第7話 関山新道騒動の始まり(改4)

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第7話 関山新道騒動の始まり(改4)

(これまでのあらすじ……)  幼少期の安達峰治郎は、学問にも秀でながら、故郷で隣村の少年たちとの石合戦に興じた腕白少年でもあり、そんな様子を心配した恩師・石川尚伯は、峰治郎に対し、世の中には誰もが納得して従える大きな力があることを教え諭します。それは少年にとりその後の人生に大きな影響を及ぼす教えとなりました。そして、石川翁は峰治郎の大望を知り、それを叶えてあげるため、父の安達久にひとつの提案をしたのでした。それは峰治郎から峰一郎への改名でした。ここに『安達峰一郎』が誕生しました。 **********  高楯(たかだて)学校での峰一郎は、当たり前であれば教える教師ですら舌を巻くような優秀過ぎる生徒でした。読み書きに算術など、普通に学校で教わることは、既に祖父の久左衛門(きゅうざえもん)から教えられていましたから無理もありません。  しかも、峰一郎は学校に入る前から石川尚伯(いしかわ・しょうはく)翁のもとで漢文を読みこなし、みずから漢詩も詠んで、しかも、東京の出版社に寄稿して雑誌に掲載されるなど、考えられない神童ぶりを発揮していました。  現在の令和の時代に無理に当てはめるならば、小学校低学年の児童のが英語を自在に読みこなすだけでなく、自作のポエムかエッセイを創作したようなものでした。いかにその神童ぶりが尋常ではないかが窺えます。  そんな児童に教えなければならない教師こそ、たまったものではありません。当時はまだ教員養成機関である師範学校がその端緒に付いたばかりで、十分な教育を受けた教師そのものがいない時代です。  そのため、地元の篤志家や教養人を臨時の教師として、実務を任せざるを得ないような教育草創期でした。それにより教員資格もない峰一郎の父、安達久に「授業生」の教員補助的待遇で教員を依頼せざるを得ない状況でもありました。  また、一方で教師の実態がそんなものですから、現在の学習指導要領のようなカリキュラムなども当時はありませんでした。ときどき、『鳳鳴館(ほうめいかん)』の石川尚伯翁が顔を出しては、漢文の素読を徹底的に叩きこまれたりもしたのでした。  しかし、結果としてそれは峰一郎にとっては良い効果をもたらします。とかく慢心してお山の大将になりがちな幼少期ではありますが、峰一郎にとって頭の上がらない父親や恩師が目を光らせる中、暴れ者の峰一郎にしては意外にしおらしく学校生活を送らざるを得なかったのでした。  もっとも、学校とは言っても了広寺(りょうこうじ)の本堂を時間で間借りしているだけで、実態は寺子屋とさほど変わりません。農繁期になれば働き手とされる男の子は学校どころではありませんし、女の子は子守りをしながら学校に来られればましな方で、女子に教育なんかは不要という風潮はまだまだ根強いものがありました。  峰一郎にとり高楯学校の実態は、なんのことはない、久左衛門(きゅうざえもん)爺の『對賢堂(たいけんどう)』や石川翁の『鳳鳴館(ほうめいかん)』そのものだったかもしれません。 **********  明治12年8月、統合した山野辺(やまのべ)学校を卒業した峰一郎は、その後、同じ高楯村の医師、東海林寿庵(とうかいりん・じゅあん)の『東子明塾(とうしめいじゅく)』に入り漢学を学びます。  全国的には『東海林』と書いて『しょうじ』と読ませる呼び方が少なくありませんが、山形県ではむしろ『とうかいりん』と読ませるケースが一般的です。  寿庵は幕末、江戸に留学して蘭方医・林洞海(はやし・どうかい)の門下生となり、そこで勝海舟と出会って彼を診察治療をしたことを契機として親交を深め、同志的思想を互いに熟成したと言われます。  故郷に戻った寿庵は、本業の医者をやりながら私塾を開き、子弟の人材育成に心血を注いだのでした。  寿庵は、明治初期の山形の片田舎では、まだまだ時代の先を行く人物でありました。漢学者として塾名にもある「東子明」と号して詩文を巧みに操るだけでなく、江戸仕込みの蘭学も身に付け、幕末の風雲の匂いを実際に体感してきた人物です。  峰一郎は、時代の急激な流れを感じつつ、その寿庵の思想的影響を強く受けたのでした。  そのような中、明治13年6月、峰一郎の故郷、高楯村を大激震が襲います。いわゆる関山(せきやま)新道騒動の始まりです。 **********  天満神社のすぐ北隣にある東子明塾の帰り、峰一郎は友人たちとともに、いつものように天満神社に登りました。  少年たちは神社の大鈴をジャラジャラと鳴らし、手を叩いて御詣りをしました。そして、社の前階段や敷石、石段など思い思いのところに腰をかけ、話や手遊びに興じていました。  