第8話 関山新道計画の真実(改2)

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第8話 関山新道計画の真実(改2)

(これまでのあらすじ……)  幼少期の安達峰治郎は、学問にも秀でていましたが、友人達と一緒に故郷で隣村との石合戦に興じていました。そんな中で恩師の石川尚伯は少年を教え諭すと共に、父に峰治郎から「峰一郎」への改名を勧めました。彼は学校を卒業し、新たな私塾で勉学を進めます。そんな少年の周囲がすこしづつ騒がしくなりはじめます。いわゆる関山新道騒動の始まりです。峰一郎とその友人達は、小鳥海山の大杉が見渡せる天満神社の境内で村で話題になっている関山新道の工事について話しをしています。  **********  天満神社境内での少年たちの話し合いは続きます。  まず、垂石太郎吉(たるいし・たろきち)が工事費の工面についての問題点を指摘します。彼は、高楯(たかだて)学校が山野辺(やまのべ)学校と統合してから仲良くなった山野辺村の友人です。彼は、峰一郎の従弟の清十郎(せいじゅうろう)のすぐそばに住んでいたこともあり、峰一郎もすぐ仲良くなりましたした 「道ばこさえんのはしぇえげんど(道を作るのは良いけれど)、そいづばこしゃう金ば(それを作る金を)、一軒一軒がら出せって言ってんだ」  太郎吉の言葉は問題となっている核心を突いていました。 「んだがら、おらだの親父だば、そのために高い税金ば頑張って払ってるんでねぇんだが? 」  定之助がもっともな疑問を呈します。  当時は、地租改正で実質的な租税負担が大きくなり、新制度導入当初は反対する一揆が各地に頻発するほどでした。  地租改正は明治6年7月に制定された地租改正法・地租改正条例により導入された、地価に賦課する新しい課税方法です。  基本的にこれは物納から金納にするシステム変革で、作況に関わらず国家予算を安定的に計上することで、安定した会計予算作成と計画的国家事業の推進を円滑にする近代的な課税制度でありました。  しかし、一方で頭初の地価の3%という税率は、実質的に江戸時代の負担を大きく上回り、結果的に各地での地租改正反対一揆の頻発をもたらしました。  当初から政府部内でも、木戸孝允を始めとして、税率が高額過ぎるとの根強い反対意見もあり、結果的に税率は2・5%に引き下げられ、農民の租税負担も江戸時代に比べて約2割ほど軽減されました。  しかし、この課税率の減額要求の達成は、「竹槍でちょいと突き出す二分五厘」と当時の東京日日新聞で報道されたように、後の自由民権運動に繋がる国民の権利主張達成の萌芽でもありました。 「それ以外に、税金とは別に、工事の金ば出せって言ってだみだいだ」 「なしてや! 誰がほだな事、決めだのや! 」  垂石太郎吉の答えに三浦定之助(みうら・さだのすけ)が叫び出してしまいました。その定之助の問いに石川確治(いしかわ・かくじ)が答えます。 「県令が『ほれでしぇえが? 』て郡長さ聞いで、郡長が『しぇえべ』て言ったんだそうだず」  三島県令の構想は、従来からある関山街道にトンネルを掘り、関山から山形に至る道路を荷車や馬車が通れる産業道路に整備し、新道として開削するというものでした。しかも、トンネル掘削は国費を充てるものの、街道整備は地元住民が負担するというものでした。  この計画は東村山郡住民の意向とは関係なく発議され、三島県令は自分の構想を実現するため、一旦は工事認可見送りを通達した内務省に対して、更なる計画復活の執拗な働きかけを続けました。  三島県令は、推進派の北村山郡住民を使嗾して陳情活動を重ねて行わしめた結果、明治12年11月に伊藤博文内務卿の関山視察に漕ぎ着け、伊藤卿からの計画実施の内諾を獲得しました。  