる。手で殴ったのか足で踏み付けたのか分からないが、脳に響く程凄い衝撃だった。
「黙ってろって言ってんだろこの野郎!」
「……」
何も言えなくなる。感じている恐怖も戸惑いも全くお構いなしに、亜希子は転がされたまま両手の自由を奪われ、うつ伏せにされて馬乗りになられている。
……私の腕を縛ったビニール紐は、雑誌等を縛って捨てるのに使っていた紐かも知れない。押入れに入れてあったはずの。
無理な体勢で後に両手を引き絞られるので、肩の関節が外れそうに痛い。
次に揃えた足首を縛り始める。見えないけど今度は紐ではなく何か細長い衣類で縛っているみたいだ。縛られる感触がさっきの細い紐とは違う、何か繊維質の様な感じがする。タンスにしまってあったストッキングだろうか、マフラーかもしれない。
そうして足首と膝の辺りもガチガチに縛られてしまうと、今度はタオルが横から口を塞ぐ様に渡される。
「口開けてアーンてしろよ」
とにかく言う通りにしなければ……と大きく開けた口の間にタオルを噛まされる。
背中に馬乗りになったその人は、そのままタオルの両端を後に引っ張る。首が持ち上げられて身体が海老反りになる。
顔が宙に浮いた状態でタオルの両端が後で縛られ、大きく開けた口がそのまま閉じられなくなる。
不意に顔に何か被せられる。息を出来なくして窒息させられるのか、それとも首を締められるのかと思ったが、目隠しをする為らしい。
暗闇に包まれて目が見えなくなってしまうと、途端に恐怖が倍増し、耐えられない慄きに自分でもどうにもならず身体が震えてしまう。
「動くなって言ってんだろ、お前そうやって動くんなら死んでもらうからな」
ビクリとして力を振り絞り、震えを止める為に身体を硬直させる。
恐い! 恐い……だっ、誰か助けて!
今にもあの包丁の先端が身体のどこかに突き刺さってくるのではないかという恐怖が全身の神経をささくれ立たせている。
亜希子は声を発することも出来ず、目も見えず、その姿勢のまま固まって動くことも出来ない物体になった。
太ももの辺りに違和感があって、暖かい感触が広がって来る。
ジョジョ~~ジョジョジョジョ……感覚は無いけれど、勝手に失禁しているらしい。
「ああ~っ、お漏らししたんだ」
その言葉のトーンはそれまでの狂暴めいた感じと違い、ちょっと幼いと言うか、やはり男か女か分からない甲高い感じだけれど、何か他人をせせら笑う残酷な子供の様な感じがする。
「しょうがないなぁもう、待ってね、今拭いてあげるから」
呻くことも身をよじることも出来ない、もはや恥かしいと感じることも無い、瞬く間に信じられない事態に陥っている驚きと、受け止め切れない恐怖を超越した亜希子は、完全に物と化している。
フワフワとした感触があって、太腿の辺りをタオルか何かで拭いてくれている様だ。このタオルの感触は……きっといつも風呂上りに使ってるバスタオルだろう。
「僕も小さい頃ね、夜中にオネショした時、よくお父さんがこうやって拭いてくれたんだよ」
僕……今自分のことを僕と言った。ということはやっぱり男なんだろうか、だとするとやっぱり私はレイプされるんだろうか、こんなおばさんでも? 私は38歳だ。こんなことで今更自分が女なんだということを自覚させられていることに、思わず可笑しさを感じてしまう。この非常事態が私の感情を狂わせ始めているんだ……。
だけど自分のことを僕と言ったからって、男の人とは限らないんじゃないか。だって男性にもオカマという者がいる様に、女性だってまるで男性の様な背広を着て、自分のことを「俺」と呼んだりする人だっているのだから。
その人は横から身体をつかんで乱暴に転がして仰向けにする。転がされて腕が下になった時激痛が走る。痛い……そして今度はそのタオルを持った手が前を拭き始める。
スカートを脱がされるんだろうか。でもその人はタオルを持った手をスカートの下から突っ込んで、パンツの周辺を押す様に拭き取るだけで、その手つきもなんだかぎこちない。
小便はすぐに冷たくなって、その人はスカートを捲り上げることもせず、周りを拭いてくれただけで離れてしまう。
亜希子の近くからその人の気配が消え、物音もしなくなる。
物音がしなくなってしまうと、目隠しをされた暗闇の中では、その人が何をしているのかさっぱり分からなくなってしまう。恐い……さっきの包丁の鋭利に尖った先端が目の中に大きく浮かんでいる。
亜希子に分からない様に気配を消して、でも実はすぐ横にいて、今まさに両手で包丁を逆手に持って振り上げ、突き降ろそうとしているのではないのか。
今にもブスッと来るのではないか! 今にもブスリと突き刺さって来るんじゃないか!
「ううっ、ううっ、う~っ! ううう!」
亜希子は言葉にならない呻き声を漏らして吠えたてる。黙っていろと言われたけれど、黙ってなどいられないのだ。身体を襲う絶望的な恐怖が、勝手に身体を震動させて呻き声が上がってしまう。
「黙れっ、黙れ! 黙れって言ってんだろうこの野郎っ!」
ドスッ、ドスッ、ボカッ、ボカッ……メチャメチャに身体を蹴られて亜希子の身体が転がり悶える。
「ううっ、うっ……」
必死に黙ろうとするがどうしても身体が震え、呻き声が漏れてしまう。
「静かにしてろよ! 言うこと聞いてれば簡単に殺したりしないんだから! な、静かにしてろってば」
断末魔の虫の様な亜希子の反応に戸惑ったのか、その人は宥める様に少し穏やかな調子で言う。
亜希子は芋虫の様に蠢きながら必死に嗚咽を堪えている。
あの包丁を刺されたら、私はこのまま死体になって、放置されて、このまま何日も発見されないんだ……きっと腐って、酷い臭いが漂い始めて、身体が半分腐った辺りでやっと訪ねて来た誰かに発見されるんだ……。
もしそうなったら、私の死体を発見するのは誰だろう……隆夫……いや、もう隆夫がこの部屋を訪ねて来る事は無いだろう。
だとすれば会社の人か、今まで一度も無断欠勤なんかしたことなかったから、このまま連絡が取れなくなれば、おかしいと思って誰かが見に来るかもしれない。それともお母さん……。
いや普段から部屋にいても家からの電話には出ずに留守電に応対させたりしてるから、私が何日も電話に出ないからと言って、すぐに不審がってお母さんが様子を見に来ることは無いだろうと思う。
お母さんが訪ねて来るとしたら、それこそ連絡が取れなくなって何週間も経ってからだ。でもきっとそれまで私の死体はもたないに違いない……。
あの人は一体何をしているんだろう……。
亜希子の拒絶反応が収まり、静かな嗚咽を漏らすだけの状態に落ち着くと、また物音がしなくなり、その人が何をしているのか分からなくなってしまった。
お願いだから音を立てて、今あの人が何をしているのか分からせて欲しい。
亜希子は何も見えず、真暗な中で身動きも出来ないまま、荷物の様に転がされている。
唯一辺りの様子を伺うことの出来る耳だけが敏感になって、何か手掛かりをつかもうと必死に作用している。
パタ、パタ、パタ……足音がする……床の上だ、台所を歩いてるんだ。冷蔵庫や戸棚を開けたり閉めたりする音が響く。
何か食べる物を漁ってるんだろうか……。
ガサゴソとビニール袋の中をかき回す音がする。さっき買い物して来て、台所の床に置いた手提げ袋だ。ああ……出来たら冷凍食品とアイスクリームは冷凍庫に入れておいてくれないだろうか……。
袋を破る音がして、ボリボリと食べる音がする。きっとカッパえびせんかポテトチップを食べてるんだ。この音はきっとえびせんの方だろう……後でお笑い番組を見ながら食べようと思ってたのに……。
さっきは失禁して濡れたところをタオルで拭いてくれた。最初は私を嘲笑ったのかと思ったけど、本当に他意はなくただ拭いてくれただけなんだろうか、だとすると狂暴なだけでなく、少しは人間的なところもあるんだろうか、そう思うと少しはホッとする気持ちもあるけれど、やっぱり恐い……。
一体何が目的なんだろう。泥棒なんだろうか? お金? それなら何故こんな古いアパートに入ったの? 私にはお金なんて無い、そりゃ少しは銀行に貯金はあるけれど、とても人に言える様な金額じゃない。
前から私に目を付けてたんだろうか、ストーカー? まさか38歳にもなるオバサンの私にそれは無いと思う……どうやら犯される気配もなさそうだし、言動にそれらしき感じもしなかった……。
空き巣に入っていたところへ私が帰って来てしまったの? それなら何故サッサと逃げてしまわないんだろう。私は顔も見てないんだし、こうして身動きも出来ないくらいギュウギュウに縛られて、口も塞がれてるんだから、叫んで助けを求めることも電話をかけることも出来ないんだから。
でももし空き巣なら、私が帰って来るまでここでノコノコ待っているはずは無いんじゃないか……。
身動きの出来ない暗闇の中で、亜希子はあれこれ考える。考えなくても頭が勝手に錯乱した様に考えあぐねる。そしてある結論を思いついた。
あの包丁に付いていた血の跡は、人間の物なんじゃないだろうか、だとするとあの人はきっと……何処かで誰かをあの包丁で刺して、逃げて、そしてたまたまこの部屋に入って隠れていたのではないだろうか。
そう思った時、全く動かすことの出来ない身体中に悪寒が走る。
もしかしてこのままここに隠れて、立て篭もるつもりなんじゃないだろうか、冗談じゃない……ああ……でも何でそれが私の部屋じゃなきゃならないの。
助けて、誰か……隆夫、隆夫と一緒なら、こんなことにはならなかったのに。いや、もし部屋に入って来た時隆夫が一緒だったら、この人と争いになって隆夫が刺されていたかもしれない、そんなことになったら大変だ。
助けて、誰か……警察の人……あっ! さっきアパートに帰って来る時、近所に集まっていたパトカーの灯り……。アレとこの人は関係あるんじゃないか。近所で何かをやって逃げて、奥まったところにあって人目に付かないこのアパートの、そのまた一番奥のこの部屋を選んで、隠れた……。
暫らく台所でガサゴソと食べ物や飲み物を物色する音がしていたかと思うと、パタパタと台所の床を歩く足音が六畳間のカーペットを歩く小さな音に変わる。
こっちに入って来たんだ……。
何かされるのではないかと身を硬直させていたけれど、何もされる様子は無い。
ピッ、ピッ……聞き慣れた電子音が響く。買い物袋と一緒に台所に置いたハンドバックから、私の携帯電話を出して操作しているんだ。
ピッ……と言う電子音を残して、音が途切れる。電源を切ってしまったのかもしれない。
暫らくまたガサゴソと戸棚や引き出しの中にある雑誌やCDを見ている様な音がして、やがて何処かに腰を下ろしたのか、音が途絶える。
ドアも窓も開ける音はしなかったから。外に出て行ったのではない。
こうなってからどのくらい時間が経ったろうか、澄ましている耳に、時おり雑誌を捲る様な音や、ペットボトルから何か飲んでいる様な音が断続的に聞こえて来る。だがやがてそれも聞こえなくなる。
何の物音もしなくなってからずい分時間が経った様な気がする……。
何も見えない、身動きも出来ないこんな状態では、時間の感覚も麻痺しているだろう。大分長い間の様な気がするけど、感じているより全然時間は経っていないのかもしれない。その人は何も言わない。まるで亜希子のことなどここにはいない様に無視されている。
その時、澄ましていた耳にスー……スー……と微かな呼吸音が聞こえて来る。寝息だろうか……微かだけど確かに規則的に繰り返されている。
……寝ているんだろうか。でも何処で? その音はほんの身近なところから聴こえている気もするし、離れている様な感じもする。音だけでは正確な距離をつかむことが出来ない。
何も見ることは出来ないけど、目隠し越しに微かに光を感じることで、部屋の電気が点けっ放しであることは分かる。
相手が眠っているのなら、このままでも芋虫みたいに身体をくねらせて、玄関のドアの方まで這って行くことは出来ないだろうか。
そう思って身体を少しよじらせてみると、足に何かが当たった。
あっ……と思って身を硬くする。聞こえていた寝息が途切れる。ドキッとしたが、暫らくするとまた聞こえて来る。
すぐ横にいるんだ……私が横たえられている位置関係からみて、私と玄関ドアの間に寝てるんだ。
そうと分かると、這って玄関まで行くことは絶望的に思われる。
縛られた手首と、無理に後へ曲げられた肩と、足首と、膝と、身体中が物凄く痛い。特に痛かった両肩の辺りはもう痛みさえも麻痺して、硬い塊の様になってしまっている。
どうしてこんなことになってしまったんだろう……思っても意味が無いことは分かっていても、どうしてもその思いが亜希子の頭を駆け巡ってしまう。
いつもの様に会社に行って、いつもの様に買い物をして、いつもの様に帰って来ただけなのに……ああ、でもあの何台も止まっていたパトカーを見た時、もっと気をつけていれば……今更そんなこと思ったって意味が無いけど……。
隆夫……助けて、今何処にいるの? もう私のことなんて微塵も頭に無いのだろうか。
別れてから半年くらいが経つけれど、私はまだ全くその事実を受け入れられていない。
「隆夫……」亜紀子は部屋にひとりでいる時、一日に一度はその名を呟いている。ここでよく二人で過ごしていた頃みたいに。まるですぐ横に隆夫が座っているみたいに。時にはまだ隆夫が布団の中でむずがっているのを横目に歯を磨きながら「早く起きないと遅刻するぞ~」と言った朝みたいに、そして幾度と無く過ごしたあの夜の様に。
名前を呟くことで、テレパシーの様な物が働いて、自分の思いが隆夫の心に通じるのではないか……なんて、寂しさに感けてそんなことを考えたこともあった。
「あ、どうも、お久し振り……」
この前久し振りに隆夫の声を聞いた。大規模建築資材部から隆夫が業務連絡をして来た時に、電話を取ったのが偶然亜希子だった。
私も驚いたけど何気ない風を装って「どうも、お久し振り……」と言った。隆夫の方も電話に出たのが私だったことに戸惑ったのか、何処か口調がたどたどしかった。ほんの一言二言交わしただけで他の担当者に換わってしまったけれど、隆夫はもっと喋りたかったんじゃないだろうか。
もしかしたら若い彼女と上手く行ってないんじゃないだろうか、それとも何か問題が起きて、また私を頼りにして来てくれたんじゃないだろうか、それとも私が寂しがっていることを分かってくれてるんじゃないだろうか……そんなことを期待してしまう自分が嫌だった。
本当はさり気無くでも私が今も隆夫のことを応援している気持ちを伝えたかったのに、少しでも鬱陶しく思われるのが嫌だったから、努めて普通に、でも素っ気無くはならないように気を付けて受け答えするのが精一杯だった。
身体中の痛みと疲労に苛まれながら、取り留めもなくそんなことを思い出している。そのうちに意識が朦朧としてくる。
何も見えない視界の中で、ぼんやりと何かを眺めている。それは目の前に置かれたパソコンのモニター画面だった。受注製品の名称と数量のリストがズラリと表示されている。
工務店等から建築現場で使う様々な資材を受注して、その部品ごとに製造している会社へリストアップして発注する。
そして納品書を打ち込み、月末になると請求書を起こして、また受注して発注して……来る日も来る日も画面の表を見てカチャカチャとキーボードを打つ私の手……。
「倉田さん、コレ良かったらどうぞ」
総務の大先輩の小石さんが、先週御主人と行ったヨーロッパ旅行のお土産だと言うパスタで作ったお菓子を、亜希子に向って差し出している。
そんな風に差し出されたのでは断ることも出来ず「すいません」と端からひとつ手に取る。
「良かったよ~ローマは寒かったけどね、行きたかった所全部回ったのよ、やっぱり実際に見ると凄い感動したの……」
小石さんは大企業の重役をしていたという御主人と、度々休暇を取っては豪勢な海外旅行に出掛けている。そして帰って来ると皆にお土産を配り、写真を見せては旅先の事を話したがる。
高い化粧品を使っていつも上品な身だしなみをしているけど、近くで見るとお婆さんの様なシワが目尻や口元に浮かんでいる。
いつも朗らかな人で、亜希子が隆夫と課内恋愛していた時も、隆夫が異動になった後別れてしまってからも、何も無かった様に接してくれたのは小石さんだけだった。
「そうですか、良かったですね」
仕方なく変わったお菓子を食べながら相槌を打って、やりかけの仕事が気になるという素振りを見せる。
「あ、美味しそう、私もひとつ頂いていいですか~」
と横から手を出したのは亜希子と同世代で、やはり独身OLの絵美子さんだ。
「どうぞどうぞ、写真いっぱい撮って来たから、見て見て」
「へぇ~ありがとうございます」
と絵美子さんは小石さんが差し出す写真の束を受け取る。
「いいなぁ~私も是非行ってみたいですね」
「いいわよ~死ぬまでに絶対行くべきよ」
仕事そっちのけで小石さんの話に調子を合わせる絵美子さんのパソコンには、キンキキッズの堂本光一君の写真がペタペタと貼り付けてある。
絵美子さんは確か私よりひとつ若いと言って喜んでいたから、37歳のはずだ。キンキキッズというのは20代のアイドルだけど、最近の男の子のアイドルはずっと年上の主婦層からも人気があるっていうから、まぁいいのかなぁとも思う。
でもついこの間までは、こんなに近くに座っていながら絵美子さんとは殆ど言葉を交わしたことが無かった。
どちらかというと絵美子さんの方で私を避けている様な感じだったのに、私が隆夫と別れたということが社内に広まった頃から、急に親しげに話し掛けて来る様になって、自分が堂本光一君にどれくらい入れ込んでいるのかを説明してくれた。
親しくしようとしてくれるのは良いのだけれど、キンキキッズのDVDを貸してくれようとしたり、一緒にコンサートに行こうと誘ってくるのだけは勘弁して欲しいと思う。
絵美子さんはお菓子を美味しそうに食べながら、小石さんの旅先の写真を熱心に見ている。
楽しそうにお喋りする小石さんと絵美子さんを横目に見ながら、亜希子は忙しいフリをしてキーボードを打つ。
寂しい……この課に隆夫がいた頃は、毎日が楽しくて、こんな寂しさを感じることなんて想像もつかなかったのに……。
住宅建築資材部の中では、二人の付き合いは周知の事実になっていた。
5年前に他の部署から配属されて来た隆夫のことを、亜希子が何かにつけて面倒を診ている姿から、親密になって行く二人の関係は傍から見ても明らかだったに違いない。
私と5歳も年下の隆夫とは、歳の差カップルとして他の女子社員たちが羨む空気になっていた。
行く行くはゴールインするものと見られていたらしいけど、去年の秋に隆夫は大規模建築資材部に異動になった後、そこの受付け嬢と付き合い始めた。
そして社内には隆夫が亜希子を捨てて若い女に乗り換えたと言う噂が流れた。
その頃は周囲の噂話や同情の眼線に居た堪れなさを感じたけれど、生活の為には仕事を辞める訳にも行かず、我慢して勤務を続けて来た。
時に同僚や後輩の女の子たちが、亜希子のいる前では隆夫のことを話題にしない様に気を遣っていることが分かったりすると、凄く惨めになった。
以前と何も変わっていない振りをして、隆夫と別れたことなんて私にとっては大したことではないのよ、という態度を周りに見せたかった。
本当は奈落の底に落ちて真暗になって、何も見えなくなってしまった様な心境だったけど、務めて普通に装っていた。
それが行き過ぎて突然仕事に張り切り出したみたいな感じになったり、ハイテンションで明る過ぎる態度になってしまったりして、自分で自重しなくちゃなんて思うこともあった。
きっとそんな私の心情を想像してる人も多かったと思うけど、本当の辛さを他人に知られるのは嫌だ。
でもオフィスの電話が鳴る度に、もしかしたら隆夫からではないか、と反応してしまう自分がいる。
大規模建築資材部から時おり掛かってくる連絡は、半年前までこちらにいて事情を良く知っている隆夫が掛けて来ることが多い。
電話が鳴って、他の人が取る度に、無意識に耳を向けてしまっている。
「ダメじゃないか! 明和興業さんからまたクレーム頂いたぞ」
