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そろそろ12月に差し掛かるっていう、11月の末ごろ。
21時半くらいので電車内で、僕はプチプチとシートから薬を取り出していた。
しずかに、だまって、口の中にひょいひょいと放り込んでいく。
薬の名前は、デパス。
(実際にはそれのジェネリックだから、違う名前なんだけど…些末なことだろ?)
一般的なメンタルヘルスのお薬で、たぶん聞いたことがある人も多い、ハズ。
※『くすりのしおり』(HP:https://www.rad-ar.or.jp/siori/index.html)のご紹介によると、効能は『神経症、うつ病、心身症における不安・緊張・抑うつ・睡眠障害の改善、けい椎症、腰痛症、筋収縮性頭痛における筋肉のこわばりなどの改善に用いられます』とのことです。
僕とは長い付き合いのあるヤツだ。
夫くんよりも、なじみのあるヤツだ。
こいつに命を助けられてる、自覚がある。
こいつに社会生活を支えられてる、自覚がある。
(裏切りかも)
医者に、ではない。薬への裏切りだ。
本来、人を癒すために開発された存在に対しての、罪悪だ。
電車はガタゴト音を立てている。終業後の、つかれた人々がたくさん周りにいる。
座席が空いていなかったので、僕はリュックをお腹側にまわして、立っている。
黄色がかったような、緑がかったような、
蛍光灯のひかりが、まぶしい。
ざわめきが、布がすれる音が、うるさい。
手持ちに水がなかったので、カラッカラに乾いた舌の上で薬は転がる。
かみ砕くと、ラムネみたいに簡単に薬は溶ける。シュワシュワはしない。
(なんだ、苦くもなんともない)
かみ砕くのは初めてだった。いつも他の薬と一緒に飲み込むので。
カラカラだったはずの咥内が、唾液と粉の混ざったものでドロドロとねばつく。
飲み込んで、一駅進んで、また薬を口に放り込んだ。
(そんな、すぐには効かないよな)
頓服っていうわりにのんびり屋なのだ、こいつは。
マスクの下でため息をついて、メッセージアプリを開く。
薬が回り切るとき、自分がただしく電車を降りられるのか心配だった。
だから、一駅ごとに夫くんに連絡した。既読はすぐにつく。
駅の報告の合間に、何度か夫くんの名を呼んだ。
呼んで、呼んで、呼んで。
家に帰りたい、と文字を打った。
*
『帰っておいで』
ごめん、ごめんよ、ごめん
『どうしたの、さとる』
どこにいるの?
『家の最寄り駅にいるよ』
さむい、ねむい
『電車のなかで寝ないように』
帰りたい……
『んー?』
あ、たまご、たまごない
『買っておいたよ』
嬉しい
【猫のスタンプ】
ねこちゃん!
『無事に帰っておいで』
ついた、ついたよ
どこ、どこ
*
駅についたのに、夫くんはいなかった。裏切者め、と黄色い点字ブロックを叩く。
ホームのコンクリートが、尻と脚を冷やす。ひとりで立つのは、難しかった。
薬がまわってきたのだ。がくん、がくん、視界がブレる。よだれが口からダララっと流れる。
人々が前を歩いていく。誰もこちらを見ようとしない。
僕だってお前らなんか見たくない。
電話がかかってきた。
夫くんからだった。僕はリュックを開きながら、飲んだ薬の数を告げた。
迎えにくるらしかった。パジャマだから少し待って、と言われた。
「駅の改札出て…ゴミ箱の横で、僕もゴミになってる」
はいつくばって改札を出た。社会のゴミになっていたら、夫くんがやってきた。
息を切らしている。まともな服を着たまともな人が、おかしい僕に手を伸ばす。
「もー、まったく」
夫くんが笑った。僕もおかしくって笑った。
ちゃんとしたゴミになるのも、難しいもんだ。
「立てる?」
立てた。夫くんの盛大なお荷物になりながら、駅の階段を上がり、外に出た。
ゲラゲラと笑う僕に、夫くんは「重いよ」と文句を言った。
「俺だって歳なんだからさ〜」
ごちる夫くんの背中を叩く。
家にたどり着いてすぐ、ベッドにふわーーっと、放り投げられた。
抱きしめてくる夫くんの体温が、ぬくっこくて気持ち悪くて吐きそうで、笑った。
「さとる、辛いのはわかるけどさ、こういうのは…」
「わかるか、わかるもんか、あは、あはは!」
「そりゃ、お前の苦しみの全部はわからないけど、」
「あっははは、あは! わかってたまるか!! 死ね、死んぢまえ!」
ボカスカと夫くんの背中を殴って、髪をひっぱって、グゥグゥと唸る。
それでも抱きしめてくる夫くんが、かわいそうだった。
「やめてくれよ…」
「何を?」
もっかい、僕は彼をなぐった。
「薬とか、そういうのは、やめて」
夫くんは僕の両頬を、分厚い手で挟んでそう言った。
ぬるぬるしている。僕を引きずって歩いたせいで、汗をかいているのだ。
ふふ、と僕は笑い声を漏らした。バカ笑いする元気はもうなかった。
「いいね? さとる」
真剣な瞳が近づく。唾液で濡れている僕の口に、彼はキスを落とした。
大事なんだよ、お前が大切なんだよと、彼の全身が、言葉が、叫んでいる。
僕はにじむ視界と、せりあがっていく胃液に溺れながら、答える。
「できない約束は、できない」
夫くんが傷ついたように歯を食いしばった。
僕は、僕の愛されがいのなさに、愛しがいのなさに、また、ふふっと笑った。
笑うしかなかった。
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