峰一郎はいつものごとく、神社の西側の崖から、遥かに大杉を臨んで眺めていました。  すると、小さい頃から石合戦などで一緒に遊び回った石川確治(いしかわ・かくじ)が峰一郎に声をかけました。 「峰ちゃん、知っでだが? なんだが、仙台さ行ぐ道ばこさえるって話ば……(仙台に行く道を作る話を……)」 (こさえる=作る・造る)  山形と仙台をつなぐ新道建設の話は、既に子供たちの間にも広まっていました。  しかし、峰一郎はその問いかけに、やや複雑な表情をして答えます。父や祖父が、そのことで頭を悩ましていることを峰一郎自身が知っていたからです。  **********  峰一郎の家は、曾祖父の初代・安達久左衛門(あだち・きゅうざえもん)・佐久内(さくない)の代に、本家の兄、11代目の安達久右衛門(あだち・きゅうえもん)・吉兵衛(きちべえ)から分家して、本家の向かいに家を構えました。  安達本家の安達久右衛門は代々の襲名で、武田家の家老職の家柄というだけでなく、先祖が山奥に玉虫(たまむし)沼を発見して高楯村の水田の溜池として整備をしたという功績もありました。そのため、江戸時代には村の名主を勤めるかたわら、玉虫沼の管理責任者として『水本(みずもと)』という地位を与えられていました。  当時の安達本家は、昭和年間の地元の古老の話しによれば「昔は、西山の麓まで、安達家の土地だったそうだ」と言われる大地主でした。当時は、まだ現在のような宅地開発が進んでおらず、見渡す限りの田圃と畑が続き、朝日山麓の麓までが一望できました。  そこは、春には桃や林檎の花が美しく咲き乱れ、毎年五月一日の村祭りでは、山麓の諏訪神社からの神輿行列が赤・緑・青・白の色とりどりの幟旗に囲まれて、太鼓を打ち鳴らして村里に降りてきます。それは本当に美しい風景で、まさに桃源郷を思わせる牧歌的な情景が展開されていました。  かくいう筆者も、昭和40~50年代の幼少の頃、その色とりどりの幟旗を手にして神輿行列に加わっていた思い出があります。これは、現在も天満神社・諏訪神社・愛宕神社の三社祭りとして、令和の時代も山辺町の風物詩になっています。  その後、明治4年4月の戸籍法制定と、明治5年4月の太政官布告により、従来の名主・庄屋の呼称が廃されて、戸長・副戸長が設置されるようになると、当代の15代目・安達久右衛門・林助(りんすけ)は高楯村の戸長となったのでした。  「戸長」と言っても「一家の主人」という意味ではなく、現在の町長か村長に相当するものであり、安達久右衛門は実質的に高楯村住民の最高責任者もしくは村民代表と言っても過言ではありませんでした。  その後、明治5年から11年までの一時的に、地方の村の呼称や戸長という名称が廃止され、画一的に番号付けをする大区小区制の制度が取り入れられた際も、引き続き久右衛門が区長を務めました。その後、明治11年7月に郡区町村整備法が制定されて、再び地名による村の呼称や戸長名が復活して、引き続き戸長を務めます。  明治13年1月、高楯村の戸長は山野辺村の渡辺庄右衛門(わたなべ・しょうえもん)戸長が兼務することとなりました。先代の13代目安達久右衛門・権治郎(けんじろう)は、先代・渡辺庄右衛門の三男がが安達家の娘・志ゑ(しえ)と結婚して聟養子に入ったもので、当代の久右衛門から見れば先代庄右衛門は実祖父にあたり、父の従兄にあたる当代の渡辺庄右衛門戸長は、15代目久右衛門の林助にとっては叔父のようなものでした。当時、山野辺村で最大の地主としては垂石(たるいし)家という名家がありましたが、渡辺家は山野辺村の中でも、その垂石家と一、二を競うほどの地所を誇る地主で、高楯村の安達家を遥かに凌駕する地元の名士でもありました。  当代の渡辺庄右衛門は、新たに発足した山形県会の議員立候補を睨んで、山野辺村と高楯村の兼任戸長を努めたのです。つまり、実質的に安達家が高楯村の総代的立場にあるものの、山野辺村の渡辺戸長が大叔父として立場からの後見をして、名目上の高楯村戸長を兼務しているような形であると言えます。そのため、高楯村の大人衆は、飽くまでも安達久右衛門を実質的な戸長として、村の問題がある場合などには今まで通り久右衛門の家に集まり話し合いをするのが常でした。  **********  確治が峰一郎に話した「道を作る」件というのも、この時、高楯村に降って湧いた大問題でした。それというのも、道路を作るための費用の負担、人夫の負担という切実な問題が絡んでくるからです。当時は公共事業という概念もなければ、大手ゼネコンのような存在もありません。地元の土木工事は基本的に地元の住民が行うと言うのが昔からの習わしです。  確治の問いかけに応える峰一郎の言葉も、親たちの苦労が察せられるのか、歯切れの悪いような言葉で帰されます。 「知ってだ。