「申し訳ありません、何か私のパソコン前から調子が悪いものですから……」
派遣社員の木村由さんが課長のデスクの前でペコペコと頭を下げている。
「そんな言い訳なんか関係ないだろっ!」
課長の牧は相手が弱い立場だと極端に横柄な態度を取る。
派遣社員には何ヶ月かに一度契約の更新があって、その時派遣先の上司の評価が悪いと契約を切られてしまう。その後はまた他の派遣先に行くか、それともそれっきり仕事に溢れてしまうかだ。
派遣社員と言う制度は最初の頃は普通のフリーターよりずっと条件が良いとかで人気があったけど、今は社会的弱者の代名詞みたいになっている。
私の様な正社員なら、労働組合だってあるし、ちょっとやそっとのことで頸になる心配は無いけれど、派遣の人は気の毒だと思う。
いつも課長から嫌味を言われたり、お説教されてもひたすらへりくだって聞いている姿を見ると、本当に可哀相になってしまう。
「倉田さん、雨降って来たけど傘持ってるの?」
「はい、いえ今日は……」
その牧課長が、私が隆夫と別れてから露骨に優しくして来る様になったのには困ってしまう。牧課長は結婚していて子供もいるくせに。
「俺これからタクシーで本社に寄るからさ、駅まで送って行こうか」
「いえ、大丈夫ですので、コンビニで傘買って行きますから」
亜希子としては牧課長を嫌っている同僚たちから疎まれるのも嫌だし、かといって余り邪険に拒絶しても、逆ギレされて意地悪されたり、果ては何か理由を付けてリストラされたりしたのでは堪った物ではない。だから波風の立たない様にやんわりとかわさなければならない。
そんな苦労も、隆夫との交際が続いていれば、あり得ないことだったのに。
昼食は男性社員の殆どは外へ食べに行くが、女子は大体近くのコンビニやお弁当屋で買って来て、空いている会議室で食べる。
亜希子は毎朝自分で作ったお弁当を持って来ている。粗末だけれど、コレが一番安上がりなのだ。
「倉田さんハイ、お味噌汁お湯入れて来ましたよ」
外の弁当屋に買いに行くと言う派遣社員の安高君が、頼んでおいたお味噌汁を買って来てくれた。
小さなワカメが少し入っているだけで、殆どはお汁だけだけど、お弁当のご飯は冷たいので、温かいのが嬉しい。
この会社に来てまだ半年くらいの安高君は、さっき牧課長に怒られていた同じ派遣の木村由さんのことが好きで、一度帰りに居酒屋で相談されたことがある。
「すみません、出来たらちょっと相談に乗って欲しいことがあるんですけど」
安高君みたいな若い男の子に誘われて嫌な気はしなかった。私は隆夫と別れたばっかりだったし、安高君は私と付き合い始めた頃の隆夫と同じ27歳だった。
嬉しい気持ちを隠しながら、一体何の相談だろうと思って付いて行ったけど、それは一緒に仕事している木村由さんに対する恋愛の相談だった。
まぁそうだよな……隆夫と付き合っていた時も、私には5歳年下の彼氏がいる、ってことがちょっと自慢だったけど、安高君は隆夫よりさらに5つも若い10歳も年下なのだ。 そりゃタレントみたいによっぽど良い女でもない限り、私なんかじゃ無理だよな……と思いつつ、彼の話を聞いてあげる。
安高君としては木村さんに何度も自分の好意を意思表示して来たつもりなのだが、木村さんの方からそれとなく言われた話では、どうも安高君が派遣社員であることが問題の様で、木村さんももう20代の後半だから、これから恋愛をするとしたら結婚の対象として考えられるかが大きな基準であり、少なくとも何処かの正社員であることが絶対条件だから、と言われたのだと言う。
安高君も正社員として就職出来る会社を探して来なかった訳ではないのだが、探しても中々見つからないのだ。
可哀相に……と思いながら亜希子には「希望は捨てちゃダメだよ」等と無責任に励ますことしか出来なかった。
午後5時半の終業時間になると、残業でもない限りサッサと制服を着替えて会社を出る。
隆夫がいた頃は、どちらかが残業に引っ掛かっていたりすると待っていたり、お互いに出来ることがあれば手伝ったりして、出来るだけいつも一緒に帰っていた。
隆夫はこれから社内で有力な地位になって行く大事な時期なので、仕事に一生懸命だった。私もそんな隆夫の力になれる様に、二人の付き合いよりも隆夫の仕事を優先する様に心掛けていた。
それでも時間がある時は新しく出来たレストランへ行ったり、話題になっている映画があると観に行ったりしていた。
でもひとりになってしまった今では「無駄なお金は一切使わない」がモットーになってしまい、会社を出ると一目散に最寄の日本橋駅へと向う。
そして地元の経堂駅へ着くと、いつもの安い店を回って買い物をして帰るのが常になっている。
無駄なお金は一切使わない……そう、もうこれからはずっと一人で生きて行かなきゃならないかもしれないんだから、お金が無いと大変なことになる。
"大根踊り" で有名な、小田急線の経堂駅の南口から続く農大通り商店街で買い物をする。
経堂に住む様になってもう7年くらいが過ぎたろうか。野菜が安いのはここ、お肉が安いのはこのお店……。
商店街には同じ様な物を売っている中規模のスーパーが多いけど、あちこちに通った経験で大体何系の物はどの店で買えば安い、というのを把握している。
本当はもう隆夫との思い出が沁み込んだこの街からは引越したいという気持ちもあるけれど、引っ越せばまたお金が掛かってしまうから。それに、まだ隆夫は私の部屋の合鍵を持っている。もしかしたらある日突然フラリと訪ねて来たりしないだろうか、と言う淡い期待を持っている自分もいる。
駒込の実家から通っていた隆夫は、週に二~三度は仕事が遅くなったのでビジネスホテルに泊まると実家に連絡して、亜希子のアパートに泊まっていた。
昨夜もほぼ同じルートを辿ってメモしてあった食料品や飲料水を買い、初老のご夫婦がやっているお総菜屋さんへ寄った。その時間には売れ残った揚げ物や餃子が安くなっているのだ。
「いつも買ってくれるから、ひとつオマケしてあげるわよ」
早い時間なら倍の値段で売っているイカフライとメンチカツのどちらを買おうかと迷っていたら、店のおばさんがオマケしてくれて、ふたつでひとつの値段にしてくれた。
「本当? ありがとう~凄い嬉しい!」
と言って微笑んだ時涙が出てしまった。こんなことくらいでホロリとしてしまうなんて、私ってどれだけ人の温もりに飢えているんだろう。と可笑しくなってしまう。
次に見えて来たのは朝の駅で電車を待っている風景だった。いつもの様に通勤客たちの中でホームに立っている。
あ、コレは経堂駅じゃないな……と思ったら、そこは府中駅だった。まだ府中市に住んでいて、京王線で通っていた頃のことだ。
それは10年以上も前の出来事だった。ホームに新宿行きの通勤快速が滑り込んで来た時、亜希子は突然顔を歪めると下腹部を押さえてしゃがみ込んだ。
異変に気付いた周りの通勤客たちが亜希子に声を掛けて様子を伺ったり、駅員に知らせようとキョロキョロしたりしている。辺りが大騒ぎになってしまい、とても恥かしかった。
亜希子は駅員に抱き抱えられて事務室へ行き、自分の身体に起きていることが理解出来ないまま救急車に乗せられ、救急病院へと運ばれた。
それまで自覚症状が無かった為に気付かなかったけれど、卵巣に出来た腫瘍が破裂していたのだ。
後から考えれば、それらしき兆候はあったのかもしれないけど、私は中学校ではテニス部、高校ではソフトボールをやっていたし、健康と体力には自信がある方だなんて自負していたから、そんな油断もあったのかもしれない。
最初に運ばれた救急病院からさらに搬送された八王子の大学病院で手術を受け、腫瘍の出来ていた片方の卵巣と、転移していた子宮を摘出した。
退院した後も何ヶ月か置きに病院へ通い、血液検査やエコー診断等の検査を受けていた。そうして5年の月日が過ぎた時、担当していた先生から「もう大丈夫ですよ」と病気が完治したと言う診断を受けた。
あの頃は病院へ行く度に、癌が何処かに転移していたらどうしよう、と不安に苛まれる日々を過ごしていたけれど。そんなことも今では懐かしく思い出す様になっている。
あの時子宮を失って、子供の産めない身体になってしまった。でも結婚を前提に付き合っている彼氏がいる訳でもないし、将来自分が結婚して子供を産むなんてことも現実的に考えたことは無かったから、それ程のショックは感じていなかった。
何より癌という病名に命の危険を感じてたから、それどころではなかったのかもしれない。
厳密に言えば残された片方の卵巣から卵子を取り出して、相手の精子と体外受精させて代理母の子宮に埋め込めば、自分の子供を産んで貰うことは出来る。けどそんなことは大金持ちのタレントでもない限り出来そうもない。少なくとも自分には全く現実性のないことだと思う。
私がそんな身体になってしまったことをお母さんは泣いたけど、私はお母さんに心配をかけまいとする意思も働いてか、努めてケロッとしていた。本当にそれ程実感は無かったのだ。
でも手術の後5年間検査を受けて、先生から病気が完治したと言われてから何週間か、何ヶ月か経った頃、何がきっかけだったか忘れたけど、急に込み上げて来る物があって、部屋で一人で号泣したことがあった。
悲しくて泣いたのはその時だけだった。それ程重要なことじゃなかったのだ。それ程には……だって今まで忘れていたくらいなんだから。
脳裏に浮かんで来るいろいろな光景を見るともなく眺めながら、亜希子は硬直して横たわったまま、いつしか眠りに落ちている。というより、疲労の為に気を失ったと言う方が正しいのか。
そしてまた、時おり身体を撫でる微かな空気の動きに呼び起こされて、浅い眠りから呼び醒まされる。
恐い夢でも見てたんだろうか……と思う間も無く、目を開けても何も見えない。手足がガッチリ固定されて動かすことが出来ない。口を大きく開けたままタオルを噛まされている苦しい感覚が蘇って、全てが現実であることを思い知らされる。
やっぱり本当なんだ……ああ、今何時なんだろう。あの人はまだいるの? もしかしたらいなくなってはいないだろうか、もう私を置いて逃げてくれてたらいいのに……。
いるのか、いないのか、耳を澄ましてみても寝息を聞き取ることは出来ない。
さっき足で微かに触れた部分に注意しながら、そうっと身体を転がしてみる……長さにして10センチくらい……太ももの横にその人の身体が触れる。
まだいる……横で寝てるんだ……隆夫……お願い、助けて!
再び絶望に襲われて、何もどうしようもないという気持ちが押し寄せて来る。
ああ……こんなことになるなんて、昨夜はお風呂にも入れなかった。冷水シャワーと熱い湯船を交互に繰り返して入って、血行を良くする健康法をやろうと思ってたのに。
風呂上りにはテレビの健康番組でやっていたストレッチをやって、それから雑誌を見ながら苦労して作った、肌を若返らせる為の "豆乳ローション" を付けて、顔面マッサージをして、寝る前にはシミを消す効果があるビタミン剤を飲んで寝るはずだったのに。
でも考えてみると、今更そんなことをしたって、何になるっていうんだろう……。
隆夫と別れて始めて、自分がもう40歳を目前にしていることに気が付いた。隆夫との5年間が楽し過ぎて、自分が年齢を重ねていることにも気付かずにいた。
今更私のしている努力なんて、無駄なことなんじゃないだろうか。そりゃ私くらいの歳の女なら肌のケアをしたり、身体の老化を防ぐ為の努力は少なからずしているだろう。でももう二度と私が隆夫みたいな若くてカッコイイ男性と付き合えるとは思えない。
それでなくてももうこんな歳じゃ新しい彼氏なんて出来ないんじゃないだろうか、そもそも隆夫と別れてからは、また誰かと恋愛したいという欲求すら無くなってしまっている。
38歳の今になって気が付くと、亜希子に残された生き甲斐は隆夫の存在だけだった。隆夫は何も無かった亜希子の人生にとって、大切な意味になっていたのだ。
こんな今の私にとって、若さを保って出来るだけ綺麗でいる必要なんてあるんだろうか。
あれこれ考えているうちに可笑しくなった。そうだ、もうそんなこといろいろ考えることも意味が無いんだ。だって今こんな状況になって、それこそ全てが終わろうとしているんじゃないか。綺麗でいる必要も隆夫のことも何も、人生が終わってしまえばもう何も関係ないんだから……。
昨夜買い物して来た荷物はあのまま台所に放り出されたままなんだろうか、惣菜屋のおばさんがオマケしてくれたイカフライとメンチカツはこの人が食べてしまったんだろうか。
ここ数ヶ月の間すっかり決まっていた亜希子の生活パターンが、こんな形で途切れてしまうなんて。
結局私はこのまま殺されてしまうんだろうか。明日も6時半に起きてお弁当を作らなくちゃならないのに……。
いつも7時半頃に家を出る。明日は燃えるゴミの日だから、家を出ながら一緒にゴミをまとめて出さなくちゃ。
朝アパートを出て、広い道に出た時いつもすれ違う可愛らしい高校生の少年。自転車に乗って、制服を着ていつも整った身なりの、髪を染めたりピアスをしたりしていない、とても育ちの良さそうな、でもちょっと俯き加減で繊細な表情をした男の子。何の気なしにすれ違いながら、いつもその顔をチラリと見てた。あの子の顔ももう見られないんだろうか。
商店街に入る手前ですれ違う、いつもタバコを吸いながら歩いて来る背広を着たおじさん。近所にある農業大学の職員か何かなのかな。きっと教授とかでは無いと思う。どちらかと言うと冴えないサラリーマン風だもの。
商店街に入ったところで反対側から小さな子供を自転車の前に乗せて走って来る、私と同世代位のお母さんは、きっと子供を保育園に預けに行くのだろう。
商店街を抜けると駅の階段を降りて改札口を抜け、ホームへと向う。そしていつもの乗車位置に行くと、長身でメガネをかけたカッコ良いキャリアウーマンっぽい女の人が電車を待っている。
電車に乗ると凄い混雑で、気を付けないとバックの中でお弁当が引っくり返っちゃう……。それでも苦労してバックから図書館で借りた文庫本を出して読む……。
そのうちに外でチヨチヨと鳥の鳴く声が聞こえて来た。きっともう朝なんだ……。
2
いつも6時半にセットしている目覚まし時計は鳴らないだろう。
プルルルルル……。
しんとした部屋に大きな音が鳴り響く。
家の固定電話が鳴っているのだ。
その人が身をよじる気配がする。電話はすぐに留守番電話に切り替わり、応答用の亜希子の音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
ピーッ……。
「……」
相手は何も言わず、ブツッと切れる音がしてプーップーッと不通音に切り替わる。
「午前9時30分です……」
着信時間を告げる電子音声がして沈黙する。
午前9時30分……きっと会社からだ。めったに遅刻したことの無い私が始業時間を30分も過ぎても来ないので、心配した誰かが電話を掛けて来たんだ。
その音で目覚めたその人はガサゴソと起き出して、台所に行ったり、部屋のカーテンを捲ったりしている音が聞こえる。外の様子を伺ってるんだろうか。
ジョロジョロとおしっこをする音が響いて来る。トイレのドアを開けっ放しで、立ったまましている。隆夫が来ていた頃によく聞いていた音だ。私がドアを閉めてしてよ、と言ってもちっとも聞いてくれなかった。今にして思えば懐かしい音だなと思いつつ、やっぱりこの人は男の人なんだなと思う。続いてバシャーと水を流す音。
ああ、今日は会社を無断欠勤することになってしまう……。
隆夫と別れて以来、会社での周囲の目線が嫌だったけど、生活の為には仕事を辞める訳にも行かなくて、気にしない振りをして頑張って来たのに。牧課長のセクハラもやんわりとかわして、周りにも気を遣って勤めて来たというのに。
もしこのまま何日も無断欠勤を続けることになれば、きっとおかしいと思って誰か自宅まで様子を見に来るかもしれない。
でもそうなったらきっと、直接私の家を見に来る前に、八王子の実家の方に連絡が行くんじゃないだろうか、もしそうなったら、多分様子を見に来るのはお母さんだ。
もしそんなことになったらこの人はどうするだろう。その前にこの部屋から出て行ってくれればいいけど、もしお母さんが訪ねて来た時に、ここで包丁を持ったこの人と出くわしたら……。
プルルル……再び電話のベルが鳴る。
留守電の応答メッセージに切り替わり、再び亜希子が吹き込んだ音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
ピーッ……。
「もしもし……倉田さん? お早う~小石です。今日はどうしましたか?……もしいたら連絡下さい~」
それだけ言ってプツッと切れ、後にプーッ、プーッと不通音が響く。
「午前9時、46分です……」
そして沈黙する。
「おい……」
男だか女だか分からないその人の声が聞こえたと同時に、ボカッと亜希子のお腹の辺りに蹴られたか叩かれたかした衝撃が響く。多分つま先で蹴ったのだろう。
「会社に電話して風邪で休むって言えよ」
この状態でどうやってやれっていうのか。
そう思った時いきなり腕と腿の辺りをつかまれて、乱暴にうつ伏せにひっくり返される。痛い! そして口に噛まされたタオルが後で無雑作に解かれる。一晩中口に噛まされていたタオルが取られ、顎がカクカクする。
「余計なことしゃべったら殺すからな」
亜希子の頬にペタペタと当てられる金属質の冷たい感触がする。ヒッ、とする。あの血の付いた包丁だ……恐い、刃先はどっちを向いてるんだろうか。
亜希子は頭を動かしてウンウンと頷く。
その人はノートパソコンやCDを並べてあるラックの上から家の固定電話を引っ張って来て、側に置いているらしい。
「会社の電話番号を言えよ、かけてやるから、繋がったら今日は風邪で休みますって言えよ、分かったか」
夢中でウンウンと頷く。
震える声で間違えない様に自分の部署に直通の電話番号を言う。
その通りにプッ、プッとプッシュボタンを押す音が響く。
耳に受話器が当てられる。きっとこのまま喋れば良い位置にあてがわれているのだろう。
プルルル……相手の呼び出し音がして、すぐに相手が出る。
『はい、北田建材住宅資材部でございます』
さっき電話をくれた小石さんの声だ。
「……あのう、倉田です……」
『ああ、倉田さん、どうしたの?』
「すいません。風邪を引いたらしくって」
『あらそう、大丈夫?』
「はい……」
オフィスで電話を取っている小石さんの姿が目に浮かぶ。本当は私も今あそこで制服を着てパソコンの前に座っているはずなのに。それがまるで違う世界に飛ばされてしまっている。あそこにあった私の日常……毎日詰まらないけれど、私はまたあの世界に戻ることが出来るんだろうか……。
「今日はお休みしますので、連絡が遅れてすいません」
そろそろ月末が迫って忙しくなってくる時期だから、休んだら迷惑が掛かってしまうけど、この状態ではどうすることも出来ない。
『そう、分かったわ』
「御迷惑おかけしてすみません。なるべく早く体調を直して行きますので……」
『大分悪いの?』
「いえ、それ程でもありませんので……」
小石さんのお喋りが始まると長くなるから、上手く切り上げなくちゃ……。
『分かったわ、それじゃ課長に伝えとくから、お大事にね』
「はい……ありがとうございます」
それだけ言った時、その人がガチャッと受話器を置いてしまう。
上手く喋れただろうか、不審に思われなかっただろうか、ほんの一言二言の会話だったけど。普段から小石さんとはそんなに打ち解けて話してる訳でも無いから、きっと大丈夫だろうとは思う。
今の電話を不審に思って小石さんが誰かをここに寄越して来たりするのは避けたい。だってこの状況で誰かが訪ねて来たりしたら、この人がパニックを起こして何をするか分からないもの。
その人は電話機を何処かに置いた後、また口にタオルを噛ませようとして来る。
「あのう……」
恐る恐る言ってみる。
タオルを噛ませようとする手が止まる。
「すいません、おしっこがしたいんですけど」