その結果、まだ内務省の正式通達が出てもいない明治13年3月の時点で、東村山郡の郡長引継文書に、「南西北村三郡長ト協議連署ノ上、内務卿へ建議ニ及び置き候次第」もあるので、この上はその予定通りに「しかるべくお取り計らい」するように……と、もはや決定事項となっていたことがうかがえます。  現在のような住民説明会のない当時、お上の命令は今では考えられないくらいに絶対でした。明治13年6月1日、地元住民不在のままに内務省で認可された三島県令の新道建設計画は、25日に北村山郡の東根(ひがしね)村で起工式が行われて工事が始動しました。  この起工式当日、北村山郡の楯岡(たておか)村の北村山郡役所で東西南北4郡の代表者が召集され、「村山四郡内数町村連合会」が開催されました。そこに各郡の代表者が各10名が参集し、各郡の郡長から提出された原案を4日間審議し、6月28日に路線・経費・徴収賦課方法等が採択されたのでした。  表向きは、郡の住民代表がお上のありがたい施策に感謝し、自主的にお上に対して請願するという形式を整えています。 「住民一同、ありがたいお上の思し召しに心から感謝いたします。皇恩の大きさは誠に恐れ多いことですので、われらも自らこれくらいは是非とも協力させてください」……という筋立てです。  ですので、県令が聞いて郡長が答えたという子供たちの認識は、やや正確さを欠いてはいましたが、逆にその裏側にある真実を見抜いたもので、まさに正鵠を射ていたとも言えるものでした。  そもそも、住民会議が開催された日が、既に工事を開始する起工日と同日というのがあからさまに住民無視の表れでもあります。住民には既に拒否権というものは許されないのであり、ささやかな条件闘争のみしか残されていませんでした。  また、新道建設でもっとも恩恵に浴すると考えられた北村山郡の中山高明(なかやま・たかあき)郡長は、積極的な工事推進派であると同時に、先に述べましたように郡内村の惣代人や戸長などの住民をして伊藤博文内務卿に工事請願を行わしめ、伊藤卿の関山視察をも実現したのでした。  伊藤内務卿の来県を叶えたことで、北村山郡の後押しを受けた三島通庸(みしま・みちつね)県令の新道建設計画は急ピッチで具体化していきます。  郡長とは言うものの、当時の郡長は県令の任命する官吏で、住民の意思はまったく反映されていません。実質的には統治組織の末端で一方的な上意下達をするだけの機関でした。  北村山郡の中山高明郡長も元は尊皇攘夷運動の総本山であった水戸藩士族で、薩摩出身の三島県令の取り巻きのひとりに過ぎません。  そんな大人の事情を知る由のない少年たちでしたが、子供ならではの単純に素直な見方には、ものごとの核心がありありと伝わるのでした。 「役人ばりで勝手に決めだんだが! なしてや! 金ば払うのは村のみんなだべ! 払いもすね奴らで勝手に決めだなが! 」  石川確治の単純な当たり前の理屈が、周りの少年たちの憤りを誘い、そこかしこから憤懣の声が上がります。 「なんだべや、それ! 」 「ばがくさい話だべず! 」 ひとり、三浦定之助がつぶやきました。 「んだがら、親爺だ、毎晩みだいに、皆して話し合いばしったながぁ……」  彼も、父親たちが毎晩のように話し合いをしている意味にようやく合点がいったようでした。。 「ほいづだけでねぇ。俺ださ金ば出させで作る道なのさ、ほの道は大寺(おおてら)村も高楯村も山野辺村も、どさも掠りもすねべって話みだいだ」  垂石太郎吉が、更に村の大人衆の頭を混迷させている状況を付け加えて話しました。  太郎吉が言ったように、村山四郡内数町村連合会での安達久(あだち・ひさし)を始めとする東村山郡と南村山郡の代表は、北村山郡代表とは立場がまったく異なりました。後に述べますが、東村山郡の代表議員たちは採択とは別個の独自建議書を提出していましたが、その建議書はなぜかなかったものとして黙殺されました。  