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僕に息子ができたのは今から10年も昔のことだ。
……いや、10年もと表現するには、時間の流れは濁流の如く僕を押し流していた。まるで昨日のことのようだ。
そう思うのに、僕はこの濃縮された10年の中、息子との思い出だけが顕著に欠落している。否、最初から存在しないのだ。好きなものも嫌いなものも、学校生活のこともなにも知らない。知らないまま、彼は大人になってしまった。
お世話になりました。そう、彼が別れを告げて去っていったとき、僕はやっと彼を顧みた気がした。
優歌は、彼の部屋で泣いていた。床にうずくまって声をあげて。それは優歌が今より幼いとき、自身の境遇を知ってしまった時とよく似ていた。喪失と絶望とを綺麗に織りなした感情の昂り。それを見て僕はやっと自分の犯した過ちを知った。
敦くんと初めて会った時、大人びた子だなと感じた。落ち着いた中に不審さを滲ませて僕を見つめた瞳は、僕の後ろに隠れていた優歌に視線を移すと、豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くして、気まずそうに後ずさりした。
大人びた印象から一転、それがなんだか年相応に見えて、僕は微笑んだ。彼はいいお兄さんになってくれそうだ、と。ここから少しずつ家族になっていこうと。そう僕に思わせたことを確かに覚えている。
でも、現実は甘くなくて、思春期の敦くんと距離を縮めることは至難の業だった。ちょっとした雑談もすぐに切って落とされる。悩みごとの相談なんて以ての外。進路は……住所の関係上、彼にほとんど選択肢はなかった。けれど一つとして文句を言うこともなかった。
「シャイな子だから、時間をかければわかってくれるわよ。」
実の母親である由紀子さんがそう言うならと、僕はしばらくして父親面して彼に構うことを辞めた。そうした方が彼も過ごしやすいようだったから。
一方で優歌は敦くんの懐にしばらくも経たず潜り込んでいた。
血のつながらない妹でも可愛がってくれる敦くんを見て、娘の優歌が僕と敦くんとを結ぶかすがいとなってくれていると解釈した。
敦くんが優歌との仲さえ良ければ。僕は、自分勝手に考えて安心していたのだ。
彼にとって今ある家族はしょせん『ごっこ遊び』にすぎないものだったのだと痛感させられたのは、彼の言う通り、『どうにもならない状態』になってからのこと。
彼にとって僕は母親を奪った略奪者。どうして今まで気づけなかったのだろう。
時が経って、僕は彼の父親になることを諦めていたのかもしれない。父親としていられなくても、実母である由紀子さんが彼を愛してくれる。
優歌が幸せなら。敦くんが幸せなら……必ずしも家族になる必要はない。敦くんが大人になって、色々なことを受け入れられる余裕ができたその時に、と楽観視していたんだ。
彼は大人になった。
『家族』を知らないまま。
もっと歩み寄るべきだった。時間に任せず、由紀子さんと優歌にばかり任せず、僕がもっと彼に寄り添うべきだった。母親を失った優歌に、そうしていたように。僕は彼の父親なんだから。
僕は、リビングで頭を抱えている由紀子さんのそばに寄って、小刻みに震えている肩に手を添えた。
「……由紀子さん。敦くんのこと、なんだけれどね。」
なんと伝えたらよいのだろうと唇をまごつかせる。どんな覚悟で、生んでくれてありがとうなんて言ったのか僕にはわからない。
「うまくやってるって思ってたの。うまく……。」
それがどんな意味を持つのか僕にはわからない。でも、敦くんが『ありがとう』だなんて思っていないことだけは、わかってしまった。
「あの子、昔から我慢強くて、なにも言わなくて……でも、忙しくてかまってあげられなかったの、わたし、仕方ないって思っていたの。両親ともうまくやってるって思ってたの。二人が旦那のこと、気に入ってないって知ってたのに。」
「ちょっと待って。冗談……。」
思わず制止の言葉が飛び出す。その言い方ではまるで、敦くんが由紀子さんのご両親にいじめられていたとでも言っているかのようだ。
「敦が言ったこと、冗談かどうか、わたしもわからないの。でも……二人とも敦を見るたびに旦那のこと、しきりに口に出してたの、知ってたの。」
「それは……。」
見て見ぬふりとさして変わらないじゃないか。
……わからない。
敦くんがこれまでどれだけ辛い思いをしていたのか。僕と由紀子さんが結婚したことで、それがどれだけ軽減されて、新たな苦しみをどれだけ生み出してしまったのか。
我慢強い子だと彼女は言う。けれどそれは我慢させているだけのことで、つまり彼は僕たちに親としての機能を全く期待していなかったということなのだろうか。彼女にさえも。だからあんなに冷たく「ありがとう」なんて言えるのか。
「信じられない……。」
彼女の言葉を皮切りに、呆然としたまま時間が過ぎていく。
このままではいけないと首を横に振った。このままでは本当にばらばらになってしまう。