また漏らしてしまうのは嫌だった。昨夜漏らした時は拭いてくれたのだから、少しは融通を効かせてくれるのではないかという希望があった。
「……」
その人は黙っている。
「また……漏らしちゃったら、嫌だから」
「しょうがねえなぁ」
「絶対余計なことはしませんから、お願いします」
「それじゃ足だけ解いてやるからな、逃げようとしたら殺すからな」
「はいっ」
その人は足首と膝の辺りを縛っていた布を解こうとするが、メチャメチャに縛っていたので中々解くことが出来ない。
それでも何とか両方解いてくれて、再び私を仰向けに引っくり返す。
解かれた足を伸ばすとやっと血が通い始める。
「じゃあ立てよ」
と私の両肩を引っ張って上体を起こさせ、後手に縛られたままの腕をつかんで立ち上がらせようとするのだが、腕をつかまれた瞬間物凄い痛みが走る。
「痛い!」
「えっ」
と言ってその人は手を離す。
ギュウギュウに固められて痛みも麻痺していた腕を急に動かされたので、折れてしまったかと思うくらい軋んで痛かった。
「じゃ、どうすればいいんだよ」
「あの、ゆっくりで……」
「後からなら大丈夫か」
そう言って後ろに回ると、両手で私の上半身を抱え込む様にして身体を持ち上げようとする。だが私の身体が重いので中々立ち上がることが出来ない。
解かれた両方の膝を曲げ、上体を引き付ける様にして体重を前に移動し、後ろから持ち上げてくれるタイミングに合わせて足に体重を乗せる。やっとしゃがんだ状態まで身体を持ち上げることが出来た。
よろけながら立ち上がる私の身体をその人は転ばない様に支えてくれる。
目隠しをされたままの私は何も見えないので、トイレの方まで連れて行ってくれた。
部屋の間取りも、トイレの前にある段差も分かっているので、それ程造作なくトイレの中に入ることが出来る。そして足探りでそこにあるはずのスリッパを見つけ、両方の足に履く。
でも、後手に縛られたままではどうやってパンツを下ろせばいいんだろう……。
トイレに入って、ドアを閉める段になってもう一度頼んでみる。
「あのう、もうひとつお願いがあるんですけど」
「……なんだよ」
「手を、後ろで縛ってるのを、前にして貰えないでしょうか、そうすれば自分で下着を下ろすことが出来るので……」
「それじゃ後向けよ」
後を向くとその人は縛った手首を解きに掛かる。だが腕もビニール紐でメチャメチャに結んであるのでなかなか解くことが出来ない。
少し緩んで来た紐の間に包丁を入れてゴシゴシと切っているらしく、それが手に当たったらと思うと恐い。
やがて両手が解かれて自由になる。さっきは折れたかと思うくらい痛かった肩が動かせる様になったけど、まだ急に動かすと痛みが走る様で、そ~っと動かして両手を身体の前で縛りやすい様に組み合わせる。
その人は私が前に回した両手を、後手に縛るのに使っていたビニール紐で縛り直しにかかる。適当に包丁で切ったので短くなってしまっているはずだから、切れ端を繋ぎ合わせて長くしているらしい。
今この人は両手を使って私の腕を縛っている。だから包丁は何処かに置いて、持ってないはずだ。でも私は目隠しをされたままなので何も見えない。この状態で飛び掛ろう等という考えは微塵も起きない。そんなことをしたらすぐに近くにある包丁で刺されてしまうに違いないもの。
何度も念入りに力を入れて、前で組み合わせた亜希子の腕を縛る。
良かった。これでパンツを下ろしてトイレをすることが出来る。
「ありがとう……」
場違いかもしれないけれど、思わず漏れた言葉だった。
その人は何も言わずにトイレのドアを閉める。
縛られたままの両手で苦労しながらスカートの中をゴソゴソとパンツを下まで降ろす。昨夜失禁したのでまだ湿っている。
足を揺らしてパンツを床まで降ろしてしまい、片足で便座の影の見えないところへ蹴ったつもりだったけど、ちゃんと便座の後に隠れたかどうかは分からない。
ようやく便座に座ろうとしてアッと声を上げた。便座が上がっているのだ。目隠しをされているので見えなかった。さっきあの人が小便をした時に上げたのだ。お尻がベンキにはまり込みそうになってしまう。
「どうした」
その人の声がする。
「何でもありません、大丈夫ですから」
隆夫が来なくなってからは、このトイレを男性が使うことなんて無かったから、思いつかなかったのも無理もないや。
あの人は間違いなく男なんだ。いつもは気にせずにしているところを、音を聞かれるのは嫌だと思い、縛られた両手で水を流して、それから便座に座る。
無事におしっこは出来たけど、便座の裏へ隠したつもりのパンツをまた履く気にはなれない。でもどうしよう……そんなこと構っている場合ではないのかもしれないけど、このままノーパンでいて、何かの拍子であの人にスカートの中が見えてしまうのはとても嫌だ。
「おい、終わったら早く出て来いよ」
ドアをそっと開けて言う「あのう……すいません。またお願いなんですけど」
「今度は何だよ」
「そこのタンスから、私の下着を渡して貰えないでしょうか、昨日汚してしまったから、履き替えないと、気持ち悪いので」
そこまでの頼みは聞いて貰えないかと思ったが。その人がタンスの所へ行って引き出しを開ける音が聞こえる。そして足音が側へ来て、ドアの間から出した両手の上に下着を持たせてくれた。フワリとした感触がある。
「あ、ありがとうございます」
考えてみれば、自分の下着を持って来て貰うなんて、こんなに恥かしいことも無いけれど、目が見えない状態だから恥かしさもそんなに感じなかったのかもしれない。
その人が渡してくれたパンツの向きを履き易い様に確かめる。縁に付いているフリルの感触で、それがどのパンツなのか分かる。見えないけれど色柄も分かる。
見えない上に縛られたままの両手で苦労してパンツを履く。
トイレを出ると目が見えずに手探りの亜希子の手をその人はつかんで、六畳間のカーペットの上に座らせる。
その人は亜希子の足を縛り直すこともせず、テレビを点けて見始める。
リモコンでパチパチとチャンネルを回しているらしく、音声が度々切り替わる。
ワイドショーらしい音声が聞こえて来る。よく耳にしている司会者の声が流れる。
「え~また悲惨な事件が起きてしまいました。昨日世田谷区で、高校生の少年が母親を刺して逃げるという事件が起きました……」
またチャンネルが変えられて声が途絶え、別の番組に切り換えられる。
「……北海道の函館市で観光バスが衝突事故を起こして横転し、乗っていた観光客のうち3名が頭を打つなどして、怪我をした模様です……」
またチャンネルが切り換えられ、別の番組の音が聞こえて来る。
と思うと急にテレビのボリュームが下げられて、聞き取れないくらい小さな音になった。
どうしたのだろう。最初はどういう訳なのか分からなかったけれど、思いついた。もしかしたらこの人が関係している事件の報道が流れていて、それを私には聞かれたくないから、自分だけテレビに耳を近付けて聞いているのではないだろうか……。
それから暫らくテレビの音が小さくゴニョゴニョしていたかと思うと、急に肩を叩かれる。
「おい」
いつの間にか近くに来ていた声に驚いて身を硬くする。
「はい」
「腹減ったんだよ、冷蔵庫の他に何か食べる物ないのかよ」
「あの、あそこの戸棚の中に」
「お菓子とかしかないじゃんかよ」
「ラーメンとかスパゲッティとかも買ってありますけど」
「そんなの作るの面倒臭いだろ」
「……」
冷蔵庫の中にはタッパーに入れたご飯やリンゴやバナナもあったはずなのに、それ等もみんな食べてしまったんだろうか。
「あの、良かったら私、何でも作りますけど」
「何作るんだよ」
「スパゲティでもラーメンでも、お米があるからご飯だって焚けるし、レトルトのカレーとかもありますから」
「そんなこと言ってどうやって作るんだよ、縛られたままで作れるのかよ」
「あの……信じて下さい、私ヘンなことは絶対しませんから」
「解いたら逃げるつもりなんだろ」
「心配だったら、身体に何か巻きつけて逃げられない様にしといたらどうですか、そんなことしなくても私絶対逃げませんけど、そうだ、身体に紐を結んで、その紐を貴方が持っていればいいじゃないですか」
あまり調子に乗って喋っていると、うるせえ! とか言って逆上されるのではないかと思ったけれど、黙って聞いてくれる様なので、出来るだけその人に従順に従いますという意志表示をしようと一生懸命に話す。
「私いろいろ買い置きしてありますから、何でも作りますから」
「でも目隠ししたままじゃ作れないだろ、目隠し取ったら俺の顔が見えちゃうだろ」
「あの、そっちは見ない様にしますから、私は台所にいて、こっちの方は絶対見ませんから、貴方はこの部屋にいて、私の身体に結んだ紐の端を持って待っててくれればいいですから、お願いします。何か食事になる物作りますから……」
「……」
考えている様だった。
「……分かったよ、もし俺の顔見たら殺すからな」
「はい」
その人は亜希子の腰に新しいビニールの紐を結び始める。
メタボリック、と言う程ではないけれど、30代も後半になって、気を付けているつもりでもだんだんお腹にお肉が付いて来るのをどうしようもなくて、こんな状況でもお腹を触られるのが恥かしい。
お腹を膨らませた状態で縛って貰えたら、後で苦しくなくて良いと思うのだけれど、その人は何重にも巻き付けて力を入れて縛るので少し息が苦しくなってしまう。
手で引き千切るのは無理だろうけど、ビニールの紐なんて、ハサミひとつあれば簡単にチョキンと切ってしまえる。ハサミは台所の流しの引き出しに入っている。隙があったら切って逃げることが出来るかもしれない。
その人は私の腰に固く紐を結んでしまうと、今度は両手に巻きつけている紐を解きにかかる。
「腕の間を出来るだけ広げて、そのままにしとけよ、包丁で切るからな」
少し緩んだ両手を左右に力を入れて引っ張っていると、その間でゴシゴシと揺れる様な感触があって、やがてバッと両腕が離れる。後は目隠しだけだった。
「じゃあ立てよ」
手を取られてよろけながら立ち上がる。腰に結ばれたビニール紐がワサワサと音を立てる。
「こっちに来い」
どうやら台所の縁に立たされた。
「目隠し取るからな、絶対こっち見るなよ、包丁持ってるからいつでも刺せるんだからな」
「はい」
ガサゴソと目隠しが解かれる。取られてみるとそれは冬用のトレーナーだった。タンスの奥にしまってあった物だ。
ずっと暗闇の中にいたので、視界が歪んで見える。でもだんだん良くなって来る。
見慣れた台所がある。私は警察官にしょっ引かれる犯人の様に紐で腰を繋がれて、その端をその人が持って弛まない様に引っ張っている。少し歩き難い。
あーやっぱり買い物袋は昨日ここに置いたままになってる……。
一番心配だったアイスクリームは……どうしても止められないジャイアンツコーンとチョコモナカを買ったと思うけど、入ってない、あの人が食べたのか、見るとゴミ箱の脇に破いた包み紙が落ちている。
お弁当用の冷凍食品のコーンコロッケとミニハンバーグは溶けて柔らかくなってしまっているけど、また冷凍すれば問題無いかな……それ等の包みを冷凍庫に入れる。絶対に後は見ない様にして。
総菜屋さんのおばさんがオマケしてくれたイカフライとメンチカツはやっぱり食べちゃったんだ……半分ずつにして昨夜のオカズと今日のお弁当にしようと思ってたのに、どうせ両方とも必要無くなったからいいか……。
投げ出されて中を物色されたバックには、空のお弁当箱がそのまま入っている。手帳や携帯電話はあの人が出してしまったらしい。
弁当箱の蓋を開けて流しに入れる。
台所と六畳間の境に立っているその人の方は絶対向かない様にして、買い物袋に残ったその他のレトルト食品や長ネギを出す。
長ネギを入れる為に冷蔵庫を開ける。毎日小出しにしながらお弁当にしているタッパーに入ったご飯がそのまま残っていた。
「あのう、良かったらチャーハン作りましょうか、お冷ご飯が沢山あるから」
「何でもいいから早く作れよ」
「はい……」
チャーハンで良しとみて、まず冷凍庫に入っているウィンナーをレンジにセットして解凍し、長ネギを刻む為に引き出しから包丁を出す。コレで紐を切って……と思うけど、その人はあまりにも近くで包丁を握ったまま私のすることを見つめている。紐を切るよりも早くブスリと刺されてしまうのは目に見えてる。
そんなことを一瞬でも考えたことをおくびにも出さない様にして長ネギを刻み、生卵を解く。
スープもあった方がいいだろうと思い、ヤカンを火にかけて、ふたつのマグカップにインスタントスープの粉末を入れる。
きっと沢山食べるかもしれないと思い、お冷ご飯をタッパーごとレンジにかけて、固くなっているのが少し解れるくらいに温める。
フライパンを熱し、サラダ油をひいて、先にスライスしたウィンナーを溶き卵と一緒に炒める。
途端にジュワージュワーと音がして香ばしい香りが沸き立って来る。換気扇を回す。
そこへレンジで解したご飯を入れて、刻んだ長ネギと和える。塩とコショーを振りながらしゃもじでご飯を解しながら炒める。
そこへ仕上げの「チャーハンの素」を振りかけて混ぜ合わせる。
ひとりの時はこんなにいっぱい作ることはない、重いフライパンを苦労して揺すりながらしゃもじでご飯を混ぜ合わせる。こんなに沢山一度に作るのは、隆夫がいた頃以来だ。
それにしても、こんな状況でよく落ち着いて出来る物だと自分で感心するくらい、手際良く出来た。
……だってやるしかないんだもの、他にどうすればいいって言うの……。
だが台所と言っても三畳程の広さしかない狭い空間だ。フライパンを振ったり戸棚を開いたり、キョロキョロするうちにどうしても眼線の脇がチラッと六畳間の方を過ぎってしまう。
亜希子の腰に結び付けたビニール紐の端を持って立っているその人の姿が、瞬間的にだけど視界の端に映ってしまう。
チラッ……チラッ……私の目に一瞬でも写ってしまったことがその人には分からないのだろうか、見まいと思いながらも、瞬間的に眼線が過ぎってしまう度に、見たなこの野郎! と怒り出すのではないかと思い、ビクビクしている。
時折チラッと過ぎる範囲なので、しっかりと見ることは出来ないけど、思ったよりも背は高くない様だ。やはり男性の様だけど、身体付きも決して逞しい感じじゃない、私の腰に結び付けた紐の端を持っている手も細い感じだ。でももう一方の手に持ってこちらに向けられている包丁の刃が異常に大きく見えて恐い……服装は、上は半袖の白いシャツに下は紺色のズボンを履いている。
白いシャツには全体に迷彩服の様な模様が描いてあるのかと思ったが、それには少し違和感がある。元々真っ白なシャツだったのが酷く汚れた様な……それが人の血の跡だと分かると足がブルブル震え始める。
しっかりしなきゃ、動揺してるのを悟られない様に、出来るだけ普通に振舞わなくちゃ……。
時々視界の隅を過ぎってしまうことを隠しながら調理を続け、チャーハンが出来上がる。お湯が沸いたのでガスを止め、スープのカップにお湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜる。
フライパンから皿にしゃもじでチャーハンを盛っていた時、誤ってこぼしそうになり、アッと思って受け止めた瞬間に、弾みでその人の方へ顔が向いてしまった。
一瞬眼があったけど慌てて背け、見なかった様に振舞ったけど、きっとその人にも分かってしまったに違いない。
「あの……私貴方のことは知りませんから、例え見えちゃったとしても誰だか全然分かりませんから……」
慌てて言い訳している。見たなこの野郎、と怒り出すかもしれないと思い、取り繕った様な感じになってしまう。
「今見ただろう」
とその人は言う。
「いえ、あの、見ていませんから」
「嘘つけよ」
恐怖が走るが、黙ってチャーハンを皿に移す作業を続ける。しゃもじを持つ手がブルブル震えている。私の分は少しにして、その人には沢山食べて貰おうと山盛りにする。
でも本当は今見てしまった姿はハッキリ脳裏に焼き付いている。白かったはずのワイシャツに引っかぶった様な血の模様が、茶色く変色して乾いた様な感じだった。顔はそれまで想像も出来なかったけど、まるで子供みたいに若くて、男か女か分からない様な中性的な顔立ちをしていた。
「見ただろう!」
これ以上嘘を付くのは逆効果かもしれないと思う。
「はい……すみません。でも私、貴方のことは知らないし、後で誰かに聞かれても絶対見なかったと言ってごまかしますから……」
そんな言葉を信じて貰えるとは思えないけれど、言わずにはいられない。
「早く出来たら持って来いよ」
慌てて脇にスプーンを刺した山盛りのチャーハンの皿と、スープの入ったマグカップをお盆に乗せて、その人に渡す。その時も出来るだけ見ない様に顔を背けながら。
その人は受け取って六畳間にある小さな低いテーブルに乗せる。
亜希子は後を向いたまま台所で流し台の上に置いて食べようとするが、そこまでは結ばれた紐の長さが足りなくて、その人が六畳間で座ってテーブルに付くと、亜希子は台所の入り口まで引っ張られてしまう。
「もういいよ、どうせ今見たんだろ。ここに来て食べろよ!」
と紐の端をグイと引っ張る。
仕方なくチャーハンの皿とスープのカップを持って六畳間に持って来る。それでも出来るだけその人の顔は見ない様にしながら。
その人はムシャムシャと夢中でチャーハンを食べ始める。
俯き加減で亜希子も食べたが、今度は小さなテーブルを挟んで正面にその人が座っているので、俯いていても、どうしても相手の顔が眼に入ってしまう。
それが分かっているはずなのに何も言わない、この人はもう見られても仕方が無いと思っているのか。
まだ10代かと思われるくらい若い男、というより少年だった……しかも私は何処かでこの人を見たことがある。ちょっと考えてすぐに思い当たったのは、あの可愛らしい顔をした高校生のことだった。
いつも朝出勤する時、アパートを出た所で出くわしていた。きちんと制服を着て自転車に乗った高校生……そうだ。この少年が着ているのはあの制服のワイシャツとズボンなんだ。
勿論声を聞いたことも無いし、まさかこんな風に乱暴な言葉で声を荒げている様子なんて、あの儚げで物静かな感じからは想像も出来なかった。
この人がこんなことをするなんて、全く信じられない、私はこんな華奢で可愛いらしい顔をした人に、命を危険に晒されて、昨夜から翻弄されていたというの……。
この人なら、その気になれば、つかみ合いになっても負けないのではないか……黙々とチャーハンを食べながらそんな考えが頭を過ぎる。だがこの人の側らにはあの血の付いた包丁がいつでも持てる様に置いてあるのだ。その血塗られた刃を見ると、やはり恐ろしさに身体が縮み上がってしまう。
この人は毎朝すれ違っていた私のことを覚えていないんだろうか。
それとも私の家に来たのは私のことを知っていたから? いや今までの様子からしてそんなことはないと思う。
だけどこの人はどうしてこんなことをしているんだろう……。
そう思った時、やはり浮かんだのは昨夜帰り道に近所で出くわしたパトカーの赤色灯の群れだった。そしてさっきチラリと聞こえたワイドショーの司会者の声『……昨日世田谷区で、高校生の少年が母親を刺して逃げるという事件が起きました……』。
世田谷区で……高校生……この子のことなんじゃないだろうか、母親を刺して……この血糊が付いた包丁……返り血? を浴びたワイシャツ。
亜希子は意識して何食わぬ顔を装っているが、身体中をゾワゾワと鳥肌が包み込んで行くのを感じている。
人間という物はここ一大事という時には、不思議と自分でも思ってもみなかった程落ち着いた対応が出来てしまうことがあるという。
なるべく平静を装ってチャーハンを食べながら、内面では驚愕の思いに駆られている亜希子の口から出た言葉は、まるで拍子抜けする程呑気で、間が抜けて聞こえる程だった。
「……美味しい?」
「うん」
「ちょと味薄くないかな? ご飯入れすぎたかな」
「ううん。大丈夫……」
少年は美味しそうにムシャムシャと食べて、山盛りだったチャーハンをあっという間に平らげてしまった。