また、連合会の議長・副議長を西村山郡出身県議の西川耕作(にしかわ・こうさく)・細谷巌太郎(ほそや・いわたろう)が務め、その主導権のもとに西村山郡に強い発言力が発揮され、連合会自体が北村山と西村山の二郡の主導で進められました。  もともと東村山と南村山の二郡は、関山峠ではなく、より南側の笹谷(ささや)峠・二口(ふたくち)峠から宮城県側への往来を行っていましたから、関山新道が出来てもあまり恩恵はありません。それでもお上の命令には逆らえませんから、関山新道建設計画を了解の上で、ルートの一部変更と負担金割合の変更を建議したのでしたが、それがまったく黙殺されたのでした。  新たに造られる関山新道は、北村山郡の神町(じんまち)村~現東根市~を起点に、西村山郡の谷地(やち)郷~現河北(かほく)町~、西村山郡の寒河江(さがえ)村~現寒河江市~、東村山郡の長崎(ながさき)村~現中山(なかやま)町~へ、そして、終点の南村山郡山形へというルートでした。  現在の感覚で合理的にルートを策定するならば、東根市からすぐ南の天童(てんどう)市に南下して、更に南の山形市に接続すれば済むことでした。それは奥羽山脈を越えてから単純に山形に向けて南下する現在の国道13号線ルートであり、関山のトンネルからの最短ルートでした。  しかし、現実に正式決定されたのは、なぜかその最短ルートではなく、東根市から西の河北町に向かってわざわざ村山盆地を東西に横断し、そこから寒河江市、中山町へと南下して、北西方向から山形市に入ると言う迂回ルートを設定したのでした。  それは最短ルートで人口密集地区の天童地区はまったくかすりもしないだけでなく、整備しなければならないルートが最短ルートに比べて三倍以上もの距離を延伸されたものでした。それに、そのルートでは日本でも有数の急流大河である最上川を無駄に二回も渡渉しなければならず、将来的な橋梁建設を考えればいたずらに無駄な延伸と考えられます。  それだけ、西村山郡の谷地郷を中心とする紅花生産経済圏と、それを背景とする紅花商人の経済的な圧力が大きいものであったことがうかがえるだけでなく、県側もその経済力に期待するところが大きかったものと考えられます。。  現在で考えれば、物流の増加による近隣地域への経済的恩恵は計り知れないものがあり、ルートから疎外された山野辺地区や天童地区にしても産業道路の開削による恩恵は少なくないように考えられます。しかし、当時の感覚ではひとつふたつ向こうの近隣町村との交流がせいぜいですから、高楯村の不穏な空気というのも無理からぬところがありました。  また、三島県政の積極与党たる北村山郡役所は言わずもがな、県令自体から任命された各郡長は住民の利益代表ではなく、また、郡長のもとで補佐をする書記には、まるでお目付け役かのように薩摩人や県令の息のかかった者が任用されるケースも多く見受けられました。 「ほだなバガな話があっか! 他人がしぇえぐなるためさ、なして俺だが金ば払うんだ! おがしぐねぇが! 」  今度は、定之助ではなく、確治が激怒して答えました。それに太郎吉が答えます。 「ほいづが他の郡より、うぢらの郡の負担が一番うがいみだいだ(多いようだ)」 (うがい=多い)  確治が太郎吉を問い詰めるようにいきり立ちます。北郡や西郡の思惑に負けたなんて大人の事情は、周りの子供には通じません。 「なんでや! 自分だが便利なるど思った奴らが余計に払えばしぇえべ! ありがだぐもない俺だが、なして、うがぐ払わんなねのや! 」 「ほだな俺さ言うな! 俺はしゃあね!(俺に言うな! 俺が知るか! )」 (しゃあね、しゃね=知らない) 「知ってだ! やづあだりだ! (知ってるよ! 八つ当たりだよ! )」 「わあ~! 」「はっ、はっはっはっ! 」  確治と太郎吉のやりとりを、他の少年たちが笑って聞いていました。 **********  東村山郡の負担額が大きい理由は、当たり前ながら公式な記録などに残っているはずもありません。