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58 北への旅路
春の初月、三巡めの終わりごろ。
王都ゼローナに滞在した三人の公爵令嬢は、国王に退出を願い出て一斉に王城を辞した。
彼女たちはそれぞれの公都に戻らず、一路北をめざす。
正確には馬車で十日の道のりを北北西に。
国境の手前、いまだ早春のつめたさに微睡む冬の大地。北都アクアジェイルへと。
* * *
「よろしいのですか、陛下? 結局どなたも婚約なさいませんでしたが」
「ん」
規則正しく並ぶ高窓から陽光が白く差し込む。
春の日だまりにある回廊も、国王オーディンが歩むと、ぴしり、と空気が引き締まる。
深紅の絨毯が敷かれた執政区画を謁見の間へ。今日は、各地からの陳情を取りまとめた内務官による月例奏上の日だ。
オーディンは斜め後ろを歩く白髪の侍従長を振り向かず、にっと口角を上げた。
「べつに。派手なアピールにはなったろう。急いて定める必要などない。幸い、政略的な婚姻を結ぶ道理は、今のところないのだから」
「……どちらの姫君が王子様がたの御心を射止められるか。民の間では専らの噂でしたが」
「楽しみが長引いたな」
「はぁ」
小言をいなす王は愉しげだ。
角を曲がる。階段を降りる。歩調は乱れず、リズミカルに。侍従長の前には悠然と王のマントがたなびいている。
――魔族の来賓が去ってしばらく、王太子殿下はアイリス姫として登城した少年を北都へ送るかたわら、旧エキドナ訪問調査団の責任者に任ぜられた。
第二王子殿下はいつも通り。
第三王子殿下は……
こほん、と咳払いをした侍従長は、いかめしい調子で囁いた。
「陛下。この爺めが率直に申し上げますと、アストラッド殿下とカリスト公爵令嬢は、あと少しで婚約にこぎつけられたのでは? なぜ、あの『銀の姫君』を留めおかれなかったのです。侍女らの話から察するに恥じらっておいでのようでしたが、色よいお返事をくださるのは時間の問題でした。かくなるうえは公爵に直接……」
「まぁなぁ」
“爺”と自称する老侍従長は、はっきり言って王子王女を孫のように溺愛している。
それはそれでありがたいのだが、オーディンは控えめに苦笑した。
「のちの王子妃になればこそ、だ。誰にでも知見を広げるにふさわしい好機がある。あの令嬢にとってはそれが『今』なのだろう。弟を代わりに寄越すしかなかったジェイド家のアイリス嬢も、あの面々が赴けば半ば茶会に出席したも同然なのだし」
「? お待ちを、陛下。トール殿下のお立場は」
「……あいつは無理だろう。あれだけは、生涯花に操を立ててもおかしくない」
「へ、陛下ッ!!? そのような」
驚きで声を裏返らせた老人は、それ以上訴えられなかった。ちょうど謁見の間の玉座の裏手。王族控え室へとたどり着いたために。
「この話はここまで。よいな」
「は」
王は、悠々とその場に侍従長を残した。
老爺も恭しく従う。
――サジェスにしても、自分にしても、一瞬で北都や玉座に“翔ぶ”ことは造作ない。
ないのだが。
『王は海の導星のごとく、動かぬもの』
『動かずしてそこに在るもの』
と。
万事、心構えというものがある。
ゼローナ君主として然るべき采配を。
オーディンは、緩いなりに心がけている。
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