その時外で不意に足音がして、ガチャガチャと扉の鍵を開ける音が響いて来る。
少年はビクリとして包丁を取り、ドアの方を見る。
隣りの住人が帰って来たのだろう。普段から夜に出かけて行ったりするので、夜中の仕事をしているらしいとは思っていた。今仕事を終えて帰宅して来たのかもしれない。
「大丈夫だよ、きっと隣りの人が帰って来ただけだから」
驚いて立ち上がった少年を安心させようと思った。
少年はカーテンを捲って外の様子を伺う。見ると窓の鍵の近くが割れていて、穴が空いている。きっと昨日そこから手を入れて鍵を開けて入って来たに違いない。風でカーテンが揺れていたのはそのせいだったんだ。
少年は隣りの部屋からのガサゴソという物音に聞き耳をたてている。
「声出したら殺すからな」
と包丁を突きつける。亜希子は頷きつつ、チャーハンを食べる。
何事も無いことが分かると、少年は落ち着いて座った。
亜希子もチャーハンを食べ終わると、静かに食器を片付けて台所に運ぶ。紐の長さが流しまで足りなくなると、少年も立ち上がって紐が届くところまで来てくれる。
流しに食器を置いて、湯沸し器を点け、スポンジに洗剤を付けて洗う。
少年はまた台所と六畳間の境に立って見ている。亜希子は手を動かしながら言う。
「あの……」
「えっ」
「良かったら、服を着替えたら……少しだけど男の人の着る物もあるから……その服、汚れてるから……」
「うん」
亜希子は食器を洗い終えると手を拭いて六畳間へ戻り、洋服タンスから隆夫が泊まる時によく着ていたブルーのTシャツと、黄色いスウェットのパンツを出してあげる。
少年に「こ、こんなのどうかな」と言うと「いいよ」と答える。
「着替えるからそっちに行ってろよ」
と包丁の先を振って台所に入っていろと指図する。
亜希子は台所に入り、少年に背を向けて立っている。
ガサゴソと着替える音がする。
「なぁ、ビニール袋ある? なるべく大きいヤツがいいんだけど」
脱いだ服を入れるのだろうと思い、冷蔵庫の横に沢山ぶら下げてある買い物袋から大きめのを選んで出す。
隆夫も細い体をしていたけれど、この少年は身長が低いのと、上背も無いせいで、隆夫のTシャツを着てスウェットを履くと、その姿は一層華奢な印象になった。
また幼さが残る整った顔立ちをしているので、まるでほんの子供の様に見える。ただ片手に持った血だらけの包丁を除けば……。
「コレをその中に入れろよ」
と脱いだワイシャツとズボンを蹴る。
それ等を拾ってビニール袋に入れる。触れるのも嫌なくらい恐ろしくて気持ち悪いけど、努めて平静を装う。口を縛って隅に置くと、六畳間に戻る。
亜希子も着替えたい。昨夜仕事から帰って来てからそのままなのだ。それに漏らしてしまった小便がスカートに幾らか沁み込んでいる。でもあまり贅沢を言ってはならないと思い。我慢する。
とにかく今はこの少年に気に入られる様にしなくちゃ、何を言っても絶対に私が逆らったり逃げたりはしないということを信じて貰わなければ。今はそれしか自分の身を守る方法は無いのだから。
「ねえ、割れてるガラスのところに何か貼り付けておこうよ」
と提案してみる。
「ガラスに?」
「うん、風が入るし、雨とか降って来たら降り込んできちゃうでしょう」
「うん」
五月も終わりに近づいて気候は暑くもなく寒くもないけれど、寒がりな亜希子にはまだ窓を閉めてストーブを点ける日もあるくらいなので、また夜になって寒くなったら嫌だと思う。
押入れを開けて、上の段にしまってあったDVDプレーヤーの空き箱を取り出した。もう必要無いと思いながらも、いつか引越しをする時が来たら便利だと思うと捨てられないのが亜希子の性分だった。
中の発泡スチロールを取り出して、ガムテープを張ってある底を開くと四角い筒状になった。その一角を切り離すと結構大きなダンボール紙になる。
割られた窓の内側にこぼれたままになっているガラスの破片を、注意しながら摘み上げてゴミ箱へ捨てる。
窓を開いてベランダに出る。見ると少年が履いて来たらしいスニーカーが窓の脇に揃えて脱いである。空き巣等が部屋に侵入する時は土足で入るんじゃないかと思うけど、やはりこの少年は育ちが良いのだろうかと思う。
このアパートは車の通れる道からは狭い路地を入って、敷地の四方をそれぞれ大きな一戸建ての家に囲まれて奥まったところにある。なのでベランダに出ても前を大きな壁に阻まれており、陽も当たらない代わりに通行人から目に付くこともない。
だからきっとこの少年もここを選んで逃げ込んで来たのではないかと思う。
しかし目の前を覆っている壁の中には人が住んでいるんだから、ここから大声で叫んで助けを求めれば聞こえるのではないか、という考えが閃いたが、やはりそんな不確実なことは出来ないと思う。そんな考えが浮かんだだけで足が小刻みに震えている。
亜希子がガラス窓に当てたダンボールの四隅に苦労してガムテープを貼り付けて行くのを、少年は部屋の中から見ている。
作業を無事に終えると少年は部屋の隅に座り込んだ。右手に包丁を持って、左手には亜希子の腰に結びつけたビニール紐を巻き付けている。
隙を見て玄関の方へ走っても、きっとビニール紐を引っ張られて、ドアに辿り着く前に包丁で切り付けられてしまうだろう。
もし逃げようとしたら、この少年は本当に包丁を刺して来るだろうか、黙っている表情からは何も読み取ることは出来ない。でも、現にこの人はここに来る前に人を刺して来ているんだから。しかも、もしかしたら自分のお母さんを……。
少年はずっと黙っている。何を考えているのだろうか、表情が読めないだけに黙っていられるのが恐い。
何の前触れもなくワァーと叫んで突進して来て包丁を刺されるのではないか……という恐怖から片時も逃れることは出来ない。
「ねぇ、テレビでも見ようか」
黙っていると居た堪れなくなるので、言葉をかけてしまった。
少年はただ「いい」と言って黙ってしまう。
一体何を考えているんだろう……もしかしたら昨夜ここへ逃げ込んで来る前に自分のして来たことを思い出しているんだろうか『高校生が母親を刺して……』ワイドショーで司会者が言っていた言葉……。
母親……自分のお母さんを刺したの? 果たしてそのお母さんは助かったのだろうか、その包丁に付いた血の跡やあのワイシャツからすると、かなり深いところまで刺さって血がいっぱい出たんじゃないかと思う。
だとしたらお母さんの安否が気にならないのだろうか。そもそもどうしてそんな恐ろしいことをしてしまったというの。
黙っているので全く心の内を窺い知ることが出来ない。私に人の心を読む超能力でも備わっていれば良かったのに……等と取りとめもないことさえ思ってしまう。
隆夫……今私がこんな状況になっていることを知ったら、隆夫は助けに来てくれる?。 もしかしたら、風邪で会社を休んでいることが何かの拍子に、隆夫が業務連絡をして来た時に、お喋りな小石さんから伝わるかもしれない……そしたら隆夫はお見舞いに来てくれるだろうか。この部屋をノックしても何の応答も無かったら、私が起きられない程具合が悪いのかと思って、合鍵を使って入って来てくれるだろうか。
でも、もしそんなことになったら、この少年が何をするか分からない……ああ、隆夫、来ちゃダメ、来ちゃダメだよ。
嫌、来ないだろう。そんなこと心配する必要なんて無い。隆夫はきっと来ない、でももし来てしまったら、隆夫は自分の危険も省見ずに私を助けてくれる?。
嫌来てはダメよ、若い彼女と上手く行っているのなら、将来のある貴方の身にもしものことがあったら……私はそれこそ生きて行けなくなっちゃうもの。私はこれ以上惨めになりたくない。いや、大丈夫だろう。そんな心配する必要なんて全く無いのに、ハハ……私ったらバカみたい、何を考えてるんだろう。隆夫が来てくれる訳なんかないのに……。
少年と亜希子は黙ったまま向かい合って座っている。
こんな状態で、一体この先どうしようと思っているんだろう……少年は呆けた様に黙っている。表情は全く無いけれど、スベスベして澄んだ肌、まつ毛が長くパッチリとした瞳、ツンとした鼻と小さな唇。澄ましていると女の子の様な綺麗な顔立ちをしている。
少年もきっとこれからどうしたら良いのか分からなくて、この事態の収集がつかないでいるんじゃないだろうか。今は落ち着いて見えるけど、とてつもない不安の重圧に押さえ付けられて、それから逃れる為には何も考えないことしかない……という状態にいるんじゃないだろうか。
少年がその重い不安の重圧に耐えかねて自暴自棄な行動にでも出られたら、と思うと震え上がってしまう。
このまま沈黙していることは耐え難かった。
「それじゃDVDでも見る? 映画とかもあるけど」
「何があるの?」
亜希子の持っている映画のDVDは安売りで買った「ローマの休日」と人から貰ったチャップリンの「街の灯」しかない。
映画は好きでよく観ているけど、好きな映画でもそんなに何度も観ることはないので、ビデオやDVDは買わずに専らレンタルだった。DVDプレーヤーも最近やっと安売りで買ったばかりだった。
音楽のDVDはどうしても欲しくて買った小田和正のライブがあった。それ等を戸棚から出して少年の前に並べてみる。
隆夫が友達に貰ったけど自分の家には置いておけないからと言って、無理矢理置いていったアダルト物もあるけれど、まさかそれを見せる訳には行かない。
「もっと最近のアクション映画とか無いの? ロード・オブ・ザ・リングとかスパイダーマンとか」
「ごめん、それは無いんだけど、今度レンタルで借りて来てあげるから……」
何を言ってるんだろう……今度借りて来てあげるって、一体何時のこと?。
少年が見たい様なDVDは無かったので、あまりソフトは無いけどプレイステーションがあるよ、と言ってみる。
「うんやる」
と言うので戸棚で埃を被っていたのを引っ張り出してテレビにセットする。
隆夫が来ていた頃は時々遊んでいたけれど、近頃は全然使わなくなってしまっていた。こんなことでも無い限りずっと思い出しもしなかったかもしれない。
やれば結構面白いのは分かっていても、一人でやっていても虚しさを感じてしまうのだ。
ゲームのソフトは初期のドラゴン・クエストと戦争物のシューティングゲームしか無い。敵の陣地に乗り込んで行って、出て来る敵のキャラクターを撃ってやっつけて行くというものだ。少年は今までテレビゲームをやったことが無いという。
シューティングゲームの方がルールが簡単ですぐに出来ると思い、本体にセットする。
最初は後で見ている少年の前で亜希子がコントローラーを持ってやってみせる。
ヘタクソだけど次々に出て来る敵をバキュンバキュンと撃ち倒して行く画面を少年は珍しそうに見ている様子だった。
このぐらいの年頃の男の子なら、誰でもテレビゲームには夢中になっていると思い込んでいたので、一度もやったことが無いというのは意外だった。
「やってみる? 簡単だよ」
と言ってコントローラーを渡そうとしたけれど、少年は両手に包丁と紐の先を持っているので、どうしよう……と戸惑っている。
「私のこと動けない様に縛ってからやってもいいよ」
と飽くまで卑屈になって言う。
「じゃ、何かしたら見える様に、そこのテレビの横に気を付けして立ってろよ」
と言うのでゲームをしていても動けばすぐに分かる様に、亜希子はテレビの横に軍隊の見張り番の様に気を付けをして立つ。
少年は脇に包丁を置いてコントローラーを手にしたけど、持ち方も分からない。
ゲームの始め方からコントローラーの使い方までやり方を説明してあげなければならなかった。
「分かったよ、うるせえな!」
分かりやすく教えて上げているつもりだったけど、それがくどいと感じたのか、言葉を荒げて言い返した。ビクッとして慌てて「すみません」と謝る。
やり方が分かって来ると、夢中になってやり始めた。意識が画面に集中しているのが分かる。
テレビの横に直立不動で立ち、少年が夢中でゲームをしているのを見ながら、一体警察は何をしているんだろう……と思う。
あんなに近くで事件が起きて、犯人は行方不明になっているのだから、付近を捜査したり聞き込みに来たりしないのだろうか、どうでもいいから早く私のことを助けて欲しい。
でもいざここへ警察が捜査に来た時、少年が逆上して私を殺して自分も死のうなんて考えを起こされたら……と思うと恐い気持ちも起きてしまう。
そのまま少年は何時間も繰り返しゲームを続けた。こんな古いゲームがそんなに珍しいのかと思うけど、ゲームをしているうちは安全なのだと思い、黙って立っている。
でもそのうちに足が痺れて来て、またトイレにも行きたくなる。仕方なく一度少年に頼んでトイレに行かせて貰い、その時ゆっくり便座に腰を下ろして、少しでも足の疲れを取っておこうと思った。
そのうちにまた陽も暮れ出して夕方になると、夕食のことを考えなくちゃならない。
少年に頼んで腰を結んでいる紐を長くして貰い、少年が六畳間でゲームをしていても亜希子が台所で自由に料理が出来る様にして貰おうと、少年に説明する。
「私が台所で何をしてるかは音がするから良く分かるでしょう? それに何かしようとしたらその紐を引っ張れば逃げられないし、大丈夫でしょ? 夜はスパゲティを作りますから、ソースはレトルトだけどミートソースとかクリームソースとかいろいろあるし、結構美味しいんだよ」
と言うと「分かったよ」と言ってビニール紐を継ぎ足して長くしてくれた。
「それじゃ早く作れよ」と素っ気無く言ってまたコントローラーを操作する。
チャンスだ! 少年がゲームに夢中になっている間に、流しの引き出しに入っているハサミで紐を切って、こっそりと玄関のドアから出て行けばいい。
スパゲティを茹でるのとレトルトのソースを温める為に二つの鍋に水を入れ火に掛ける。やがて沸騰してゴボゴボと音を立て始める。
先に二人分のスパゲティを鍋に入れる。煮始めると音が一層大きくなった。
そっと見ると少年は夢中になってゲームの画面に見入っている。
音がしない様にそ~っと流しの引き出しを開ける。ハサミを取って腰に結び付けられたビニール紐を片手に持ち、挟む。
「ねぇ」
ギクリとしてハサミを元に戻す。
「え、何?」
振り向くと台所と六畳間の境に立った少年が、コントローラーを手にしたまま、亜紀子を見ている。
「ソースは何があるの?」
「え、今あるのはカルボナーラとアサリのトマトとナスのミート……」
声が震えてしまう。
「俺じゃあそのナスのにして」
「はい……」
少年はそのまま部屋に戻ってゲームを続ける。
脚が震えている。逃げるタイミングを削がれてしまった。また次の機会を伺うしかない。
また小さなテーブルに向かい合って。スパゲティを食べる。亜希子はバジルのトマトソースというのをかけた。少年には山盛りのスパゲティにナスのミートソースをかけてあげる。
二人で食べていると隣の部屋でドアの開く音がする。隣りの住人が何処かへ出掛けて行くらしい。
少年は食べていた手を止めたけど、私が「大丈夫だよ、夜中の仕事してるから、きっとこれから出掛けて行くんだよ」と言うと安心した様子だった。
この事態に陥って、昨日の夜からまる一日が過ぎようとしている。何という一日だったのだろう。早く終わって欲しい、早く終わって欲しい……と思う一方で、なるべく従順にこの少年の機嫌を損なわない様に、目一杯の気を遣って振舞う様にしなければ、と思う。そのパターンに、少し馴れて来てもいる。
食事の後、少年はまたゲームをして、飽きもせず12時になるまでそれを続けた。
亜希子は大分信用されたのか、もうテレビの横で直立不動はしなくてもいいと許されて、ゲームをする少年の横で座布団の上に座っている。
途中少年がトイレに行きたいと言うので、亜希子は「紐は結んだままで、私はトイレのドアのすぐ前に立っているから、安心して」といった。
きっと大便をするのだろう。この機会を逃してはならないと思い、縛られた位置から伸ばせる様にそっと紐を握り、身体に引き付けておく。
少年が紐を引っ張りながらドアを閉めると、緩まない様に気を付けてその分を伸ばして流しへ行き、引き出しからハサミを出す。
「ねぇ……」とトイレの中から話し掛けて来た。
「は、はい」
「タイルにカビが生えてるから、掃除した方がいいよ」
「あ、はい……」
私が何かしてるのではないかと伺ってるんだ。
そっとしゃがんで、六畳間のカーペットの上にハサミを滑らせる。
ハサミは上手い具合にテレビの前に散らばったゲームソフトのパッケージの下に滑り込んだ。
今逃げようとすれば追い掛けられてしまうので、夜中に少年が寝ている間を狙おうと思う。
トイレを出ると少年も大分疲れた様子なので寝ようということになった。
今夜はちゃんと押入れから布団を出して敷いて寝たかったけど、布団は一組しかない。
当然の様に布団には少年に寝て貰い、亜希子はその横に座布団を二枚並べて、毛布を掛けて寝ますといった。
寝る前にまた身体中を縛られたらどうしようと思ったけれど、縛ろうとはしなかった。
それでも眠っている間に逃げようとするのではないかと疑われてはいけないと思い、自分の足首と少年の足首とを紐を短くして結び、私が動けばすぐ分かる様にしておきましょう。と自分から言って少年を安心させる。
この位置で寝れば、ハサミは私の手の届くところにある……。
少年が眠ったらそっと紐を切って外に逃げよう。あの路地まで行けば、集まっていたパトカーがまだいるかもしれない、もしそれがいなくても、商店街を抜けて駅前の交番まで辿り着ければ助かる。でもそこへ着くまでに少年が気付いて追い掛けて来たらどうしよう……とも思うけど、逃げなければこの状態が明日も明後日も続くのかと思うと、頭がおかしくなってしまいそうだもの。
二人の足首を結ぶと少年は布団に横になった。包丁は亜希子とは反対側の、少年の手のすぐ側に置かれている。
蛍光灯のスイッチを引いて、小さなオレンジ色の常夜灯だけを残す。紐で結ばれた右足を少年の左足と並べて、座布団の上に仰向けになる。
自分が先に眠ってしまったらどうしようと思ったけど、その心配はなかった。眠れるはずなんかない……。
少年と並んで横になり、じっとリラックスしているフリをして、静かに深呼吸を繰り返す。
何十分も経ったけど、少年は静かで、眠っているのかどうか分からない。亜希子はじっと我慢して待っている。少年が熟睡していると確信が持てるまでは、動くことは出来ない。
どうやら少年が寝息らしい音を立て初めて、それからさらに2時間近くが経った。テレビの横にあるデジタル時計が午前2時23分を表示している。
少年は静かに規則正しく呼吸を繰り返しており、その呼吸の音に合わせて胸が上下しているのが分かる。眠っているとしか思えない。
亜希子は上半身だけをそっと起こして、テレビの方へ手を伸ばす。
さっきゲームソフトのパッケージの下に隠しておいたハサミを手にする。
少年にも聞こえやしないかと心配になるくらい、心臓の鼓動がドキドキと胸の中を響き渡っている。手を伸ばしてそっと足首に結ばれた紐を持ち、もう片方の手に持ったハサミを開いて挟む。
「ごめんなさい……」
ハッとしてハサミを座布団の下に隠し、慌てて横になる。
「……」
その一言を発したまま少年は沈黙している。
えっ? 私に謝ってるの? まさか……。
横になったまま暫らく様子を伺っていたが、少年は目を閉じたまま寝息を立てている。
どうやら単なる寝言だったのか、と思い、もう一度ハサミを取ろうとした時、また喋った。
「ごめんなさい……次は……次はきっと頑張るから……」
やはり亜希子に謝っているのではないらしい。
「許して下さい、あっ、痛い……痛いよう、嫌だようもう許してよう……」
魘される様にして身をよじる。
「ごめんなさい! ごめんなさい今度は頑張るから本当にこの次は頑張るから……」
喋り続けているが目は瞑ったままだ。
それが暫らく続いたかと思うとまた静かになる。そして何事も無かったかの様に静かな寝息が続く。
もう一度少年が寝ているのを確認すると、そうっとまたハサミを取る。さっきの寝言の間もずっと眠っていたんだから、きっと大丈夫だろう……。
