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第八話
やはり、私は夫の匂いが好きだ。
一日の後半の、くたびれたこの匂いが、特に好きだ。
硬い髪に頬をすり寄せ、何度も鼻から息を吸い込んだ。
しばらく私の変態行為をそのままにしていた夫が、背中に手を回す。ブラのホックに指が触れたのがわかり、ハッとなった。
私は今、下着姿だ。
抱き締めていた夫の頭を放り出して、飛び退る。
「な、なんだよ、逃げんなよ」
夫がのそりと腰を上げ、私のほうへと一歩、二歩と近づいてくる。
「ダメ、止まって」
「え? 和解したんじゃないのかよ、俺ら」
よくわからない。
ただ私は、再確認した。
夫の匂いが好きで、本体のことも好きなのだと。
あの男の匂いは、受け付けなかった。
その差は、多分大きい。
「まだ離婚するとか言うつもりか?」
夫が無遠慮に距離を詰めてくる。
「止まってってば」
両方の手のひらを向けて、堰き止めようとするのに、夫は止まらない。私の手首を掴んで、抱きしめようとしてくる。
「健ちゃん!」
「違う、別に、なんかしようってんじゃなくて、ただハグしようってだけだ。それもダメ?」
また、子犬の目だ。あざといと思いつつ、きゅう、と心臓が締めつけられる。
この人が、こんなふうに下手に出る姿を見たことがあっただろうか。
今すぐにでも、抱きしめられたい。
でも、今の私の体は、文字通りの意味で、汚い。
物理的に汚いのだ。
「ごめん、シャワー浴びさせて」
「え」
「その、さっき、浴びずに出たから」
「さっき」
夫がトーンダウンする。私の手首を掴んでいた手が、ずる、と滑り落ちていく。
「浴びてこいよ」
投げやりに吐き捨てる夫は、複雑そうだった。
他の男に抱かれた妻。
平気なのだろうか。
許すとか許さないとか、彼に言う権利は勿論ない。
でも、イメージと違った。もっと罵られて、激昂するかと思っていたのに。
潔癖症だし、二度と私に触れたくないかと思いきや、ハグ?
私の機嫌を取ろうとしてる?
モヤ、と心に影がかかる。
これから私たち夫婦は、一体どんな形になるのだろう。
きっと、少し帰りが遅いだけで、疑ってしまう。休日出勤のたびに、女と会うのかと気を揉むことになる。常に浮気の心配をして、お互いの不貞の罪に囚われ続けるのだ。
いつか、年月が経てば、笑い話になるかもしれない。
想像がつかない。なかったことになんか、なるわけもないのに。
ぼんやりとシャワーを浴びていると、浴室のドアが開いた。
「えっ、ちょっと、なんで入ってくるの」
素っ裸の夫がのこのこと入ってきた。驚いて胸を隠す私を一瞥し、夫が真顔で抱きすくめてきた。
密着した二人の頭上にシャワーが落ちる。
夫は無言で、私を抱いていた。
裸で抱き合っているのに、性的な意味合いを何も感じない。
ただ、温かい。
強張っていた私の体から、徐々に力が抜けていく。おそるおそる、夫の背中に腕を回した。
「美津」
「……うん」
「ごめん」
「うん」
「愛してる」
「え?」
「……ほん、本当だからな?」
夫の声が上ずっている。
「ねえ、今、顔赤い?」
「うるせえ、見るな」
小さく噴き出して、夫の胸に顔をうずめる。悔しいけど、可愛いなあと思ってしまう。
「美津」
手が背中、腰と移動して、尻を撫でた。手のひらが、優しい。指先が、優しい。中に入ってくる指は、いつもとは違って、遠慮がちだった。
「イヤか?」
夫が訊いた。
「イヤじゃないよ。健ちゃんは平気なの?」
数時間前、別の男が入っていた場所だ。
「美津は俺のだ。清めてやる」
「何それ」
笑いながら、嬉しくて、目の端から涙が零れた。
俺の、と言ってくれたのが嬉しい。
嫉妬してくれるのが、嬉しい。
出しっぱなしのシャワーの下で、体を繋げた。
バスルームに響く、自分の声。泣き声に近いそれが、タイルに跳ね返って、大きく反響した。
立ったままで、私の太股を持ち上げて、夫が腰を突き上げてくる。私は夫の首にしがみつき、快感を、幸福を貪った。
これは確かに夫なのだが、まるで初めての人とのセックスみたいに、新鮮な感じがした。
心境の変化のせいだろうか。
「風呂場でやったの初めてだもんな」
終わってから、新鮮だった、と感想を述べた私に、夫が笑って同意した。
それもある。義両親と同居していると、風呂場で致すなどという思い切った真似は絶対にできない。
全裸のままベッドに寝転んだ夫が「泊ってくか」と言った。
「近所なのに。もったいないよ」
ドライヤーで髪を乾かしながら声を張り上げると、同じく張り上げた夫の声が返ってきた。
「せっかく二人で来れたのに、帰るほうがもったいないって」
私たちにとって念願とも言える「車屋の裏のラブホ」であることは確かだが、どう捉えたらいいのかわからないセリフだ。
「それにどうせ明日、会社休みだし」
「でも、お義父さんとお義母さん、心配しないかな」
「俺ら大人だよ」
「朝ご飯作れないのも申し訳ないし」
「あの人たちも大人だよ」