「由紀子さん。敦くんと、もっと話そう。会いに行こう。絶対にそうすべきだと僕は思う。」
どの口が言うんだか。自嘲の声が脳裏に響く。だけど遅くても取り戻さなくては。僕も由紀子さんも、こんなに後悔している。
ハッと顔を上げた由紀子さんは今にも泣きそうに顔を歪めて、拙く唇を動かした。
「わたしあの子のこと、なにも知らないの……。」
「うん。だから、話に行こう。」
「あの子の住んでる場所も、よく知らないの。」
「え?」
思えば、彼女が敦くんと話しているとき、二人はいつも無表情だった。僕とはまともに話してくれないから、彼女と話しているとき、自然と、二人にしか共有できないものがあるだろうと思っていた。
……彼女が普段、敦くんを気にかけているようなことを口にしたことがあっただろうか。自ら敦くんの元へ行こうとしたことがあっただろうか。
思い当たる節が無い事実が浮き彫りになってしまう。
家族として機能していないことはわかっていたけれど、まさか、彼女でさえ、母親として彼に……。
「きみは敦くんに興味が無かったの?」
思わず突き放すような声が出てしまったが、僕は頭を抱えるほかなかった。由紀子さんは顔を強張らせて、口元に手をやる。
「そうじゃないけど!! でも、だって、あの子は……。」
震える声で何度も何度も、あの子は、と繰り返す。
「あの子は、強い子だから……。」
こうして敦くんは一人で我慢してきたんだろう。我慢せざるを得なかったのかもしれない。自分を苦労して育ててくれた母親に迷惑をかけたくないという思いは、僕の娘ととても似ている。本当にそう思っていたのか定かではないけれど。
終わったと思っていた事件の真相が十年越しに判明したかのような心地で、僕は首を横に振って妻に答えた。
「そんなもの、なんの言い訳にもならないよ。」
「仕方ないでしょ!! わたしだって追い詰められていたの……ひとりで、息子を育てないとって。自分の力でなんとかしないとって。」
「うん。わかってる……僕だってそうだった。」
だから、僕は……同じ辛さを共感できる、彼女と結婚したいと思った。この女性となら、娘を支えて行けると思った。
でも、似通った境遇だろうと、考えることも行動も全然違うのだ。彼女は彼女なりの幸せを思って僕と結婚した。僕は、僕自身の幸せより娘の幸せのために結婚したと、完全に言い切ることができるだろうか。
「それでも、言い訳だよ。結果として、今、いや、これまで敦くんはずっと傷ついてきたはずだ。僕たちはもっと、敦くんと正面から向き合うべきだった。」
「でも……。でも、だって、でも……言われないとわからない。それにあの子だって我慢することで満足してたじゃない。あの子、言ったのよ? わたしが敦を見たこと、一度も無いって。だったら言ってくれたらよかったのに。」
「それは無関心と何が違うの。」
「……違わないかもしれない。だって……だってあの子、この家では、いてもいなくっても」
……変わらない。
先の言葉が痛いくらい読めてしまう。同時に、全部捨てたくなってしまう気持ちも知ってしまう。
客観的に見て、敦くんが愛想をつかしたことだって、それはそうだろうと十分に納得できる。僕も彼女も、親として機能していなかった。
「喧嘩しないで。」
か細い声が背中から投げられて、二人して体を強張らせる。
この場にいる人間は僕たちを除いて一人しかいない。
「優歌……。」
敦くんの部屋で泣いていたはずの優歌は、背を丸めた姿勢で顔を何度も擦る。
「喧嘩しないでよ。ばかみたい……。」
「優歌、部屋にいなさい。」
「おかあさんのばか!! お兄ちゃん、ずっと寂しがってたのにいつも無視して……」
「優歌、なんてこと言うんだ!!」
「パパだってバカよ!! いつも遠慮してばっかり! わたしのことだけじゃなくてお兄ちゃんのことももっと……」
途切れた言葉の代わりに大粒の雫が優歌の目からこぼれ落ちる。僕は絶句しながらそれを眺めていた。
「お兄ちゃんはわたしを守ってくれた。でも、お兄ちゃんのこと、守ってくれる人、だれもいないじゃない……。」
嗚咽を漏らしてうずくまった優歌はとうとう声を出して泣き始めた。
敦くんがこれまで我慢してたのは、優歌に知られたくなかったからだろうか。彼は、本当に優歌のことを大切にしてくれていた。兄として振舞ってくれた。本当に、良い子なんだ。
……それからみんな気まずくて、顔も合わせないうちに夜になった。由紀子さんは体調がすぐれないとベッドにもぐりこんでしまった。頭を整理する時間が必要なのだろう。
何度か、優歌の様子も見たけれど、すすり泣く声が部屋から聞こえるだけでとりあってもらえなかった。
敦くんはこうなることが予想できていただろうか。
翌朝のことだった。
「パパ、わたしお兄ちゃんのところに行きたい。」
「え?」
朝一番に僕を起こして、おはようをすっ飛ばして優歌は言った。
僕は、きっとこの子のこういうところは妻に似たんだろうなと意志の硬い瞳を見て思った。
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