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1.モンブランとほうじ茶
カタン。
手から落ちたボールペンがダイニングテーブルの上を転がる。
「先生、ペンが」
耳元にふきかかる吐息の甘さに、身体が勝手に震えてしまう。
そんな琴香の動揺を知ってか知らずか、鳴瀬の声は笑みをたたえている。
「メモ。しなくていいんですか?」
「ひゃっ」
「白石先生は、耳が弱い?」
「やっ……まって、ください! 書きます、書きますから!」
急いで付箋をテーブルの上に貼り付けて、走り書きを残す。
『耳に吐息、背中がぞくぞく じっくり焦らす
ヒロイン……耐えるように、赤面
ヒーロー……面白がるように微笑んで』
「──うん、良いと思います。では次のシーンに行きましょうか。ネームではたしか、ソファの場面でしたね。ほら、先生、寝転んでください。俺が覆いかぶさるので」
琴香の描いたネーム通りに事態は進んでいく。このままいくと、次のページでは我慢ならなくなったヒーローがヒロインに、責め立てるような激しいキスをする場面なのだけど──
「先生?」
鳴瀬の声が、視線が、甘い。
ぼうっと見惚れている琴香を、スーツのネクタイを緩めた鳴瀬がソファに押し倒した。
視界いっぱいに、男の胸板がある。ああ、これ、この構図すごくいいな。ヒロイン視点で、ぜったい見せゴマに使おう。
メモを取るひまもなく、鳴瀬の身体の重みが覆いかぶさってくる。
「あれ、先生。なにかいい匂いがしますね」
「え……あ、ボディクリーム……? 汗、かいちゃったからかも……ごめんなさい、匂いますかっ」
「いや……? なんか、パンケーキみたいな香りっすね……うまそうだ」
「あっ、な、鳴瀬さんっ……? ちょっ、それ、ネームと違いま、あっ、やぁっ……」
首筋に顔を埋められて、琴香は息をのんだ。
「や、だめ……くすぐったいっ。な、鳴瀬さん……?」
「はぁ、困った」
鳴瀬は小さく頭を振った。
「この間よりやばいかもしれません、俺」
「そ、そんな」
「仕事、仕事って言い聞かせてるんですよ、……これでも」
至近距離でお互いの視線が絡まる。
どうしようどうしよう、──恋人設定の演技だとしても、恥ずかしすぎる。
熱っぽい顔を隠そうとする琴香の腕を、鳴瀬は両手でソファに縫い付けた。
「な、鳴瀬さんっ、やめて、見ないで……!」
「あー、これはまずいっすよね……わかってるんですけど……いい加減、俺もちょっと……我慢の限界っていうか……」
彼は目を伏せて、琴香の耳元に顔を埋めた
「で。続き、してもいいですか、先生……?」
***
「お待たせいたしました。秋限定 和栗のモンブランパフェとほうじ茶のセットでございます」
「あっ、ありがとうございます。わぁ……!」
琴香は運ばれてきたパフェをうっとりと眺めた。
細長いグラスの中は、キャラメルゼリーとホイップクリームの二色のコントラストが美しい層をなしている。
上部はメインのモンブランがこんもりと盛られていて、マロンクリームの繊細な筋が幾重にも重なってできた山のてっぺんは、きめ細かい粉砂糖の雪化粧でほんのり白い。
そして薄いグラスの縁にぐるり並べられた、つやつやの白玉とごろっとした和栗。
(素敵すてき…! 奮発して良かったー!)
ホテルラウンジで食べるパフェの、なんという高級感よ。眼鏡を押し上げてじっくりと観察してしまう。
「いただきます……」
マロンクリームをスプーンでひとくち。
「おいっし……! やば、濃厚、とける、おいしい……くぅぅ語彙がない……」
頬をおさえて、琴香はほうっとため息をついた。
人もまばらな、平日午後のホテルラウンジ。
高い天井も大きな窓も、そこから射し込む日差しに輝くシャンデリアもさすが高級ホテルといった雰囲気で、自然と背すじがのびる。
いつもより頑張ったお洒落は浮いていないだろうか。指摘してくれるような連れはいない。贅沢なおひとり様のアフターヌーンティーを楽しむ自分は、他の客の目にどのようにうつるだろう。
本物のセレブに見え──……ない、だろうことは、琴香自身が一番よくわかっている。
白石琴香は、成人女性向けのえっちな漫画誌『エチプチ』の漫画家である。
今年でデビュー4年め、フレッシュな若手ともベテランとも言えない微妙な立ち位置で、微妙な知名度の、将来が微妙な漫画家である。
そんな自分がなぜ高級ホテルのラウンジでスイーツを堪能しているかというと、ご褒美だからである。
先日終了した連載作品のささやかな打ち上げ。
それから次作への活力補給。甘いものは精神を救うのであるからして……、
(ああ、パフェはこんなに美味しいのに。でも……それでも……駄目だぁ……)
ずずっと鼻を啜ると、和栗の濃厚な甘さが鼻を抜けていく。ついでに涙がポロリと頬を伝った。
(また、思い出しちゃった)
眼鏡を外して目頭をおさえる。
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