東南村山郡から出された修正建議書がどのように取り扱われたかの記録も存在していません。元幕府老中の譜代中の譜代大名の領地だから恨みを買った……と言うわけでもないでしょうが。  当時、最上川舟運の船着き場として紅花商人が蝟集して栄えていた西村山郡の谷地郷はともかく、村山盆地の中心部にあって比較的降雪も少なく耕作収穫も安定している東村山郡は、他の郡部よりも比較的裕福であると考えられたのかもしれません。  そこに、経済的な恩恵が見込まれる北郡の思惑と、会議を主導した西郡の思惑とが加わり、そのような決定がなされたものと思われます。  実際、この会議に先立つ3ヶ月前、明治13年3月22日、前任の東村山郡郡長・筒井明俊(つつい・みょうしゅん)が県一等属(けんいっとうさかん)に転任するさい、後任郡長・五條為栄(ごじょう・ためしげ)への引継となる『演説書』に「其民多クハ質撲ニシテ狡猾寡ク其産多クハ富有ノ地方」と申し送りしていました。  分かりやすく言えば「東村山郡の住民の性格は質朴で穏やか、狡猾なずるい者は少なく、その資産は大多数が富裕な地方」と言うことです。  つまり、「従順で文句を言わないし財産も裕福だから、税金を余分に取っても大丈夫だ」と、その地域の長が堂々と公式文書に残しているのでした。  村の大人たちだけでなく、少年たちにもその憤りは非常に深刻なものになりつつあることが窺えました。高楯村を襲ったこの激震は、知らず知らずのうちに子供たちにも影響を及ぼしていきます。 **********  東村山郡の負担額が大きい理由は、当たり前ながら公式な記録などに残っているはずもありません。東南村山郡から出された修正建議書がどのように取り扱われたかの記録も存在していません。元幕府老中の譜代中の譜代大名の領地だから恨みを買った……と言うわけでもないでしょうが。  当時、最上川舟運の船着き場として紅花商人が蝟集して栄えていた西村山郡の谷地郷はともかく、村山盆地の中心部にあって比較的降雪も少なく耕作収穫も安定している東村山郡は、他の郡部よりも比較的裕福であると考えられたのかもしれません。  そこに、経済的な恩恵が見込まれる北郡の思惑と、会議を主導した西郡の思惑とが加わり、そのような決定がなされたものと思われます。  実際、この会議に先立つ3ヶ月前、明治13年3月22日、前任の東村山郡郡長・筒井明俊(つつい・みょうしゅん)が県一等属(けんいっとうさかん)に転任するさい、後任郡長・五條為栄(ごじょう・ためしげ)への引継となる『演説書』に「其民多クハ質撲ニシテ狡猾寡ク其産多クハ富有ノ地方」と申し送りしていました。  分かりやすく言えば「東村山郡の住民の性格は質朴で穏やか、狡猾なずるい者は少なく、その資産は大多数が富裕な地方」と言うことです。  つまり、「従順で文句を言わないし財産も裕福だから、税金を余分に取っても大丈夫だ」と、その地域の長が堂々と公式文書に残しているのでした。  村の大人たちだけでなく、少年たちにもその憤りは非常に深刻なものになりつつあることが窺えました。高楯村を襲ったこの激震は、知らず知らずのうちに子供たちにも影響を及ぼしていきます。  ********** (おわりに)  関山新道建設には、山形県における絶対権力者たる三島通庸県令のゴリ押しと共に、東西南北のそれぞれ村山四郡の住民たちの様々な思いが交錯していました。少年たちは単純素直に物事を見るがゆえに、裏にある国家的な命題や大人の事情などをうかがい知ることはできません。しかし、だからこそ、その不条理な仕打ちに対する素直な憤りは、純粋な思いの少年たちには押さえようもありませんでした。少年たちは少年たちなりに、筋の立たない世の中に対する義憤を募らせていったのでした。
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