親父が東郡の代表さ入いて楯岡(たておか)村さ行ってだし、楯岡さ行ぐ前の日まで、毎晩、親父ど爺様が、向がいの本家さ行って、村の親爺だも集まって、なんだが話し合いばしったっけ。定ちゃんや確治の親父さんも来ったっけみだいだし、寿庵先生も来ったっけみだいだ。親父が楯岡さ行った後も、爺様や村のみんなが本家さ集まって話し合いばしったべ」  高楯村の住民達は毎晩のように久右衛門の家に集まり、なんとかしてその臨時徴収を逃れるか、あるいは減額を要請する良い方法がないか話し合っていました。そして、その集まりには高楯村だけでなく、近在の東村山郡内の他村からもやってくる者がいて、お互いに情報交換をしていました。中には遠く天童(てんどう)村など、現在の天童市にあたる天童地区の村々から来る者もおりました。 更には、峰一郎の父、安達久は東村山郡の代表の1人として、北村山郡の楯岡(たておか)村で開かれている村山郡内数町村連合会に、泊まり込みで出かけていました。  村山郡内数町村連合会とは、東西南北の四郡にまたがる広域事案について協議する住民組織で、その連合会を構成する議員は各郡から投票で選ばれます。しかし、各村から1人ずつ出れば東村山郡だけで百人ほどの議員団になってしまいます。ですので、各四郡に平等に人数を割り当て、各郡の中で横断的に複数の村を区分し、戸長による投票で議員を選んだ様子が地元資料の中に読み取れます。各郡の議員はおおよそ20人程度であったようでした。  水元として名主として村総代を勤める久右衛門の分家ではありながら、峰一郎の父が議員に選出されたことから推察しても、高楯村だけでなく、近隣周辺の村々においても、安達久が認められていた人物であったことがうかがえます。つまり、名主の縁者としての立場だけでなく、安達久そのものの人柄が村を越えて衆望を集めていたことが分かります。  石川確治の横あいから、これも小さい頃からの仲間、三浦定之助(みうら・さだのすけ)が聞き返してきます。 「道ばこさえんのは(道を作るのは)、悪い事でねえんでねえのが?」  定之助の言葉に同意するような意見がそれに続きます。 「んだ、便利になんだべがら、道があればしぇえべ(道があれば良いだろう)。」 (しぇえ=良い)  この関山新道問題、そもそものことの起こりは、初代山形県令として山形・旅籠(はたご)町に着任した薩摩人、三島通庸の発案でした。  三島県令が山形に来て感じたのは、重畳たる山の峰々に囲まれたその閉鎖性でした。折しも日本全体が殖産興業に邁進している中、山形県は四囲を山に囲まれ、冬には雪に埋もれている厳しい自然環境の置かれており、それは、あたかも社会から隔絶されているようにしか見えませんでした。  隣接する地域との交流の停滞は、産業活動や経済発展を阻害するだけでなく、県令としては万一の一揆や騒動に対処する治安維持の面でも避けなければならないことでありました。また、北からの脅威が噂される対露防衛の軍事的な観点からも、東北地方での軍馬物資の円滑な流通は重要な防衛問題に直結していました。そこで三島県令は、政府方針である東北開発事業の一環として、道路交通網の整備を行おうとしたのでした。  『栗子隧道(くりこすいどう)』は福島を通り東京と山形を結ぶ『万世大路(ばんせいたいろ)』として、『片洞門(かたどうもん)』は山形県と新潟県を結ぶ『小国新道(おぐにしんどう)』として開削されました。『隧道』とは今で言うところのトンネルで、『片洞門』は断崖絶壁の斜面を開削した半トンネルのことです。  そして、峰一郎たち高楯村の人々に大きな影響を及ぼすことになる『関山隧道』は山形県と仙台を結ぶトンネルであり、そこを通って県都山形まで繋がる『関山新道』として開削されることになるのでした。新道は従来の道を拡幅し、荷車や馬車が通行可能な産業道路に整備するものです。  明治7年の酒田県令拝命から既に6年、政府の殖産興業政策を忠実に地方で実践することを使命としてきた三島県令の最後の大仕事がこれだったのです。それが少年たちの村を巻き込む大事件になるとは、その時の少年たちには、とても考え及ばないことでした。 ********** (おわりに)  安達峰一郎少年は山野辺学校を卒業し、新たに東海林寿庵が主催する東子明塾で更なる勉学を進めます。そんな少年の周囲がすこしづつ騒がしくなりはじめます。いわゆる関山新道騒動の始まりです。峰一郎たちは東子明塾のすぐそばにある天満神社に集まっては、最近の村の中で大きな話題になっている関山の道路の件について話しをしていました。国家的な命題はもちろん、大人たちのしがらみや役所の都合にはまったく頓着ない少年たちは、素朴な疑問を素直にぶつけあいます。
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