「痛い、痛いよう止めてようお願いだから」
ハッとしてまた手を引っ込める。
少年は魘されながら誰かから顔や頭を庇う様に両手を振り翳し始める。
「やめて、やめて下さい痛いよ、ごめんなさい、許して、お願いします……」
そしてまた一瞬静かになったと思ったその時だった。
「チクショウこの野郎ぶっ殺すぞ!」
ビクリとして亜希子は息を飲む。
「お前が悪いんだぞ! お前が悪いんだぞ! ちくしょうちくしょうお前のせいだ! このやろう、殺してやる、殺してやるー……」
錯乱し始めた。今にも側に置いた包丁を取って振り回すのではないかと思い、震え上がる。少年は何かを抗う様に両手を激しく振っている。
堪らず亜希子は声を掛ける。
「……ねぇ、大丈夫、ねぇ大丈夫だよ誰も何もしないよ、大丈夫だよ、私しかいないよ誰も何もしないから」
少年は側に置かれた包丁をつかむと宙に向って振り回し始めた。
「きゃあーっ!」
メチャクチャに振り回される包丁が亜希子の身体をビュンビュンとかすめる。
側から離れなければと這って逃げようとするが、足に結び付けられた紐がビンと張って少年の足を引っ張る。
その途端目を開けた少年は手を止め、茫然とした様に辺りを見回す。
そして驚愕の目で自分を見つめている亜希子を見た。
「……」
荒く息をしている少年に亜希子は宥める様に声を掛ける。
「ど、どうしたの、何もしないよ、大丈夫だよ、ここには誰もいないし、安全なんだよ……」
とにかく落ち着いて貰わなければと思い、必死に宥める。
ハァハァと少年は暫らく息を弾ませながら辺りをキョロキョロしていたが、自分の今の状況を思い出したらしく、落ち着きを取り戻し始め、亜希子の顔をじっと見つめる。
「……」
「どうしたの? 恐い夢見たの? 大丈夫だよ、ここには私しかいないんだから、私は何もしないから、安心していいんだよ」
気持ちを静めてやらなければと思う。
「此処どこ?」
「私の家」
「……僕、どうなってたの?」
「何か恐い夢を見てるみたいだったよ。魘されて、苦しそうだったよ……」
「そう……」
といって少年は手にした包丁を見つめる。
亜希子は落ち着いている風を装って、少年の隣りに座り直す。
少年は亜希子の言葉で我に返り、少し安心した様子だった。包丁を脇に置くと、布団に横になる。
そのまま上を向いて黙っているので、亜希子も元の様に座布団に横になる。
少年が口を開いた。
「ねぇ」
「はい……」
「おばさん、名前はなんて言うの」
おばさん……。
「私、亜希子だよ」
「アキコ?」
「うん」
少年は亜希子の顔を見つめている。
「キミは?」
まさか素直に答えてくれるとも思えなかったけど。
「シュンイチ」
「シュンイチ君?」
「うん。ねぇ」
「うん?」
「アキコは起きててよ、それで僕が寝て、また魘されてたら起こしてよ」
「……うん」
「約束だからね、ずっと僕の顔を見て、恐い夢見てるみたいだったら、また今みたいに大丈夫だって言って起こすんだよ」
「分かった」
「いいな、約束だからな」
「うん」
亜希子がそう答えると、安心した様に目を閉じる。
亜希子はそのまま肩肘を立てて、シュンイチの寝顔を見ている。そういえばこんなふうに、隆夫の寝顔を見つめていたこともあったっけ。
あどけない……この少年が、ニュースで言っていた母親を刺して逃げている高校生なのだとしたら、まだ16歳か17歳くらいなんだろうか。
5歳年下だった隆夫の顔も亜希子から見ると可愛い感じがしたけれど、この少年はまだ10代で私とは20年も歳が違うんだ。見ているとまだほんの子供の様に思える。何があったのかは知らないけど、ふと可哀相だという思いが過ぎってしまう。
けれど、私がそんなこと思っている場合じゃないじゃないか、何しろ私は生命の危険に晒されているのだから。
と思っていると、少年が不意に目を開いた。亜希子が約束した通りに自分のことを見ているかどうか確かめているのだ。
亜希子がちゃんと見ていることを知って、安心した様にまた目を閉じる。
……こうなるとまたいつ目を開けるか分からなくなってしまった。そしていつまた魘されて、さっきの様な錯乱を起こすかもしれない。
亜希子は再びハサミを取る勇気を削がれてしまった。
そしてそのままシュンイチの寝顔を見つめている。だが、やがて睡魔に襲われて、肩肘を立てたまま船を漕ぎ始め、やがて眠りに落ちてしまった。
3
「お早う、ねぇお早うってば……」
翌朝亜希子はシュンイチに肩を揺すられて目を覚ました。
また魘されてたら自分を起こせと言うシュンイチの寝顔を見つめながら、ついウトウトと寝に入ってしまったのだ。
カーテンの外はすっかり明るくなっている。
「あ、おはよう……」
寝てしまったことを責められるのではないかと思ったけど、シュンイチはもう昨夜のことなど頭に無い様だった。
ボサボサになった頭を気にしながら、亜希子も起きる。
「ねぇ、おしっこしたいんだから、早くこっちに来いよ」
とシュンイチは二人の足首を結んでいる紐をピンと張らせて、亜希子の足を引っ張る。右手には包丁を持っている。
「あ、はい」
見るとシュンイチの履いているスウェットの股間の辺りに、ひとつピンと内側から突き出している部分があるのが分かる。
ふと目のやり場に困りながら亜希子は立ち上がって、シュンイチに引かれるままにトイレの前まで行き、小便をしている間ドアの前で待っている。
そのまま入れ替わりに亜希子が入り、シュンイチはビニール紐を挟んだドアの向こうに立って、亜希子が用を足すのを待っている。
「なぁ、お腹空いたよ、何か作れよ」
「うん分かった。でも、その前にお願い、私洋服を着替えたいんだけど」
「分かったよ」
着替えを持ってトイレの中で着替える。足の紐は外して貰ったが、シュンイチはドアの外で包丁を手にしたまま亜希子に不審な様子がないか伺っている。
着替える服を考えた時、逃げ出すことを考えてジーパンに上は長袖のシャツの様な、そのまま外に出られる物を選ぼうかと思ったが、そんな服を着て逃げるつもりではないかと勘ぐられてはいけないと思い、逆にいかにも部屋着と言う感じの、そのままパジャマ代わりになりそうなトレーナーに下はタオル地のスウェットを選ぶ。
着替え終わると着ていた物を丸めて洗濯籠に押し込み、また身体を結んでおいて、とシュンイチにいう。
「分かった」
と言うとシュンイチは亜希子の腰にビニール紐を何重にも回して結び、その紐の端を自分の左手に結び付ける。
朝食を用意しようと思ったが、その前にしなければならないことがある。
「ねぇ、今日も会社にお休みするって電話しといた方が良いと思うんだけど」
と自分から言う。
「分かった。じゃ早くしろよ」
電話のところに行って受話器を取り、会社の番号をダイヤルする。
こうして少しでも自分のペースで事が決められる様になることは、とても良い兆しの様に思える。
だがシュンイチはすぐ側へ来て受話器を持つ亜希子の喉元に包丁を突き付ける。
「何か余計なこと言ったら殺すからな」
「はい……」
やっぱりまだ信用されてる訳じゃないんだ……。
数回の呼び出し音の後、相手が受話器を取る音がして『もしもし』と昨日と同じ小石さんの声がする。
亜希子は努めて平静を装いながら話す。
「あのう、倉田ですけど、すみません。まだ熱が下がり切らない様ですので……」
『あらそう、そりゃ変にこじらせちゃったら大変だから~いいわよ仕事の方はなんとかなってるから、ゆっくり休んでいらっしゃいよ』
「はぁ、ありがとうございます」
今までこんな風に仮病を使って何かをサボった経験は無かった。喋り方で嘘がばれるのではないかと思い、ドキドキする。
『何か困ったことは無いの?』
「はい、大丈夫です」
『お医者には行ったの?』
「あ、はい、今日行く予定でいますので」
病弱な感じを出す為に出来るだけ元気の無い話し方をしているつもりだったが、上手く出来ているかは分からない。
『そう、大事にしてね、何か困ったことがあったらすぐ電話して来なさいよ』
「はぁ、ありがとうございます」
あんまり話すと余計なことを口走ってしまいそうで恐い。
「それじゃどうも、失礼します」
まだ何か言いたそうな小石さんを遮る様にして会話を終わらせる。
受話器を置くとシュンイチは喉元に突き付けた包丁を退けてくれたのでホッとする。
台所に行って食事の用意に取り掛かる。
直ぐに食べられるパン等の買い置きは無かったし、朝からまたスパゲティやラーメンというのもどうかと思ったので、多少時間は掛かってしまうけど、お米を研いでごはんを炊くことにする。
シュンイチはまた身体を結ぶ紐を長くして、台所で自由に調理が出来る様にしてくれた。
食事の用意をしている間、シュンイチは六畳間でテレビを点け、パチパチとリモコンでチャンネルを変えながら見ている。
やっぱりテレビの報道が気になるんだろうか……亜希子にはまだ昨日のワイドショーで司会者が言っていた『高校生が母親を刺して逃亡……』という言葉が引っ掛かっている。
本当にこの子は母親を刺して逃げているんだろうか、だとしたら、やっぱり自分の刺した母親の安否が気になるんだろうか、それでテレビを見ているんだろうか。
ご飯が炊き上がった。インスタントの味噌汁に刻んだ長ネギと乾燥ワカメを入れて、お湯を注ぐ。
オカズはパックのキムチと納豆くらいしか無い。納豆は苦手な人もいるので、聞いてみると大丈夫だということだった。
六畳間のテーブルに二人分の朝食を運ぶ。
朝の報道番組が続いているが、朝食の用意が出来るとシュンイチはテレビを消してしまう。
「いただきます」
また二人向かい合って食べる。静かな部屋にカチャカチャと箸の音だけが響く。
食事が終わると亜希子は食器を片付けて台所へ運び、流しに入れて洗う。
「ねぇ、お茶飲む?」と台所から呼び掛ける。
「うん」
「待ってね、今洗い物が終わったら入れるから…た…」
隆夫……と言いそうになった。今6畳間にいるあの後姿が隆夫だったら……休みの日に隆夫が来ていた時の光景がダブって見えた。
シュンイチはまたテレビを見ているが、ボリュームを小さくしているのと、食器を洗う音とで内容を聞き取ることは出来ない。
食器を洗い終わり、二つのマグカップにお茶を入れて六畳間に入って行くと、シュンイチはテレビを消してしまう。
「はい」
とマグカップを差し出しながら、シュンイチの顔を見て驚いた。その表情が酷く変わっている。
落ち込んでいるというか、何か酷く精神的なショックを受けた様な感じだった。テレビで報道された内容に何か関係あるんだろうか……と思ったが、聞いてみることは出来ない。
「ねぇ、今日洗濯してもいいかなぁ、天気も良いから」
「ああ」
シュンイチはそっぽを向いたまま気の無い返事をする。その返事をよしと見て溜まった洗濯籠を持ってベランダへ出る。
ふとビニール袋にまとめた血だらけの制服のことも考えたけど、やはり恐ろしくて手を触れる気にはならない。
だけどシュンイチの様子の変わり様は尋常ではない。テレビで何を見たというのか、それが何なのかは分からない。嫌それだけじゃない、亜希子にはシュンイチのことは何ひとつ分からない。
ベランダの隅にある洗濯機のスイッチを入れると、シュンイチが来て窓の縁に座った。
考えてみれば、シュンイチはこの部屋に侵入する時、ベランダの欄干を乗り越えて入って来たのだから、逆に亜希子がここから欄干を乗り越えて逃げるということも考えられる。
亜希子は努めていつもしている様に、普通に洗濯機の電源を入れて、スタートボタンを押す。ジャーと音をたてて水が迸り始める。分量を量って粉末の洗剤を入れる。
洗濯機を回して部屋に戻ると、シュンイチはまたプレイステーションを繋いで、昨日と同じシューティングゲームを始める。
亜希子は近くに座って、ゲームの画面を見ながら時おり「惜しい!」とか「あっ上手い上手い!」等と応援して、出来るだけ和やかな時間が過ぎる様に努める。だがシュンイチは全く反応を見せず、無表情にコントローラーを操作している。
やがてベランダで洗濯の終わるアラームが鳴り、亜希子は外へ出て洗濯機から衣類を取り出して籠に入れると、一枚ずつ広げて物干しの洗濯バサミに挟んで行く。
シュンイチは部屋に残ったままゲームを続けている。窓の脇からそっと見ると、相変わらず無表情で放心した様に、激しくコントローラーを操作している。
洗濯物を干し終えると部屋に戻り、今度は昨日シュンイチもカビが生えているといっていたお風呂を掃除してもいいかと尋ねる。
「そんなの勝手にすりゃいいだろ!」
突然怒った様にいう。
「あ、はい、すいません」
慌てて謝って、風呂場の掃除に取り掛かった。何を怒ってるんだろう……。きっと私のせいじゃない、何かテレビで見たんだ。きっと自分がしてきた事件のことで……。
浴室に入るとシャワーで床を濡らし、洗剤を撒いてスポンジで擦る。
とにかく何かしていないと不安で堪らない。出来るだけ二人で沈黙している時間を作りたくない。
風呂の掃除を終えると今度は台所の掃除をしようと思ったが、許しを得ようとして聞けば、またさっきみたいに怒鳴られるのではないかと思い、黙って押入れから掃除機を出し、床に掃除機をかけて、雑巾掛けをする。
六畳間からはゲームの音が絶え間なく続いている。
亜希子は掃除を終えると昼食の用意に取り掛かる。
シュンイチを刺激しない様に、努めて平静を装って振舞って来たが、精神的にかなり追い詰められていることが自分でも分かる。
昼は買い置きのインスタントラーメンを茹でて、朝味噌汁に入れた残りの長ネギを切ったのと、生タマゴを入れて食べることにする。
鍋に水を入れて、ガス台に乗せて火を点ける……いつまでこんなことが続くんだろう……考えても仕方が無いと思い、スルーする。
いつまでもこんなことが続けていられる訳はない、そのうち、いやそれはきっと近いうちに、何等かの破綻が来るだろう。
私だってそう何日も会社をズル休みしていられる訳はないのだから。職場の人たちだってそのうちおかしいと思うに違いない。
不意に誰かが訪ねて来て、シュンイチがここにいることが外の人にバレてしまうかもしれない。そうなれば一気に警察が来て、このアパートを取り囲んでしまうかもしれない。
そんなことになるのが一番嫌だ。だってもしそうなったら、シュンイチ君が自棄を起こして、道連れにされてしまうかもしれないもの。
だから今は我慢して、出来るだけフレンドリーに振舞って、私のことを仲間だとさえ思ってくれる様にしておかなくちゃ、それ以外に助かる方法は無いんだから。
思い直して自分に言い聞かせ、おかしくなりそうな感情を必死に宥める。
昼食のラーメンを食べ終えて、食器の片付けも終わるといよいよすることが無くなって来る。
朝干した洗濯物を取り込もうかと思ったが、さすがにまだ早すぎるだろう。外は晴れて良い天気だけれど、この部屋のベランダには直接日光が当たらないから、まだ乾いている筈もない。
シュンイチは隅のマガジンラックから亜希子の買っているテレビガイドを見つけて、暫らく番組表を見ていたが、何か確認するとテレビを点けた。テレビでは昼間放映している映画をやっている。
見たことのないアメリカの刑事映画だった。ロッキーのシルベスタ・スタローンが出ている。
凶悪なテロリストをスタローン扮する刑事が追いかけて行くという内容で、シュンイチは黙って観始めたが、その無表情からは本当に集中して見ているのかどうかを読み取ることが出来ない。
他にやることもないので、亜希子も一緒に見ているしかない。
一見二人して映画に集中している様な格好になった。休日に隆夫とこうしていたことが思い出される。あの時DVDをレンタルして観た映画は何だったろう……。
映画も終りに近付いてきた。逃亡したテロリストが狙っていた女性の後からそっと近付き、殺そうとする。ハラハラするシーンだった。その時、女性がバッと振り返ると、それはカツラを付けて女装したスタローン刑事だった。それを見て二人そろってアハハハハ……と笑い声を上げる。
思いがけず顔を見合わせて笑った。それは一瞬の表情だったけれど、普通の高校生の男の子だった。
こうして映画を観ていれば間が持つのだと思い、亜希子は持っているチャップリンの「街の灯」のDVDを面白いから観ようよ、と言って勧める。
DVDプレーヤーにセットして、また二人で観る。人を刺して逃げている高校生と、命の危険にさらされながら一緒に観ている自分、という状況がおかしいなと思いつつ、何回目かの大好きな映画を観る。
シュンイチはさっきと同じ様な表情で画面を見ている。今度はこれが夢中になって観ている様子なのだということが分かる。
シュンイチはチャップリンという名前も知らなかったという。きっと古い白黒の無声映画が珍しいと思って観ているのだろう。
亜希子は何回も観ているので、可笑しいシーンも胸にジンと来るシーンも、次にどんなシーンになるのかも分かっている。
笑えるシーンでは努めて声を上げて笑う様にして、ウルウルするシーンではわざと鼻を啜ってみたりして、一緒にシュンイチの感情を呼び覚ませれば、と思った。
こうして和やかなムードを盛り上げて、一緒に笑い、一緒に感動して、もっともっとフレンドリーな雰囲気に持って行きたいと思う。
映画は終盤に近付き、目が見えなかったヒロインがチャップリンの必死の活躍で手術に成功し、目が見える様になって、感動の再会を果たすシーンで終わった。
シュンイチは何も言わないけれど、その表情を見れば分かる。きっと私が始めてこの映画を観た時と同じ様に、暖かくて優しい気持ちになっているんじゃないだろうか。
亜希子はシュンイチが人間的な表情を見せてくれたことに凄くホッとした気持ちになれた。きっとチャップリンのヒューマニズムがこの少年を救ってくれるかもしれない……なんてロマンチックなことを考えてみる。
何とか今日も無事夕方を迎えることが出来た。けどまた夜の食事のことを考えなければならない。
買い置きの材料で作れる料理もネタが尽きて来たので、亜希子は隆夫が来ていた時によく取っていたデリバリーのパンフレットをシュンイチに見せてみる。
ピザやお寿司や中華料理等、いろんな種類のデリバリーの広告が毎日の様に郵便受けに入れられている。
「ねぇ、夜はちょっと贅沢しようか、中華料理とかも取れるんだよ」
「へぇ~僕の家はこうゆうの取ってくれたことなかったから、食べたことないや」
と言って珍しそうに料理の写真がいっぱい載ったパンフレットを見る。
だがデリバリーを取るということは、それを持って来る配達員が来た時にドアを開けてお金を払わなければならない。
シュンイチはいろんな種類のメニューを美味しそうだと言って見ているけど、考えていることは分かる。
「私絶対何も言わないでお金だけ払って受け取るから、約束するから、ねぇ、私が何か余計なこといったりしたら脇に隠れてて包丁で刺せばいいじゃない」
そう言った時、シュンイチは亜希子の顔をギロッと見た。凄く恐い目だったけど「いいよ、じゃ注文しろよ」と言う。
「何がいい?」と訪ねると。
「そうだな、ピザかお寿司が良いけど……」
「それじゃ、両方取っちゃおうか?」
「えっ?」
「シュンイチ君いっぱい食べるでしょ? 私ひとりじゃ食べきれないけど」
「いいの?」
「うん、いいよ」
出来る限りの笑顔を作って微笑みかけたつもりだった。
努めていつもと同じ調子で電話を掛けて、ピザのMサイズと握り寿司2人前をそれぞれの店に注文する。
近頃は倹約しているので、普通ならそんな贅沢は考えられないけど、今は非常事態なのだ。少しでもシュンイチ君に喜んで貰わなくちゃ……。
注文の電話をしてから暫らくして、外にバイクの止まる音がして先にピザが、後からお寿司が届いた。
配達の人がドアをノックして、私が開いて品物を受け取り、お金を払う間シュンイチは包丁を手に台所の陰に隠れていたけれど、私はごく自然にいつもの様にお金を払い「ごくろうさまです」と言って配達員を帰すことが出来た。
これでまた一層シュンイチ君の信頼を得ることが出来たかもしれない。
