娯楽の生業

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この仕事を始めた理由?ただの娯楽ですよ。えぇ、はい。私は昔から一つのことが中々続かない怠け者でしてね。私にとって落語をするっていうのがもう娯楽でね。いやいや、難しいことは考えちゃあいません。手前(てめぇ)が楽しいもんでやってるだけで、高尚な理由なんてございませんよ。 私が落語を始めた頃にはもうテレビやらラジオやら娯楽が溢れてましてね、なんででしょうねぇ、私はけったいにも落語を好きになってしまって。はは、気づいたらもう七十五になってしまいました。 すらすらと流暢な言葉でそう語る松陽亭松月は真っ白に染まった髪を櫛で綺麗に整えながら鏡ごしに私の方をちらりと見た。落語家五十周年の一週間連続記念公演の密着取材を受けた時、僕は恥ずかしながら彼の事をあまり知らなかった。三十六年生きてきて落語は数える程しか聞いたことはない。二ヶ月前にメンズファッション誌から日本文学誌に移動になった時はひどく落胆した。文学誌「黄葉論」は発行部数も少なく、昭文社に入社してから一度も手に取ったことはなかった。 長年「ジョイス」で副編集長を担当していた自分にとってその移動はほとんど戦力外通告のようなものだった。自分は「ジョイス」のために私生活のほとんどを投げ売り貢献していたつもりだが、会社は伸び悩む売り上げを見て早々に俺を切り捨て、他社から新しい副編集長をスカウトしてきた。 「松月師匠はお弟子さんがいませんよね。ご自身の技術を後世に残したいとは思わないのですか?」 僕は用意してきた質問用紙に視線を落とし彼にそう尋ねた。 「思いませんねぇ、そんな傲慢なこと」 「傲慢?」 「あら、思いませんか?自分が優れていてそれを誰かに教えてやろうなんて傲慢じゃあないですか」 「そう、ですかね。でも実際師匠の元には沢山の人が押しかけて弟子にしてくれって尋ねてきたんですよね?」 「私の芸は私一代でいいんですよ。あなた、真田さんっておっしゃいましたね」 「はい」 「幾つ?」 「三十六になります」 「落語、聞いたことありますか?」 松月師匠は僕の方に向き直り、目を見てそう聞いてきた。彼の視線に僕の心臓は思わず跳ね上がる。この取材に僕自身が興味がないって事をまるで見透かしているような目だった。師匠の目は睫まで白く、視力も落ちてきているはずなのに僕を捉えて離さない。 「恥ずかしながら、あまり…」 「そうですか。若い人にはつまらないものかもしれませんがどうぞ一週間よろしくお願いします」 彼はそう言って頭を下げるとゆっくりと立ち上がり、付き人の男性から羽織を受け取ると楽屋を後にした。その後ろ姿を見送り、僕は言い知れぬ緊張感からようやく放たれる。 目の前に用意されていたぬるくなったお茶を一気に飲み干すと、付き人の男性がすかさず湯呑みを手に取り、急須に入ったお茶を注ぐ。
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