マリアナ海溝の足跡

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 そこは水深1万メートル以下の世界。空から降り注ぐ光はとうに消えて無くなり、その水圧は1000気圧をも超える。並の人間が何の準備もなく放り出されれば、たちまちのうちに潰された紙のようになるであろう。  マリアナ海溝。言わずと知れた、未開の超深海である。  そして私は、そこを調査するの乗組員の一人として、この有人深海探査艇に搭乗していた。  目的はただ一つ。知られざる生命体の発見である。  実は、長らく超深海には魚類の生命は存在しないと考えられてきた。あまりにも深い水深になると、生命の要の一つであるタンパク質が不安定になると推察された為だ。  しかし実際の先行調査においては、水深6000メートルの泥よりも水深1万メートルの泥の方が酸素の消費量が大きいと判明した。  では、何がそこにいるのか。太陽すら照らさぬ別惑星のような世界に、何が息づいているというのか。  無数の微生物? 凄まじい水圧から守る為、全身を硬い鎧で覆った甲殻類? はたまた、極限まで柔軟な体を持つゼリー状の生物?  もしくは、我々人間の想像すらゆうに超える新しき生命体か。  それを、この探査艇は調査しに来ているのだ。  操縦席の前面上部左右はガラスで覆われており、光源さえあれば周りの様子が肉眼で確認できるようになっている。  ライトで照らされた世界は、雪のように白い粒が降り注ぐ穏やかなものだ。幻想的だが、これも所詮はプランクトンの死骸や魚のフンであるに過ぎない。  レバーをゆっくりと奥に倒す。アームを使って地中から泥をこそぎ、探査艇に備え付けられた保管庫に流し込む。そうして、また少しずつ底へ底へと移動していく。  そんな作業をかれこれ三十余時間。生物の影も形も見えぬまま、探査艇は間も無く浮上の用意を開始しなければならなくなっていた。 「……」  予想の範疇ではあったが、やはり落胆は隠せない。無論一度潜るだけで莫大な費用がかかることもあるが、未知の発見は調査員全員の悲願でもあったからだ。 「――隊長!」  しかし右の世界を見ていた調査員が、突如として声を上げた。慌てて席を立ち見ると、海底の一箇所に向けてライトが当てられている。  そこには、足跡があった。点々と規則正しく、奥へ奥へと続く五本指の足跡が。  ――もし誤解を恐れずに言えるのなら、まるで人間の裸足の形によく似た足跡が。 「隊長、これは……?」  調査員の声には、好奇心と恐怖の色が滲んでいる。  ……地上とは違い、波の流れがある海底においてはすぐ足跡など消えてしまう。つまりこの足跡は、つけられてからまだ間も無いのだ。  是非もない。私は、部下にこの足跡を追うよう指示を出した。  写真を撮りながら、痕跡を消さぬよう導(しるべ)を追っていく。足跡は、ちょうど成人男性の平均ほどの大きさであった。ただし形としては、土踏まずが無く扁平足に近いものだろうか。  これは、なんだ。誰がつけたものなのか。  ……そう考えて、私自身“何が”ではなく“誰が”と考えていることに、ゾッと身を震わせた。 「まだ、続いております」  私と彼の他にもう一人いる調査員も、今は彼の後ろに張り付き様子を見守っている。 「……深度の深い場所へと向かっているようです」 「プラスチックのゴミが落ちています。ここは二時間前にも通った場所ですが、その際にはこんな足跡など見つけられませんでした」  そうか。ならば、やはりこの足跡の主はさほど遠くにはいないのだ。  まるで人間のものによく似た足を持つ、生物。もしかすると、鰓や触手が発達してこのような形を遂げたのかも知れない。  期待か、恐怖か。この時にかろうじて前者が上回るようでなければ、そもそも調査員にはならないのだろう。  淡々と続く痕跡に、額に汗が滲む。少しでも手がかりになればと音を拾おうとしたが、どこかで遠く鳴く鯨の声が聞こえてきただけだった。 「隊長」  部下が自分を呼ぶ。その目は見開かれ、声は震えていた。 「……おかしい。おかしいです。あの足跡では、規則正しすぎます」 「何? 規則正しいとは、どういうことだ?」 「“四つずつ”なのです。左右ずつ……四つずつ、規則正しくて……」 「だからそれはどういう……」 「あああ……ああああああああ!」  突然、部下は探査艇を大きく右に動かした。体のバランスが崩れたが、それどころではない。私は一刻も早く船を浮上させようとする部下の体を掴み、無理矢理引き倒した。 「やめろ! 急激に浮上しようとすると圧で体が潰れるぞ!」 「に、にげ、逃げ、逃げる! 逃げ、なければ!」 「わ、分かった! すぐに浮上の準備をする! すまないが君、彼を取り押さえて……!」  だが、間に合わなかった。もう一人の部下は、取り憑かれたようにガラスの向こう側を見つめていたのだ。  そこにあったのは、ライトに照らされて闇に浮かび上がる影。  放射線状に伸びた細い足が八本、人間の骨盤によく似た胴体から生えていた。それらは全て甲殻類的な外皮で覆われており、蟹のような節を持っている。  頭は、無い。……いや、無いのではない。まるで骨盤からぶら下がるように、軟体の何かがこちらを見ていた。  見ているのだ。その軟体には何本も触手があり、それらの先に埋まる眼球は全てこちらに向けられていたのである。    ――追跡に、気づかれていたのだ。 「おい、早く逃げるぞ!」 「……」  私は、操作盤に飛びついた。……海面にたどり着くまで、三時間から四時間を要する。早く逃げたいのなら、何人かで手分けして行動しなければならない。  あれには、敵意だけではなく悪意もある。何故だか分からないが、私はそう確信したのだ。  ところが、その思いに反し探査艇は前進した。 「行かねば。行かねば」  見ると、もう一人の部下が別の操作盤を操っていた。 「あれは、祖先を同じくする我らの仲間です。きっと何千年、何億年もここで我らを待っていた」 「よせ! 逃げるぞ!」 「我らの大いなる母は、海より生じた有機物でした。しかし海を捨て地上に移った我々とは違い、彼らはここに留まった。そして独自の進化を遂げていた……」  部下の目は、こちらを向いて微動だにしない軟体と甲殻の生命体に魅入られている。 「思えば、何故人は知的生命体を地球外に期待するのでしょう。同じ成分から発生した分、地球に存在するものの方が可能性は圧倒的に高いというのに」 「……」 「いたのですよ、隊長。我ら人類が探し求めていた、未知の知的生命体は」  探査艇がぐらりと揺れる。上を見ると、ガラス窓にべたりと複数の軟体が張り付いていた。  足の裏が見える。指と踵の部分には、吸盤のようなものがあった。 「あれは、我らの仲間です。水深1万メートルに生きながら、健気にも我らと姿を近しくしてくれた気安い友です」  体圧殻がガリガリと削れる音がする。だがそれも、もう一人の部下の悲鳴によってすぐ掻き消された。 「我々は人を見つけたのですよ、隊長」  何かが折れるような破損音をスピーカーが拾う。  私達が追っていた一体の生命体は、歓迎するようにその触手を広げた。
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