Mサイズのピザと2人前のお寿司を乗せると、小さなテーブルは一杯になった。
「わー美味そう、食べきれない程あるねぇ」
シュンイチは始めて本当に屈託のない笑顔を見せた。それはドキリとする様な可愛らしい笑顔だった。
その笑顔を見た時、遠い昔隆夫の見せた初めての笑顔が思い出された。
隆夫は5年前に亜紀子のいる住宅建築資材部に配属されて来た。最初は見ているとイライラするくらい煮え切らない感じの男……というより男の子だった。
慣れない職場なのに一生懸命な思いが空回りするだけで、可哀相なくらい頼りない。
それは隆夫がそれまで一から十まで親の言いなりになって育って来た結果なのかもしれない、と思った。隆夫は両親と姉の4人家族で、中堅サラリーマンの父親と母親はとても教育熱心で、子供の頃は勉強ばかりしていたという。
私はそんな、何かに付けて困っている隆夫のことを見かねて手伝い、面倒を診てあげた。その度に「すいません」と照れた様に笑う顔にキュンと来る物があって、それから意識しなくてもいつも気になる存在になっていた。
亜希子は学生時代から奥手で大人しい性格だったこともあって、それまで彼氏と言う物と本気で付き合ったことがあまり無かった。
20代に入って社会へ出ても、何人か軽い付き合いをした男性はいたけれど、まだこれからきっと特別な人との出会いがあるに違いない……等とありもしない願望を抱いているうちに過ぎてしまい、26歳の時に駅で突然の激痛に襲われ、片方の卵巣と子宮を失ってしまった。
そして一生を共にしたいという様な深い交際の経験も無いままに、結婚を諦めた。
そんな時知り合った隆夫は5歳も年下であり、交際するとかそんな意識も全く無いままに、気が付くと親密な関係になっていた。
それは結婚を前提とした付き合いを私が諦めていたから、逆に余裕を持って隆夫に接することが出来たからではないかと思う。そうだ、隆夫はきっとそんな私にとって、あるべくしてあった恋人だったのだ。
ある日窓を開けると吹いて来た春の風みたいに、隆夫は私の中へ舞い込んで来た。それが当然の流れの様に仲良しになった。今でもあの頃のひとつひとつを思い出すと顔が笑ってしまうくらい、楽しかった。
シュンイチ君はガラス窓を割って、この部屋へ侵入して来た。シュンイチ君との出会いも、こんな異常な状況のものでは無かったら、どんなにか素晴らしかったかもしれないのに。
ピザと一緒に頼んだコーラで乾杯して、久し振りの御馳走を夢中になって食べる。
シュンイチ君は「配達のピザなんか食べるの始めてだよ」と美味しそうにパクパク食べている。
親戚の男の子が遊びに来たりするのはこんな感じなのかな、と思う。
亜希子には三つ違いの真由美という姉がいる。姉の娘の由香里ちゃんが今高校一年で16歳だから、由香里がもし男の子だったら、きっとこんな感じなのかもしれない。
今夜は亜希子が欠かさず見ているダウンタウンのお笑い番組がある日だった。
面白いから見ようと言って、お腹一杯になった後、ピザやお寿司の残骸を食べ散らかしたまま寝転んでテレビを点ける。
亜希子は冷蔵庫に残っていた発泡酒を開けて飲む。一応シュンイチにも飲むかと訪ねてみたけれど、いらないと言う。
「フフッ、ハハッ……アッハハハハハ……」
見ている間何度も同時に笑い声を挙げた。この部屋にまた男の人の笑い声がするなんて、ここ数ヶ月夢にも思わなかったことだ。
笑いながら亜希子は涙を流している。それはテレビの内容が可笑しくて、笑い過ぎてというだけではなく、突然こんな状況に貶められて、死ぬ程の恐怖を味あわされていながらも、今この少年と一緒にテレビを見て笑っている。こんなに和やかな雰囲気になれている。それが本当に良かったと思う涙だった。発泡酒の酔いも手伝っていたかもしれないけど、半分はそんな涙だった。
今夜もまた布団を敷いて、亜希子はその横に座布団を並べて寝ることにする。
シュンイチはもう忘れているのか、それとも亜希子が自分を裏切らないと信じてくれているのか、足を紐で結ぼうともしない。
そしてまた「僕が夢見て魘されてたら、そうっと起こすんだぞ」と言う。亜希子は当然の様に「うん分かった」と答える。
もし昨夜みたいに魘されることなくシュンイチが熟睡していてくれれば、今夜こそ逃げられるかもしれない。何しろ足も結ばれていないのだから。
だが、二人並んで横になり、電気を消すと暫らくして、シュンイチは亜希子の手を握って来た。
戸惑ったが、仕方なく亜希子もそっと力を入れて握り返す。
暫らくして、スースーと規則的な寝息が聞こえて来る。そっと見ると、シュンイチは安らかな顔をして眠っている。
だが亜希子の手は握られたままだ。これじゃまた今夜も逃げられないな、と思う一方でシュンイチに、今日は魘されずにゆっくり眠れればいいね。という気持ちも起きる。
見れば見る程あどけないと思う、女の子の様に綺麗な顔をしている。見つめていると胸の奥がキュンとなる。
隆夫……と胸の内で呼びかける声が聞こえたけれど、この部屋で寝ていた隆夫の顔が浮かんで来ることはなかった。
寝ているシュンイチの向こう側、すぐ手の届くところには、今も鈍い光を反射させて包丁が置かれている。
この少年の胸の内にはどんな思いが渦巻いているというのか。亜希子には何も分からない。
このことは何時まで続くんだろう……私はまた元の生活に戻ることが出来るんだろうか、あの会社に通うだけの日々に。それまで私の精神は持つんだろうか。
会社で自分の持ち物にキンキキッズの堂本光一の写真を貼っている淵松絵美子さんのことを思い出す。絵美子さんに言ってみたくなった「うちにはこんな綺麗な顔をした男の子がいるのよ」と。そんなことを思ってる自分をバカだなと思う。
そして、この子が私といることにここまで安心してくれる様になれば、もう私に危害を加えることは無いのではないか……という希望的観測も起きてくる。勿論まだ油断は出来ないけれど。
とはいえ、ずっとこのままでいられる訳は無いのだから。どうにかしなくちゃ……どうにか……。
4
木曜日の朝になった。目が醒めるとテレビの横にあるデジタル時計は6時14分を表示している。きっと昨夜は早い時間に寝たので、それだけ早く目が覚めたのだろう。
片手に温もりを感じる。亜希子の手はまだしっかりとシュンイチの手と重ね合わされている。
見るとシュンイチも同時に目を覚ましたのか、瞼をパチパチしながら亜希子の顔を見ている。
「おはよう」と声を掛ける。
「おはよう」
「ねぇ……」
「うん?」
「相談があるんだけど……」
「なぁに?」
「あのね、私あんまり何日も仕事を休んでると、会社の人がおかしいと思って様子を見に来ちゃうかもしれないのよ」
「……」
「そうしたら、シュンイチ君のことが見つかっちゃうでしょう。だからさぁ、私、今日は普通に会社に行って帰って来るから、シュンイチ君がここにいるってことは絶対誰にも言わないで帰って来るから、今日は会社に行かせてよ」
朝になったらそう言おうと考えていた訳ではなかった。目が覚めて少し寝ぼけた目でシュンイチを見ていたら、口から自然に言葉が出て来た様な感じだった。
「だって私仕事に行かないとクビになっちゃうし、そうしたらお金が無くなって暮らして行けなくなっちゃうよ」
シュンイチは困った様な顔をして考えている。
「そのかわり私を仕事に行かせてくれたら、ず~っとここにいてもいいから」
「本当?」
「うん」
「本当にずっとここにいてもいいの?」
「うん」
「僕がここにいるってことは絶対誰にも秘密だよ?」
「うん勿論」
亜希子の言葉を信じたかに見えた。亜希子が絶対誰にも言わないと約束すると「うん、分かったよ」と答える。
シュンイチは亜希子が会社に行って来てもいいと言うのだ。
そうと決まればまずシャワーを浴びる。月曜日から3日も風呂に入っていない。髪も洗いたかったけど、乾かしている時間は無いと思い、諦める。
風呂場のドアは台所の脇にある。六畳と台所の仕切りの戸は磨りガラスなので、閉めておけば裸のまま出てもシュンイチに見られることは無いと思うけど。でもいつガラス戸を開けられるかもしれないと思い、バスタオルで身体を覆って風呂場を出ると、慌てて用意してあった衣服を着る。
顔には殴られた痕は無かったけど、手首や足首が長い間縛られていた為にまだ痣になっている。それを隠す為に手首まで隠れる長袖のブラウスを着て、足には季節にそぐわないけれど長めの靴下を履く。
簡単にお化粧をして外出用の服を着てしまうと、シュンイチの気が変わってはいけないと思い、そそくさと出掛ける支度をする。
いつもならお弁当を作って行くのだけど、会社には風邪を引いて休むと説明してあるので、今日はまだ作れなかったという方が自然だろう。それに炊飯器のセットもしていないので、お弁当にするご飯も無い。
昨夜食べきれずに残っていたふた切れのピザをレンジで温めて、シュンイチと一つずつ分けて食べる。
「冷凍食品のハンバーグとかあるから、面倒臭いかもしれないけど、お昼とかお腹が空いたらレンジで温めて食べといてね、夜は買い物して帰って来るから、何か作ってあげるからね」
忙しく温めたピザの切れ端を食べる亜希子を、シュンイチは不安そうに見つめている。
「本当にちゃんと帰って来てくれる?」
「うん、大丈夫だよ」
「本当に帰って来てよ、約束だよ」
「うん……」
亜希子の言葉を本当に信じて良いのかどうか、迷っている様子だった。
「もし誰かドアをノックする人がいても、知らんぷりしてればいいんだからね」
出来るだけシュンイチに喋る間を与えない様に、あれこれ自分で喋りながら、身支度を整えると靴を履きにかかる。
「待ってるからね。早く帰って来てね」
ドアを開け、すぐそこにある開放された空気に引かれる思いを感じながら、もう一度振り返ると、シュンイチはまるで捨てられるのが分かっている犬みたいな顔をしている。
「僕待ってるから……」
「……うん。大丈夫だよ。それじゃ、行って来るからね」
最後まで精一杯に普通を装って、部屋の外へ出る。パタンとドアを閉めると、震える手を押さえながら鍵を掛けて歩き出す。
ブロック塀の囲みを抜けて、アパートの敷地を出る。
外を歩くのは2日振りだった。まだシュンイチに殴られたり蹴られたりしたところが痛くって、よろけて歩き方が不自然になってしまうけど、亜希子はちゃんと自分の足で歩いている。
見ると眩しい程の青空に白い雲が幾つも浮かんでいる。5月の終りの清々しい空気を胸一杯に吸い込む。
「ああ、やっと外へ出られた!」
少しフラフラしながらも駅への道を歩き出す。一体この3日間は何だったのかと思う。
路地から広い道へと出る角を曲がる。途端にいつもの日常が戻って来る。
もう戻れないかもしれないと思っていた日常に、瞬時にして戻っていることが不思議でならない。全てが夢だったんだろうか。
とにかく隆夫に電話しなくちゃ。と思い、バックから携帯電話を出して登録ダイヤルから隆夫のナンバーへ発信する。
別れて以来一度も電話したことなんか無かったけれど、こんな緊急事態なのだから、隆夫もきっと電話するのも仕方がないと思ってくれるだろう。
呼び出し音が続いているが、相手が出る気配は無い、留守電にも切り替わらない。
ふと通り過ぎる角の奥に止まっているパトカーが見える。
携帯を切って駅へ向う方向を変え、角を曲がってパトカーが止まっている方へと近付く。
月曜の夜帰って来た時に沢山のパトカーが止まっていた場所だ。やっぱりここで何かあったんだ……。
パトカーには誰も乗っていない様だった。辺りを見たが、警察官の姿は無い。
ふと気が付くと、元の通りをいつもこの辺ですれ違う疲れたサラリーマン風のおじさんが、タバコを吹かしながら通って行く。
なんだか懐かしい……あのおじさんも、元気で頑張っていたのかな。
元の道へ戻り、少しフラフラしながらも、また駅へ向って歩いて行く。
この3日間の疲労が亜希子の意識を半ば朦朧とさせている。シュンイチとの約束は助かりたい一心で無意識に言ったことなのか、自分では嘘を付いたつもりもない。ただ、いつもの様に会社に行かなければならないと思っている。
信号機のある車道を渡り、農大通り商店街に入る。
いつもならこの辺で自転車に乗った……あ、来た来た。思わず微笑んでしまう。言葉を交わしたことは無いけれど、きっとお互い面識のあることは分かっている。前に取り付けた子供用の椅子に男の子を乗せて自転車を漕いで行くお母さん。
一瞬だがチラリと合った目が亜希子に向って『あら、ここ2日ばかり見なかったけど、久し振りね』と言っている「どうも、ちょっと信じられないことがありまして……」と心の中で答える。
まるで今朝までのことも、そしてこの瞬間も、まだ夢の中にいる様な気がする。駅へと向う通勤者たちの流れが徐々に増えて来る。
いつもの様にいつもの駅へ歩いてる。シュンイチ君が私のことを信じてくれたお陰で。いつもの様に電車に乗っていつもの様に会社へ行って、いつもの一日が始まるんだ……。
商店街も終りに近付き、更に通勤者たちの数も増えて来ると、自然と亜希子の足も流れに乗り遅れまいと早足になる。
駅へと続く階段を雪崩れ落ちて行く人の群れに、押し流される様に亜希子も急ぐ。
隆夫が家に泊まった次の日は、同伴出勤して、人ごみの中で離れない様に手を繋いで階段を降りたっけ……。
入り口の脇にある交番を通り過ぎ、改札へ向う階段を亜希子も早足に降り初めている。
亜希子の足はスタスタと改札を抜けて、人の群れに揉まれてホームへと上って行く。
経堂の駅は高架になっており、ホームから街並を見るとまるで高台から見下ろしている様な感覚だった。仕事を休んだのはたったの2日だったけど、この景色を見るのはずい分久し振りの様な気がする。
ホームのいつもの場所に並ぶと、いつも先に来て待っている長身のカッコ良いキャリアOL風のお姉さんがいる。7時51分発の新宿行き、いつもの時間。
いつもの混雑した電車がホームに滑り込んで来る。そこへさらにホーム一杯の人が押入って電車の中がギュウギュウになる。いつもと同じ。
でも今日は鞄にお弁当が入って無いから、気にしなくていいから楽だ。バックの中から3日前に中断していた読みかけの文庫本を出し、読もうとする。
ギュウギュウの通勤客たちの隙間から、窓の外を電車の揺れと共に街が流れて行くのが見える。
僕待ってるから……
不安そうに亜希子を見送ったシュンイチの顔が浮かんで来る。
本当にシュンイチ君は母親を刺すだなんて恐ろしいことをしたんだろうか、でもそれにはきっと何かどうしようも無い理由があったのではないだろうか。
毎日の様にテレビで報道される似たような高校生の起こした事件を見ると、どれも少年を取り巻く環境にそこまで少年を追い込む悪い原因があったことが報じられている。
シュンイチ君には何があったのか、亜希子はまだあの少年がしたことの内容をまるで知らない。
会社へ行ってインターネットで調べれば、何か事件についての情報が出ているかもしれない。
いつもの様に代々木上原駅で反対側のホームに待っている千代田線に乗り換える。そして更に表参道駅で銀座線に乗り換える。
隆夫と一緒に会社へ行った時は、乗り換えに歩く時も手を繋いで、周りの人に仲の良い同伴出勤を見せ付けてるみたいな気がしてた。
通勤ラッシュも好きな人と一緒だとあんなに楽しかったのに、一人でいるとこんなにも苦痛だなんて。
無言のままゾロゾロと急ぎ足に歩く牛の群れの様な群集に紛れながら、いつもの煩わしい乗り換えを繰り返す。そうしていると自分の存在の気薄さが一層感じられて、惨めになって来る。
日本橋駅に着いて8時31分。いつもと数分の誤差もなく、いつも通りの出口を出て、ビルの建ち並ぶオフィス街を歩き、会社へ向う。
亜希子の勤める会社は北田建築資材販売株式会社と言い、日本で有数の大手商社である北田商事の系列会社であり、主に鉄鋼系の建築資材や特種建材を扱っている。
その中で亜希子の勤めている部署は住宅建築資材部、略して住健部と言って、文字通り個人住宅用の建築資材を扱っている部署だ。
自分のオフィスのあるビルへと向いながら、ふと角の向こうにある別のオフィスビルを見上げる。そのビルには大規模建築資材部(大建部)があって、隆夫がそこに勤めている。
住建部の入っているビルはもうかなり古い建物だが、大建部のあるそのビルは、まだピカピカで新しく、ずっと大きい。亜希子のいるビルとはほんの数十メートルしか離れていないのに、この距離が隆夫との間を隔てるきっかけになってしまった。
去年の秋に隆夫は社の花形部門である大建部へ異動になった。
大建部は住建部が扱う個人住宅とは比較にならない規模の大きな、体育館とか公会堂の様な、国からの受注を受けて建設する巨大な建築物の事業に携わっている。北田建築資材販売株式会社の主軸を成す部署だ。
そこに異動になったということは、今後の出世を約束されたということであり、教育熱心だった隆夫の両親にしてみれば、きっと息子の優秀さが認められたと喜んでいるだろう。
だけど、会社人間としての隆夫をここまで育てたのは私なのよ。と亜希子は言いたい。
隆夫が住建部にいた間に、社内での裏の人間関係から取り引き業者たちとの利権が絡む本音と建て前まで、あれこれ教えてあげたのは私なのだ。隆夫は仕事のことから私生活に至るまで私に甘えて、頼りにしていた。
そして真面目だけが取柄と言う感じで大人しい性格だったのが、私と付き合う様になってから、徐々に自信を持つ様になった。
異動してからの隆夫は更にエリート意識に目覚めて、年上で常にリードしているつもりだった亜希子への態度も偉そうなことを言う様になった。でもそれは隆夫が逞しく成長しているということなので、亜希子にしてみれば嬉しく、また頼もしく眺めていた。
花形部門でバリバリ仕事をこなせる様になれば、隆夫はもっと成長して行くだろう。課長、部長と出世して行く隆夫を、亜希子は見たいと思う。
だが実は今回の異動は隆夫の能力が評価されたと言うよりは、大建部の川原部長が、自分と同じ大学の後輩である隆夫を加えることで、自分の派閥を広げるのが目的だったのだろう。というのが社内の風評だった。
勤勉で真面目な隆夫は決して上司に逆らったりしないから、川原部長としては派閥に加えるのに適していると考えたのだろう。
でもそんな噂なんてどうだって良い。これから隆夫が頑張って、誰からも文句なく認められる様な結果を出して行けば良いのだから。頑張って欲しい……。
そんなことを思いながら、亜希子は隆夫の勤めるビルに向かって歩いて行く社員たちの姿を見ている。
ここで出社して来る隆夫に会えないだろうか……バックからもう一度携帯を出して隆夫のナンバーへ発信する。
この月曜からの三日間の出来事を、隆夫に聞いて欲しい。シュンイチ君には誰にも言わないって言ったけど、どうしても隆夫にだけは聞いて欲しい。私がどんな目にあったのか、どんなに恐かったのか……。そして、相談に乗って欲しい。これから私はどうしたらいいのかを。
呼び出し音が続いているけれど繋がらない。ああ、どうして出てくれないんだろう。
隆夫の姿も見つからない。似ている体格の人を見つける度にアッと思うけど、よく見るとどの人も違う。
「あら倉田さん、お早う~今日は大丈夫なの?」
後ろから声を掛けられてビクッとして振り返ると、出社して来た小石さんだった。
「あ、どうも、お早うございます。どうもすみませんでした。ご迷惑お掛けしちゃって」
と言いながら携帯を切ってバックに戻し、さり気なく住建部のあるビルの方へ歩き出す。
「心配したわよ、倉田さんが風邪で2日も休むなんてこと一度も無かったからね、何か大事にならなきゃ良いって皆で言ってたのよ」
「はぁ、どうも、すいませんでした。月末なのに休んでしまって」
私がここで立ち止まって何をしてたのか突っ込まれたらどうしようと思ったけど、小石さんは何も言わない。でも内心では私が隆夫を探してたことを察しているのかもしれない。
適当に会話を交わしながら、住建部のあるオフィスビルの入り口へと向かう。