「私、一応メールしとく」
ドライヤーを止めて、スマホを探そうとして、そこでようやく気が付いた。スマホが入ったバッグは自宅だ。
「健ちゃん、スマホ貸して」
「えっ」
「スマホ。私、家に置いてきちゃった」
バスタオルを体に巻いた格好で、ベッドの上の夫に手のひらを差し出した。
「俺が送っとくよ」
「見られたら困るの?」
「え、いや、何も……、今更何もないよ」
「そういえば、二十三歳とのLINE、どんな感じなの? 見せて」
「別に、面白くないって」
「見せて」
私の圧に負けた夫が、床に脱ぎ捨てたスラックスを指差した。
「ポケットに入ってる」
「あった」
ロックも何もかかっていない、まっさらなスマホだ。もし何か都合の悪いものがあったとしても、おそらくすでに、消しているだろう。
と考えて、自分でイヤになる。
こうやって、常に疑っていくのだな、と静かにため息を吐いた。
LINEのアプリを起動して、見覚えのある「よしの」を見つけると、迷いなくトークを開いた。
一番新しい発言は、女の「今日、会えませんか?」だった。送信日時は12:04。昼休憩に入った途端に送ってきた感じだ。それ以前は、私が昨日見た「好き」のスタンプで終わっていて、浮気がバレたあとは、夫からアクションを起こしていない。私への謝罪文をしたためていて、それどころではなかったのだろう。
スマホの画面を、下にフリックし、過去のトークを遡っていく。
トークの数は、意外にもわずかだった。
最初の発言は女のほうで、「ID教えていただいて、ありがとうございます」から始まっている。LINEの中の夫はクールな対応で一貫していた。どう接していいのかわからない、という戸惑いも見てとれたが、夫を好きな女との会話を眺めていると、チクチクと、胸が痛む。
──今日もカッコよかったです。今度、職場じゃなくて、二人で会えませんか?
──なんで?
──もっとお話したいんです。いつもすぐ帰っちゃうし、寂しい
──いいけど。別に俺、若い子が喜ぶ話なんてできないよ
──会えるだけで嬉しいですよ
ここで、夫が親指を立てたドヤ顔のスタンプを送っている。それに対して女が、ハートまみれのスタンプを返していて、直後に「いつにしますか?」とある。ものすごく積極的だ。
──いつでも。明日でもいいよ
──やったー。じゃあ、奥さんにご飯いらないって言っておいてくださいね。たまには美味しいもの外で食べないと、元気出ないよ?
「は?」
思わず声が出た。まるで私の作る料理がまずいみたいな言い方だ。この、小娘、とスマホを持つ手に力が入る。
──うちの嫁、料理は美味いから
夫の返しはフォローしているのか馬鹿にしているのか微妙な感じだった。
料理は? 「は」が余計じゃない?
夫の顔を睨むと、布団に潜りこんでいった。
あとは日時と場所の連絡だけで、例の「昨夜はありがとうございました。今度はラブホじゃなくてうちに来てくださいね」に続いている。
夫が積極的にアプローチをしたのではなく、終始受け身だったらしいことはよくわかる。
でも、相手の好意はわかりやすく、そんな子から夜、食事の誘いがあって、ほいほい応じているのだから罪がないとは言えない。この時点で下心が一切なかったとしても、結局ラブホに行って関係を持ったのだから、アウトだ。
情けない。
男の悲しい性を、見た気がした。
「もういいから、ブロックしておいて」
「うん、その前に。今日会えませんかに既読スルーしてるけど、これ、私が返事してもいい?」
「え、なんて?」
夫が慌てて布団から顔を出し、身を起こした。
「妻です、話は聞きましたって」
「いやいや、怖いだろ」
「何が?」
「よしのちゃんが怖がるって」
「よしのちゃん、ね……」
「よ、よしのさん」
「どうして向こうを庇うの?」
あっちが悪いのに、私の味方をしてくれないことに腹が立つ。
「本当は、よしののほうが大事? やっぱり、好きなんじゃないの?」
「違うって。ただ、その、俺も悪かったし、穏便に終わらせたいし、なあ」
「ブロックしといてってあなたが言ったんだよ? 穏便に終わらせたい? 矛盾してるじゃない」
夫が目を泳がせながら、「それは」と頭を掻く。
「今度会って説明しようって、思って」
「会って説明? ふざけてるの? もう、二度と、二人きりで会わないで。会ったら即離婚します」
憤慨しながら文字を入力する。
「ちょ、何送る気だよ」
夫が跳ね起きて、私の手元を覗き込む。と同時に送信ボタンを押してやった。
こちら側の発言が現れると、夫が「えっ」と素っ頓狂な声を出した。
──今、ラブホだけど、来れる?
すぐに既読が付き、「どこのラブホ?」と女からの返事があった。
「嘘だろ、お前、何考えて……」
「さっき、美津は俺のだって言ってくれたよね。私も同じ気持ちだよ」
うろたえる夫の頬を、そっと撫でた。
「あなたは、私のもの。渡さない、絶対に」
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