住建部はそのビルの6階にある。社員は全部で31人。今ではそのうちの半数が若い派遣社員で占められている。派遣社員なんて制度の無かった頃は年配の男性社員が殆どだったのに、リストラと言う言葉が流行り始めてから、正社員の数はどんどん減って行った。
亜希子もそのうち辞めさせられるのではないかと恐れを抱いていたけれど、年功と共に給料が上がって行く男性社員とは違い、いつまでも低賃金で小間使いの様な仕事をする女子社員は、リストラの相手にすらされていないらしかった。
亜希子は入社17年目のベテランだけど、ベテランと言ってもしている仕事は殆ど一日中パソコンの画面に向ってキーを打つだけ。
注文書の打ち込み~発送の手配~伝票起こし~請求書の発行~という、言わば画面上の流れ作業をしているだけだ。
男性の正社員は建築家の設計プランから関わって家を建てる為の資材を選択し、工事現場にも立ち合って、完成まで見届ける。
女子の仕事はパソコン上の流通を担うだけなので、商品の流れは分かっていても、現物を目にすることは無いので具体的な仕事をしている実感は無い。
サイディング(外装資材)床板・壁・天井板。それにシステムバスやキッチン等の設備も扱っているが、変わった名前の付いた鉄のパイプやボルト等、画面上で品名を知ってはいても、何に使っているのかも分からない物もある。
支払いや請求の締め日が迫る月末は忙しいけれど、あとは大体同じ様な一日が過ぎる。
亜希子がやっている様な仕事は、若い派遣社員でも要領を覚えれば容易にこなせるだろう。
むしろ若い人の方がずっと迅速に処理出来るのではないか。会社がそんな考えになれば自分も辞めさせられるのではないかと思い、亜希子は事務的な仕事以外にも、お茶汲みから雑用までどんなことでも文句を言わずにこなした。そうして少しでも会社にとって自分は必要な人材なのだということをアピールする様に心がけている。
職場での亜希子には静かで物分りのいい人……というイメージが定着している。若い人みたいに希望とか野心を抱いても、もう何も無いのだから、これからは大人しく、ただ安定した生活の為に、嫌なことがあっても我慢して、目立たぬ様に、でも与えられた仕事はちゃんとこなせる人として、ここにいさせて貰うようにしよう。
それより他に生きて行く方法は無いのだから、と自分なりに割り切ってやって来た結果が、亜希子に対して周りが感じているそうした印象なのだろうと思う。
コレが私の人生なんだ……小さい頃夢見ていた。コレが私の将来なんだ。特に何になりたいとか具体的な夢を抱いていた訳ではない、だからいけなかったのかもしれないけど。けどきっと将来には何か待っている様な気がしてた、何の根拠もなく期待していた。
そして今では何の資格も特技も無い、パソコンを叩く以外何も出来ないただのオバサンになってしまった。
ある日私がいなくなったとしても、代わりの人は幾らでもいる。この会社にいる限り生活は安定していても、これ以上出世することも給料が上がることも無い。
エレベーターで6階のフロアーへ到着するとロッカールームへ入り、制服に着替える為に自分のロッカーを開く。小石さんのロッカーは奥の方にある。
「本当にどうもすいませんでした。月末なのに休んでしまって」
「いいのよそんなことは、それよりもうすっかり大丈夫なの?」
「はい、お蔭さまで、只の風邪でしたので」
「今日は大事にしてなさいよ、もし具合が悪くなったらすぐ言ってね」
「はい、ありがとうございます」
小石さんは私のことを思い遣ってくれている様だけど、本当は普段あまり会話の弾まない私が愛想良く言葉を返すことが嬉しいのか、ちょっと楽しそうな感じがする。
私としては忙しい時期に二日も休んでしまった後ろめたさもあったし、また仮病がバレてはいけないと思ったので、あまり媚び過ぎない様にと気を付けながらも、なるべく愛想良くしていなくちゃと思う。
「あら? あれっ、何よそれ! どうしたの?」
スカートを脱いだ私を見て、急に小石さんが大きな声を上げる。
何だろうと思って自分の身体を見ると、ブラウスとパンツの間から覗いた腰の脇に、大きく紫色の痣が出来ている。俊一に蹴られた時のものだ。アッと思って慌てて隠す。
「あ、コレ家でちょっと、転んじゃって、フラフラしてたもんだから」
「本当? ぶつけたの? まぁ~酷いじゃないのそれ、誰かに殴られたみたいじゃないの」
ドキリとする。
「あの、大丈夫ですから」
「ダメよこれ、湿布でもしとかなきゃ、ちょっと救急箱持ってくるわよ」
「あの、ホントに、大丈夫ですから、もうホントに……」
と小石さんの手を振り退けて、そそくさと着替えを終えてロッカールームを出る。
タイムカードを押してオフィスへ入る。
「お早うございます~」と努めて明るい調子で言いながら、自分のデスクに向かう。
隣の席の淵松絵美子さんが、朝食の菓子パンをコンビニの袋から出して食べているところだった。
「あら倉田さん大丈夫~?」と口をモグモグさせながら言う。
「はい、すいませんでした。今日は大丈夫ですので……」
と答えながら自分のデスクに置かれているメモや届けられている書類を確認する。
その中に宛名も差出人も書かれていない封筒が混じっているのに気が付いた。中に何か入っているのか、少し膨らんでいる。
蓋も貼られていないので中を見ると、鍵が一本入っている。
ハッと思って絵美子さんに見られない様に気を付けながら、そっと掌に出してみる。
それは亜希子のアパートの合鍵だった。隆夫が持っていた筈の……。
私が休んでいたこの二日間のうちのどちらかに隆夫が訪ねて来て、ここの誰かに言付けて行ったんだろうか。
でもこれを渡された人は私と隆夫との事情を知っているから、気を遣ってさり気無く他の郵便物と一緒にしておいてくれたのだろうか。
ショックを感じながら鍵をポケットに入れると、何も気にしていない様にパソコンを立ち上げる。
休んでいた間に来たメールと、建設会社や工務店からの注文をチェックするのだが、気持ちが動揺してるせいで、なかなか頭に入って来ない。
隆夫が来たのなら、私が風邪で休んでいることも伝わっていたのではないか……。
「倉田さん、お早うございます」
振り向くと課長の牧が間近に立っている。
「大丈夫? 心配したけど、ああ、顔色良さそうだね」
と顔を近づけて来るのを我慢しながら「はい、もう大丈夫ですので」と引きつる微笑みを浮かべて答える。
牧は何気なく亜希子の座っている椅子に手を掛けながらパソコンを見る。椅子に置かれた牧の手に身体が触れるのが嫌だ。
「注文見といたけど急ぎの納期の物は無かったから、まぁボチボチやってよ、良かったら何か栄養のある物でも御馳走するからね」
「はぁ……」結構です! と言いたいけど口には出さない。
仕事を始めると他の社員たちもザワザワし始めて、以前と同じオフィスの日常が戻って来る。そう、これが私の日常なんだ。まるで何事も無かった様だ。
それはそうだ。何かあったのは私だけで、ここでは何事も無かったのだから。ほんの2日間私が風邪で休んだことなんて、会社からみればほんの一粒のチリが落ちたくらいのことでしかない。
モニターを見て溜まった受注を処理しているフリをしながら、密かにインターネットに接続して新聞社の報道サイトを立ち上げて見る。
幾つか掲示されている事件の中からすぐにその見出しが目に飛び込んで来る。
『世田谷区で起きた高校生の母親刺殺事件』
……刺殺!
記事の内容を読む……
『世田谷区で高校二年生の少年が母親を包丁で刺して逃亡するという事件が起きた。少年の行方は未だに分かっておらず、警察による捜索が続いている。事件は26日の夜父親が帰宅したところ、妻が室内で血を流して倒れているのを発見。直ちに通報し、病院へ運ばれたが、母親は昨日病院で死亡が確認された……』
26日の夜……やっぱり月曜日だ。その画面には記事と一緒に事件のあった家の写真が載せられている。詳しい住所は伏せられているけれど、その家は亜希子のアパートの近くの、今朝もパトカーが止まっていたあの家に間違いない。
両脚から小刻みに震えが上がってくる。殺人……母親を刺殺……サイトに踊る文字が改めて恐ろしい事実を突き付けて来る。
そうだ。あの子は人殺しなんだ。あんな可愛い顔をしていても、あの子が人を殺したということは事実なんだ。しかも自分の母親を。私だって約束を守って帰らないと、裏切られたと思って恨んで殺そうとするんじゃないだろうか……。
最初の夜、正体の分からなかったシュンイチに縛られて、殴られたり蹴られたりした時の恐怖が蘇ってくる。
自分のお母さんを殺すなんて、一体何があったというんだろう。警察は父親から詳しい事情を聞いているという……。
事件に関する記載はそれだけだった。事件が起きた時に実際にどんなことがあったのかまでは書かれていない。
被害者は意識が戻らないまま亡くなってしまったし、目撃者もいないので、事件が起きた時の状況は誰にも分からないということなのだろう。逃亡中である少年が見つからない限り……。
刺されたお母さんは昨日病院で亡くなったと書いてある。昨日亡くなったということは、昨日までは生きていたということなんだろうか。昨日シュンイチがテレビで何かの報道を見て暗く落ち込んだ表情になっていたことが思い出される。アレはきっとお母さんが息を引き取ったことを知って、ショックを受けていたんじゃないだろうか。
昼休みになった。今日はお弁当が無いので外に買いに出る。コンビニでふたつ入りのオニギリと、カップにお湯を注ぐだけの味噌汁を買って来る。
会議室に行くと、他の社員たちがそれぞれ自前の弁当や買って来た物を食べている。いつも通りの風景を見ていると、月曜の夜からの出来事が本当に夢だったのではないかという気がしてくる。
今日家へ帰ったら、シュンイチ君はいなくて、割れたガラスも元に戻っているかもしれない。そもそも何も無かったのだと言われても、ああやっぱり夢だったのかと納得出来そうな気がする。
何処に座って食べようかと見回すと、他の人たちとは少し離れて、例の派遣の安高君と木村由さんが仲良く一緒に食べている。
……なんだ。安高君ったら『僕が正社員じゃないせいで相手にされない』なんて言ってた癖に、結局は上手く行ってるのかな……。
等と思いながら見ていると、後から入って来た小石さんが私を見て、近くに来たそうな感じだったので、そそくさと奥の窓際に行って、角の椅子に座る。
誰にも話しかけられたくない。仲好さそうに食べている安高君と木村さんを少しやっかむ様な気分になりながら、そ知らぬ顔をしてオニギリを食べる。
さっき買い物に出た時、もう一度隆夫に電話してみようと思っていたのだけれど、結局電話しなかった。封筒に入っていた鍵のことが気になっている……。
宛名も差出人も、何も書かれていなかった封筒。ただ鍵だけが入っていて、メモも付箋も貼られていなかった……。
近くの席で絵美子さんが、既に食べ終わったコンビニ弁当の残骸をテーブルに並べたまま、食後の肉マンを頬張って週刊誌のグラビアを見ている。
「倉田さん、昨日行って来たのよ東京ドームのコンサート、やっぱり光一最高だったわ、私デビューした時からずっと目を付けてたのよ、この子はきっと大きくなるってね」
「そうですか、凄いですね」
気を付けたつもりだったけど、ちょっと突き放す様な口調になってしまった。
絵美子さんはちょっと私の顔を見ると、また週刊誌に目を落として、話し掛けて来なくなった。
よく「女の腐ったの」って言い方をする。私は腐るもんか、って思うけど。どんな果物でも食べずに時が経てばやがて熟れ過ぎて、腐ってしまう様に、女だって生ものだから、何処かで腐って行くのかもしれない。
隆夫は今33歳。男の33歳はまだこれから頑張って社会的地位を築いて行く歳だけど、独身で社会的地位もない女の38歳は厳しい状況に追い込まれてる。
でも私は捨てられたのだとしても、隆夫を恨む気持なんかない。だって本当に貴方を愛していたんだもの。私を踏み付けにするなら喜んで踏み台になる、あの気の弱かった隆夫が強くなって、花形部門でバリバリ活躍して行くことの方が私にはずっと嬉しい。そして自分に悔いの無い人生を過ごして行って欲しいと思う。
そんなこと口に出して言えば、きっと負け惜しみに聞こえるだろうから言わないけど。私は本当にそう思ってる。そうとでも思わなければ自分が救われないからかもしれないけど、私はそんなことはないと信じてる。
だってそれが本当の私なんだもの、きっと……。
ふと窓の外を見ると、連なるビルに挟まれた大通りを自動車や人々が絶え間なく行き交っている。遠く車道に交差した線路の上を電車が走ってる。あれにも大勢の人が乗っていて、それぞれに抱えた問題とか、恋愛とか、いろんなことを思っているんだろうな……。
見るともなく見ているうちに気が付くと、隆夫のいる大建部のあるピカピカのビルに目を止めている。
思えばお母さんも、酔っ払って荒れたり、会社で嫌なことがあるとウジウジいじけてたりするお父さんのことを、いつも支えて上げて、頑張るべき時には叱咤してお尻を叩いてあげていた。だから家ではあんなに頼りなかったお父さんでも、立派に地方銀行の副支店長と言う役職を務めることが出来たんだ。そんなお母さんのDNAが、私にも受け継がれてるんだきっと。
そんなことをとりとめも無く考えているうちに、お昼の時間が終り、皆が仕事に戻り始める。
亜希子もゴミを片付けて席を立とうとしていると、タイミングを見計らった様に小石さんが側へ寄って来る。
「ねぇ倉田さん」
「はい」
「具合はどう?」
「はい、大丈夫ですので、ありがとうございます」
良い人なのだけれど、何かと訳知り顔で近付いて来ようとするところに、少しイラッとした感情を抱いてしまう。
「あ、そうそう昨日浜下君が大建部から来てね、倉田さんにって言付かった封筒置いといたんだけど」
「はい、受け取りました」
「そう」
「どうもすいませんでした」
まだ何か言いたそうに見ている小石さんを振り切って行こうとするが、ふと亜希子は振り返る。
「あの、小石さん」
「えっ? なあに?」
「あの、浜下君は、いきなり訪ねて来て封筒を渡して行ったんですか?」
「えっ? ああ……」
小石さんはちょと考える表情を浮かべる。
「いぇね、最初に電話があってね、それは業務連絡だったんだけど、その時貴方が珍しく風邪で休んでるって話をしたのよ、そしたら、その後しばらくしてから来て、あの封筒を倉田さんに渡して下さいって預けて行ったの」
「そうですか、ありがとうございました」
小石さんを残して会議室を出る。
隆夫は私が風邪で会社を休んでいることを知っていて、鍵を返しに来たんだ。
隆夫は見舞いに来てくれなかったし、電話もしてくれなかった……。
でもそんなこと当たり前じゃないか。別れた男に私は何を望んでいるというのだろう。
そうだ、隆夫には若いフィアンセがいるんだから、風邪を引いて休んでるからといって、前に付き合ってた女に連絡を取るなんてことをする訳が無い。
隆夫ったら私と付き合ってた頃はあんなに頼りなかったのに、栄転して少しは大人のルールもわきまえられる様になったのね……。
午後になった。溜まっていた受注品の発注と、業者へ発送する請求書の準備も大方追いついて、少し落ち着いてお茶を飲む余裕も出来た。
まるで何事も無かった様に以前と変わらない一日が過ぎて行く。それに連れて亜希子の頭の中も冷静に考えることが出来る様になって来ている。
誰にも言わないと約束したからシュンイチ君は私を会社へ行かせてくれた。
でも、隆夫にだけは話そうと思った……。どうしたらいい? 私が警察に連絡すれば、家に来てシュンイチ君を逮捕してくれるだろう。
シュンイチは本当に私が誰にも言わずに帰って来るなんて信じているんだろうか。もう今頃はアパートを出て何処かへ逃げて行ってしまっているのかもしれない。
でも……もし本当に待っていたら、もし本当に約束通りシュンイチ君が私の帰りを待っていて、そこへ警察官を連れた私が帰って来たりしたら、シュンイチは私に何て言うだろう。
「信じて待ってたのに! 裏切ったな、裏切り者!」
警察官たちが私の部屋に土足のまま雪崩れ込んで、泣き喚くシュンイチを羽交い絞めにして引き摺り出して行くんだろうか。
「信じてたのに! 信じてたのに!」
お母さんを刺してしまうなんて、何か余程の事情があったのかもしれない、誰にも相談出来ずに悩んでいたのかもしれない、それが私のことをうっかり信じてしまったばっかりに、捕まることになってしまったら、裏切られたと思ったら……私のことを恨んで、それこそもう誰のことも信じることが出来ない人間になってしまうのではないだろうか。
未成年の犯した犯罪というのは、例え殺人であっても普通の刑務所には入らずに、少年院と言うところに入れられる筈だ。
少年院では刑務所の様にただ閉じ込めて労働させるというのではなく、社会に更生出来る様に専属の教官がついて教育するのだと聞いたことがある。
後から恨まれたらと思うと恐いけど、でもあの子をこのまま私の家にいさせてあげたとしても、私なんかに何がしてやれるっていうんだ。そうだ、警察の人に頼んで少年院に入れて貰って、社会に更生出来る様にして貰った方がずっと本人の為になるに違いない。
でも……もし本当に私のことを信じて待っているのだとしたら。あの部屋に警官が駆け込んで来て、泣き喚くシュンイチを乱暴に引き連れて行く様を見るのは嫌な気がする。
そりゃ身動きも出来ない程ギュウギュに縛られて、あんなに酷く殴られて、痣になる程蹴飛ばされたりもしたけれど、亜希子の手を握ったまま『魘されてたら起こしてよ……』と言って目を閉じたシュンイチの顔が思い出される。
5時になり、周りもそわそわし始めて、仕事を切り上げて帰る算段をし始める。亜希子はパソコンでもう一度事件について報じられているサイトを開いて見る。
事件の続報が入っている。それは殺された母親の夫、つまりシュンイチの父親の証言だった。
『……殺された母親は普段から少年の教育に厳し過ぎる程熱心に当たっており。少しでも成績が落ちると酷い折檻をしていたという。
事件の起きた日は少年の通う高校で父母会があり、一学期の中間テストの成績表が父母たちに渡された。父親は母親が学校から渡されたテストの成績について、帰宅してから少年との間で諍いがあったのではないかと証言している。父親は大学病院に勤める内科医であり、母親も元は同病院に勤める医師であった……』
教育熱心が高じて? シュンイチ君のお母さんは自分を殺す程に子供に憎しみを抱かせてしまったというのだろうか……何という悲劇だろう。
「倉田さん。どう調子は?」
ハッとして画面を切り換える。牧課長が笑顔を向けて後から話し掛けている。
「はい、大丈夫です」
「そう……」
牧はちょっと周りを気にする様に見回してから、小さな声で話しかける。
「それじゃどう、病み上がりになにか栄養付けて、元気になる為だったら俺喜んで御馳走するからさ」
「はぁ」
「元々完全に健康な身体じゃないだろう。少し精付けた方が良いと思うよ」
「すいません。でも今日は、やっぱり真っ直ぐ帰って、大人しくしてた方が良いと思いますので……」
と言い、なるべく屈託の無いように笑顔を浮かべる。
「そう、それじゃもう少し様子を見てからだね、どっちにしても身体を一番に大切にしなきゃね」
聞いてるこっちが恥かしくなる様な優しい言葉を振り撒いて、今日は諦めたのか離れて行った。
牧の言葉が引っ掛かっている「完全に健康な身体じゃないだろう……」。
12年前に府中駅で倒れた時の件で、私が子供の出来ない身体になっていることを牧課長は知っている。
さり気無く私の身体を気遣ったつもりなのだろうけど、その一言で自分でも気にしていなかったことを穿り返されて、どれだけ感情を乱されているのかを、あの人には分かる筈も無いのだろう。
定時の5分前になったので、パソコンを切り、デスクの上を片付けて、帰りの支度をする。
5時半にチャイムが鳴るとロッカールームへと急ぐ。
制服のポケットに入れたままになっていた合鍵を出して、バックへ入れる。
私が風邪で休んでいることを知って、それから鍵を返しに来た。私と顔を合わせずに、鍵を返せる良い機会だったから……。
隆夫が亜希子に別れ話を持ち出して来た時、隆夫はポロポロ涙を流して泣いた。
「ごめんね、でも僕、あの子のことが凄く好きになっちゃったんだよ」それでも32歳の男か! と思ってしまったけど、それが隆夫なのだった。
隆夫の涙はきっと、私に対して悪いと言うよりは、そんな悲劇の状況に陥ってしまった自分に酔っている様に見えた。
「あの子は弱いから、僕が守ってやらなくちゃダメなんだよ」その言葉「守ってあげたい」は私が付き合い始めた頃隆夫に対して持っていた感情だった。
あの頼りなくて可愛かった隆夫が年下の女と付き合うことが出来るなんて思えない。しかも7歳も年下だなんて。私が面倒を看てあげなきゃ何も出来なかった癖に……。
ひとしきり涙の別れ話を快く? 受け入れてあげた後、私は何の気なしのフリをして聞いてみた「何で私じゃダメだったんだろうねぇ~」って、そうしたら隆夫はこう言った「亜希子は何を言っても優しいだけで、張り合いが無いんだよ」って。私にその優しさを求めたのは貴方じゃなかったのか!。
そっちにとっては他に好きな人が出来たから終わらせれば良いということなのかもしれないけど、私にはまた他に好きな人を探せば良いという程余裕は無い。何も考えずにそんな言葉を口にする隆夫が許せなかった。
あの時惨めに「捨てないで」と形振り構わず縋り付いていれば……と思わないこともないけれど、そうなればもっと悲惨な別れ方をして傷ついたと思う。けどあれで本当に良かったのか、私はプライドを捨てることが出来なかったのか……。
いつもの様にそそくさとビルを出て、いつもの様に夕暮れの中を、帰宅を急ぐ他の会社員たちと共に駅へ向う。
日本橋駅から地下鉄銀座線に乗り、表参道駅で千代田線に乗り換える。そして代々木上原駅からは地上へ出て、小田急線で経堂へ向う。
電車の窓の闇の中に家の灯りがぽつぽつと浮かぶのを見つめていたら、ふとそこに他の乗客に紛れて自分の顔が映っているのに気が付いた。
近頃は鏡を見ると愕然としてしまう。もう一生取れない染みや皺がどんどん増えて行く、顔全体が徐々にだけれど確実に枯れて萎びて行っているのが分かる。もうここから若返ることは無いんだ。コレがもっと進行して行くだけなんだ。40歳を前にした女にはもう後が無い。隆夫にはこんな私の心を思いやる余裕はきっと微塵も無いのだろうと思う。
いつもの様に帰って来た。まるで何事も無かった様に……。
これで家に帰った時、誰もいなくなっていれば、もう本当に何の変哲もない、いつもの日常だ。もしかして割れたガラスも元通りになってたりして……。
そしたら私は思うだろう。あの出来事は幻だったのだろうって、そして何の問題もなく、また寸分違わぬ生活に戻るのだ。ひとりぼっちの詰まらない、取るに足りない人生に。
つらつらと思いながら、駅を出た亜希子はいつもの様に商店街を回って買い物をする。
えっと、今日はカレーを作るから、ニンジンと、ジャガイモと……お肉は奮発して牛肉にするかな、あの子はいっぱい食べるから300グラムくらい買っていこうかな。
一緒に食べるサラダのことも考えて、レタスやトマトまで買ったので、いつになく両手に提げた買い物袋が膨らんで重くなる。
商店街を抜けて信号を渡り、アパートへと続く住宅街を歩く……。
駅前にある交番はまるで存在しなかったかの様に、亜希子の視界に入らなかった。
一体何をしてるんだろう。あの子との約束を守って、二人分のカレーの材料を買って帰ろうとしている。
本当にあの子の為を思うなら、警察に捕まって少年院に入り、犯してしまった罪を反省して、更生出来る様に指導して貰う方が良いに決まってるじゃないか。
……だけど、その為に私があの子に恨まれてしまったらと思うと恐い。いや私の気持ちはそれだけではないという気もする。
出来ることなら私に話して欲しい。どうしてお母さんを刺してしまったのかを。
教育熱心だったというお母さんは、本当にそんなに酷いお母さんだったのだろうか。シュンイチ君は本当はどんな気持ちでいたのか。刺してしまったお母さんのことを今はどう思ってるのか、私を信じてくれたのなら、本当のことを話して欲しい。
そして私はこれからの彼の為に、自分から罪を反省して警察に出頭して行ける様に諭して、勇気付けてあげたい。そしたら私は一緒に警察署まで付き添って行ってあげる。
建ち並ぶ高級住宅地の中を歩いて、もうすぐアパートに着いてしまう。
でもきっと、もうあの少年はいないかもしれない。幾らなんでも、あんなに酷いことをされた私が、本当に約束を守って誰にも言わずに帰って来るなんて、本気で信じているとは思えない。いくら17歳の高校生といったって、そこまでバカじゃないんじゃないだろうか。
もし本当に部屋からいなくなっていたら、それならそれで、私は約束を破らなかったし、また普通に元の生活に戻れるだけなんだ。
いよいよアパートに続く路地に近付くと、まだ同じ場所にパトカーが止まっている。
もしかしたらシュンイチ君はもう捕まって連行されてしまってるんじゃないか……。
心配になって自然と急ぎ足になり、狭い路地を抜けて、ブロック塀に囲まれたアパートの敷地に入る。
部屋の電気は点いてない。誰か訪ねて来た時の用心に消してるんだろうか、ノブをひねると鍵は掛かったままだ。
鍵を開けて中へ入る「ただいま」と声をかけてみる。暗い六畳間から返事は返って来ない。
台所の床に買い物袋を置いて、六畳間に入って電気を点ける。
パチパチッと明滅して部屋が明るくなる。
部屋の隅に敷かれた座布団の上で、蹲る様にして寝ているシュンイチがいる。
本当に待ってた……。
気がついたシュンイチは眩しそうに目を開ける。
「もう~遅かったじゃんかよ、お腹空いて死にそうだったんだからな」
「ごめんごめん、今急いで作るから」
手を洗って部屋着に着替えた亜希子は、急いで夕食の準備に取り掛かった。
第二章
1
ニンジンとジャガイモの皮を剥いて、一口サイズに切ってフライパンで炒める。牛肉も炒めて一緒に鍋に入れ、水の量を測って茹でる。亜希子は玉ねぎがあまり好きじゃないので入れないことにする。
カレーを作っている間、シュンイチは六畳間でテレビを見て待っている。
肉と野菜が茹で上がって、カレールウを溶かして煮込み始めると、カレーの臭いが辺りに充満して行く。
「わー美味そうだなぁ~、ねぇ早く喰いたいよ~もう出来てるんでしょ」
「待ってね、よーく煮込んだ方が美味しくなるんだから」
「うう~俺もう飢えて死んじゃいそうだよ」
カレーを溶かした鍋をお玉でかき回していると、ふとシュンイチのお母さんもこんな風にシュンイチ君にカレーを作って上げたことがあったんだろうか、と思う。
もし自分にもこんな子供がいたとしたら、きっといろんな料理の作り方を勉強して、毎日でも作って上げるんじゃないかと思う。
亜希子の同級生たちはもう殆どが結婚して子供もいる。皆きっとこんな生活を送っているんだろうな、夫がいて、子供がいて、せっせと作る晩御飯……。
そんな人生が亜希子にもあったろうか、あったのかもしれない、でも自分でそれ程強くそうなりたいとも思わなかったから、ならなかったのかもしれない。かと言って今の生活がそれ程嫌だという訳でもないけれど。
今更ながら家庭に入る暮らしってのもそんなに悪く無いのかな……と思う。
でももう、少なくとも亜希子には子供がいるという暮らしは殆ど不可能なのだけれど。
美味い美味いと言いながらシュンイチは夢中で食べている。
本当に私が自分のことを誰にも話さずに帰って来たと信じてるんだろうか。まぁ実際そうなんだけれど……。
それにしてもこんな華奢な身体つきをしているのに、この食べっぷりはどうだ。若いということを思い知らされる。
私の作ったカレーの味はどうだったんだろう。お母さんの作ってくれたのとは違うのかな……聞いてみたいけど、聞いてみることは出来ない。
シュンイチは呆れて見ている亜希子を尻目に3杯もお代わりして、4号炊いたジャーのご飯を全部平らげてしまった。
食べ終わった頃不意に、外で複数の足音が響いたかと思うと、ドアをノックする音が聞こえる。
ドアを開く音がして、人の声が聞こえて来る。
「夜分にすみません。北沢署の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして……」
ドキリとしてシュンイチと顔を見合わせる。
その音は隣りの部屋を挟んだもう一つ向こうの部屋から聞こえて来る様だった。
「実は最近この近所で事件がありまして、この少年を探しているんですが、お心当たりはないでしょうか……」
真青な顔をして亜希子の顔を見ていたシュンイチは、咄嗟に近くに置いてあった包丁を手にする。
亜希子は押入れを開けて慌ただしく布団を引っ張り出すとシュンイチに言う。
「早く、中に入って」
シュンイチは窓の方を見ながら逃げようかと迷っていたが、亜希子に従って包丁を手にしたまま押入れの中へ潜り込む。
押入れの襖をパタンと閉めて、テーブルに乗った二つの皿をどうしようかとオロオロしていると、隣の部屋をノックして「ごめんください」と呼びかけている声が聞こえてくる。
隣はきっといないだろうから、すぐにこの部屋へ来てしまうだろう。
二つの皿を流しに運べば玄関から見えてしまうかと思い、テーブルの下に置く。
その時コンコンとこの部屋のドアをノックする音が響いた。
「こんばんは、夜分にすみません」
「はい……」
六畳間と台所を隔てるガラス戸を閉めて、玄関のドアを開く。
二人の男が立っている。少しくたびれた感じだが、二人ともきちんと背広を着た中年で、片手に警察バッチの付いた身分証を呈示している。
「北沢署の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして」
「はぁ、な、何でしょうか……」
「実はこの近所で事件がありまして、行方不明になっているこの少年を探しているんですが」
と亜希子に見せたのは、パスポートや免許証に貼る様な、人物が無表情に正面を向いた証明写真で、そこに写っているのは紛れも無く高校の制服を着たシュンイチの顔だった。
未成年の犯罪はそれが殺人であったとしても、本人の顔写真がマスコミに流れることはない。でもこうした警察の聞き込みの場合には、やはり本人の写真を持って目撃者を探すのだろう。
亜希子は平静を装っているが、足のふくらはぎの後が両脚ともブルブルと震えている。
「さぁ……見たこと、無いですけど……」
ぎこちない棒読みの返事だった。顔に血が登るのが分かる。
刑事さんというのは人の表情や嘘を見抜くプロなのだ。きっと私の不自然な喋り方は嘘を言っていることが見え見えに違いない。
表情ひとつ変えずにじっと亜希子を見つめている刑事の目が、全てを察知したと言っている様に見える。
「そうですか? このすぐ近くに住んでいたんですけどね、一度も見たことありませんか」
「は、はい……」
私は嘘を付いている。でも、今ならまだ、その少年に包丁で脅されていたので、恐ろしくて本当のことが言えませんでした。と言い訳が出来るかもしれない。
「そうですか、それじゃ今度、この少年に似てる人を見かけたらすぐにこちらへ連絡して下さい」
と言って後にいた方の男が名刺を差し出した。名刺の肩書きには警視庁北沢署捜査一課刑事……と書かれている。
「それではご協力お願いします」
二人は帰って行った。ドアを閉めてもまだ足が震えている。
あの二人は分かってたんじゃないだろうか、私が本当のことを言えないのは、きっと中にいる犯人の少年に脅されていたからだと、そこまで見抜いて帰って行ったんじゃないだろうか、だって私の声が震えてたのが自分でも分かるもの。
耳を澄ませ、二人の足音が完全に聞こえなくなるまで待つ。
聞こえなくなっても暫らくドアの前でじっとしている。覗き穴から外を見てみる。誰もいない。
六畳間に戻り、押入れに向かって「大丈夫だよ」と声を掛ける。返事が無いので襖を開く。
真青な顔をしたシュンイチが包丁を持ったまま座っている。
「もう行っちゃったから大丈夫だよ」と無理に笑顔を作って言うと、シュンイチは包丁を手放して、そのまま亜希子の方に両手を伸ばし、抱っこをせがむ子供の様にすがり付いて来た。
腕の力が強過ぎて息が苦しい。亜希子はシュンイチの肩越しに、放り出された包丁の鈍い光を見ている。
ザッパーン……ザザー……シュンイチが風呂に入っている音を聞きながら、亜希子は台所を片付け、明日持って行くお弁当の下ごしらえをする。
下ごしらえと言っても冷凍保存してあるレトルトのハンバーグを解凍したり、付け合せにする野菜を刻んだりするくらいなのだが。
この部屋の風呂に他人が入っている。隆夫がいた時を思い出して少しドキドキしている。
シュンイチが風呂に入ると言った時、目の前で裸になられたらどうしようと思ったけど、シュンイチは下着を着たまま風呂場へ入り、細く開けたドアの隙間から脱いだ下着を放り投げて、パタンとドアを閉めた。
シュンイチはゆっくりと入浴している。もう自分が風呂に入っている間に亜希子が外へ逃げてしまうという様なことは考えていないのだ。
さっき訪ねて来た二人の刑事がまた戻って来る気配も無い。あの刑事たちは私の言ったことを信用したのだろうか。自分ではあんなにオドオドして、嘘を言っているのがモロ分かりだと思っていたけど、聞いている側からはそれ程怪しい言動には見えなかったのだろうか。何の縁も無い私がシュンイチのことを匿っているとは思わなかったのかもしれない。
匿う……そうだ。私は警察に嘘を付いて、犯罪者を匿った……。私にはまだシュンイチに包丁で脅されていたので仕方無く嘘を付いたという言い訳が残されているだろうか。
それは出来るかもしれない。もしシュンイチを引き渡したら後から恨まれて仕返しされるのではないかと思って、恐かったって言えば、言い逃れをすることが出来るかもしれない。
でも私には分かっている。私は自分の意思で刑事さんに嘘を付いた。殺人事件を起こした犯人を、自分の母親を刺して逃げている犯人を、自分の意思で匿ったんだ。
「ねぇ、出るからタオルちょうだいよ」
と言う声に我に返り、ドアの隙間からバスタオルを渡し、ワゴンの上にTシャツと短パンを用意してあげて、六畳間に入ると仕切りの戸を閉める。
出て来たシュンイチと入れ替わりに、亜希子は何日振りかの湯船にゆったりと浸かった。
シュンイチ君……私のことを本当に信じてくれたのなら、本当のことを、自分の犯した事件のことを包み隠さず話して欲しい……。
風呂から出ると、シュンイチはすっかりリラックスした様子で寝転んでテレビを見ている。刑事が自分を捜しに来たというのに、私が嘘をついてまで庇い、追い帰してくれたということで、ここにいる限り自分は安全なのだと安心しきっているのか。
明日からはちゃんとお弁当を作って会社へ行くので、もう寝なければならないと言うと、シュンイチはテレビを消して押入れから布団を出して敷いてくれる。
一組しかない布団を部屋の真ん中に敷く。そして昨夜までの様に隣に座布団を並べようとはしない。
どうするのだろうと見ていると、シュンイチは敷いた布団の中に入り、少し横へずれて、私にここへ来て一緒に寝ようと言う。
躊躇した……私は38歳。シュンイチ君は17歳。
「早く、電気消してこっちに来いよ」
「まさか一緒に寝ないと殺すって言うんじゃないでしょうね?」
と言って笑いながら、電気を消して布団に入る。シュンイチはまるで子供みたいに亜希子の身体に手を回してすがり付いて来る。
そうだ……子供なんだ。そう、まるで親戚の子供、私は親戚の叔母さんなんだきっと。
シュンイチはきっと私のことをそんな風に思っているのだろう。そして今は自分を匿ってくれる唯一の味方。
とはいえ、子供と言うにはやはり身体が大きい。年齢よりも子供っぽく見えるといっても、シュンイチは高校生なのだ。もう身体だって立派に機能が発達しているに違いない。
亜希子の身体にピッタリと寄り添うシュンイチの両脚の間に意識が行った。ちょっと盛り上がっていて、フニャッとした感じがする。気のせいか、そこだけ温かく汗ばんでいる様な感触がある。それは隆夫と別れて以来、何ヶ月か振りに感じる異性の温もりだった。
隆夫と付き合っていた時は、今まで生きて来た中であれ程セックスに貪欲だったことはなかった。その暖かさも、激しさも、好きな男性と一体になる幸せも始めて味わった。
亜希子にとって隆夫が始めての男性だったという訳ではないけれど、あんなに一人の相手と集中して身体を求め合ったことはなかった。
シュンイチの感触にふと自分の身体が反応しかかっているのを感じて、はしたないと思い、そんな自分を振り払う。
シュンイチはただ亜希子の胸に顔を埋めて目を瞑っている。以前アパートの入り口で朝よく見かけていた、制服を着たシュンイチの姿が浮かんで来る。
名門の高校に通って、真面目に勉強して。女の子のこととか、エッチなことにはまるで興味がないのだろうか。
嫌、17歳の健康な男の子ならそんなことは無いと思う。シュンイチ君は教育熱心なお母さんの為にそんなことは我慢して、学校の勉強だけに専念する様に仕向けられていたのかもしれない。
隆夫の家も、両親が揃って教育熱心で、隆夫は高校を出るまでデートはおろか、女の子の友達さえ一人もいなかったと言っていた。
この子の母親は教育熱心が過ぎて、息子に自分に対する憎しみを抱かせてしまい、遂には殺されることにまでなってしまった。隆夫の両親の場合はどんなだったんだろう。
隆夫は自分の親は大事にしていると言っていたけれど、私から見るとどこか遠慮しているというか、恐れている様なところがあった。
交際していた5年間に、亜希子は一度も隆夫の両親と顔を会わせたことはなかった。結婚の挨拶ということにでもならない限り、会う機会も無いだろうとは思っていたけれど。結局一度も顔を会わせることなく終わってしまった。
「結婚」ということをもっと早くに考えていれば……と思わないこともないけれど、今となっては遅すぎる。
付き合い始めた当初から、二人とも結婚は全く意識していなかった。というか私は子供が出来ない身体だということもあったので、半ば諦めてもいた。
だから隆夫に結婚を迫ろうという気も無かったし、隆夫とも結婚について敢て話そうとはしない様にしていた。
まだ私も30代に入ったばかりで、気楽な20代の延長の様な気持ちでいた。それに隆夫がいることで、何はなくとも余裕をこいてしまっていたのだ。
27歳だった隆夫も、結婚はまだ先のことだと考えている様だった。
けど心の何処かでは、いつかはきっと隆夫が結婚してくれるものと高をくくっていたのかもしれない。お互いに暗黙の絆の様な物が出来ているに違いないなんて、私だけが勝手に思い込んでいたのだ。
隆夫は異動して間もなく川原部長の取り持ちにより、大規模建築資材部の受付け嬢で、大手の取引先の娘でもある25歳の女と交際を始めた。そして結婚したいので別れて欲しいと亜希子に言って来た。
その入社三年目の遠藤由利子という女の顔を、以前に見かけたことがあるかもしれないけど、名前を聞いても思い出せなかった。敢て見ようとは思わなかった。だって見たってしょうがないと思うし。
5年が過ぎて、隆夫も30歳を過ぎたのと、社の花形部署である大規模建築資材部へ異動して仕事が充実し始めて、結婚して家庭を持つということを考え始めたのかもしれない。
隆夫にとって私は、それまでの間繋ぎだったのだ。やっぱり隆夫は子供の出来ない私とは結婚する気は無かったのだと思う。
隆夫は私にとって自分は数ある恋愛経験のうちのひとり、くらいの位置付けだと思っていたのかもしれない。
自分と別れたとしても、また新しい彼氏を作って新しい恋愛をして行くのだろう。くらいに思っていたのかもしれない。
シュンイチの寝顔を見つめながら、つらつらとそんなことを思っている。
(中巻へ続く)
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