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少し迷いがあったけれど、聡子はやっぱり空き家へ向かった。描きたい絵のことを思い浮かべると、気持ちがうずうずしてきてしまった。それでもまだ迷っていた聡子の背中を、最終的に押したのはお母さんの一言だった。
「今日は絵はやめときなさいよ」
と、出かける際にお母さんは言った。
「どうして?」
「毎日描かなくたっていいでしょ? 勉強でも友達と遊ぶでもいいけど、もっと為になることしなさい。だいたい、そんなにいっぱい描いてどうするの?」
反発心がむくむくと立ち上がり、聡子は今日も空き家に行くことを決めた。
おばあちゃんのお守りには紐をつけて、首からかけてあった。シャツの下の素肌の胸に、お守りの厚みが頼もしく感じられた。
いつものように穴をくぐり、庭の影の中に立った。毎日通っていると庭の植物の配置も覚えてきて、昨日はつぼみだった花が開いているのに気づいたりもした。八月に入り、庭の緑は更に濃さを増していた。アジサイの花は萎れて見えなくなってしまい、代わりに大きな真っ赤な花が、木から垂れ下がるようにして咲いていた。
空き家を前に立つと、聡子の目は自然に二階の窓と、雨戸の隙間に引き寄せられた。隙間の向こうの暗がりをじっと見つめたけれど、今のところは何も怪しいものは見えなかった。
セミが猛烈な勢いで鳴いていた。茂みではキリギリスが独特の抑揚で鳴いていた。聡子は場所を決め、いつものように虫除けスプレーを撒き蚊取り線香をセットして、絵に取り掛かった。描き始めてしばらくすると、余計な思いは消えて色彩と形が心の中を占めていった。
茂みがガサガサと揺れる音で我に返った。ドキッとして、聡子は胸のお守りを握り締めた。
茂みから出てきたのは、猫だった。前に見た白と黒の猫だ。聡子に気づくと上目遣いに睨みつけ、にゃあと鳴き声を上げた。
「怖がらなくっていいよ。おいで」
と聡子は囁いた。
手を差し伸べてみたが、猫はかえって飛び退いてしまった。聡子の座っている場所を迂回して、空き家の方へと歩いていった。その間も、警戒の視線はじっと聡子から外さなかった。
「縄張りの邪魔をしてるのはこっちの方か。ごめんね」
聡子から程よく距離をおいた位置に猫は座って、体の毛を舐め始めた。
ひと休みすることにして、聡子はペットボトルの水を飲み、タオルを出して汗を拭った。途中の絵を見直してみる。自然と、影や顔が隠れていないか探してしまう。二階の窓にも雨戸の隙間にも、今のところ何も描いてはいないようだった。
スケッチブックを置いて聡子は立ち上がり、伸びをした。猫がぴくりと反応したけれど、逃げることはなくすぐに毛づくろいに戻った。
家を眺め、聡子はおばあちゃんの話を思った。何十年も前だけれど、ここにも家族が住んでいたんだ。お父さんとお母さんと、女の子。おばあちゃんはいないけれど、うちと似ている。あまり幸せな家族では、なかったようだけれど。
その頃の様子を、聡子は思い描いてみた。洋館は、きっとおしゃれな建物だっただろう。日本でなく、外国の家みたいに。
板壁は白く、赤い屋根が載るとまるでおもちゃの人形の家みたいだ。二階の窓は開け放たれ、きれいなカーテンが風にたなびいていただろう。
一階の木戸も開かれて、今ほど巨大化していない楠からの木漏れ日が、部屋の中まで届いている。戸外の気持ち良さを取り入れる、テラスのような部屋だっただろう。テーブルや椅子、ソファが置かれ、そこでお茶を飲んだらきっと素敵だったに違いない。
平屋の方も、歪んだりしていなくてきれいだ。雨戸はすべて開かれ、庭に面した縁側が見える。日よけに簾なんかが、かかっているかもしれない。襖で仕切られた畳の部屋がその奥に見えている。薄暗いけれど、気持ちの悪い暗さじゃない。風通しが良くて、涼しげだ。軒先に風鈴がぶら下がっていてもいい。楠の梢を揺らす風が吹くと、風鈴はちりんとかわいい音を立てる。
お父さんは洋間で、新聞を読んでいる。昔の人だから、家では浴衣を着ている。灰皿の煙草から、煙が立ち昇っている。お母さんは畳に座って、よちよち歩きの娘を見ている。微笑ましい笑顔。まだ立ち上がったばかりの女の子は嬉しそうに、お母さんの方へよちよちと歩いていく……。
自分の中にありありと浮かんだイメージに、聡子はびっくりした。全部自分の想像でしかないはずだけれど、でもあまりにも真に迫っていた。この場所に残る何かが、聡子に働きかけているのかもしれない。
庭も、きれいだっただろう。下草は刈られ、伸び放題の雑草もない。植木も程よく手入れされて、整った形をしている。菜園では、トマトやキュウリやスイカが実っている。花壇の近くには赤い屋根の犬小屋があって、鎖で繋がれた犬が昼寝をしている。
近所の子供達が、庭の中に入ってきている。犬と遊んだり、花壇に来るチョウを追いかけたりするために。今のところは、お父さんも寛容だ。娘の友達が庭を自由に駆け回るのを、優しく眺めている。今のところは、まだ大丈夫。
子供達の声が、花が溢れる庭で聞こえている。新しい子がやって来る度に、こんなやりとりが繰り返される。
いーれーてー……
いーいーよー……
あーそーぼー……
早送りのように、時間が経過していく。
暗い影が、差してきた。楠の木が伸びていく。徐々に大きく伸びていって、気がつけば庭全体を影で覆い尽くしてしまっている。明るい陽射しが射さなくなり、きらめく木漏れ日もなくなった。洋間に光は届かず、和室は暗さを増していく。心地よい日陰はいつしかただじめじめとした暗がりになり、庭木も手入れされず荒れ始めた。
何があったのだろう? おばあちゃんが言っていた、「いろいろな不幸」という奴だろうか。
庭からは子供達の声が消えた。この家の少女一人が残されて、広い庭に一人きりだ。いつの間にか、犬もいなくなってしまった。犬小屋はバラバラに分解されて、木材は庭の隅に積まれた。
一人きりの荒れた庭で、少女は呟きを繰り返している。
いーれーてー……
あーそーぼー……
隣で猫が唸り声を上げて、聡子は我に返った。
見ると、猫が耳を立てていた。何か聞こえたように、顔を上げ、耳をピンと立てて、緊張している。猫は空き家の方を向いていた。
少女の姿は消えていた。空き家の過去の風景も消えて、元の荒れ果てた庭に聡子は立っていた。
突然戻った現実の風景に戸惑いながら、聡子は目をパチパチ瞬いた。
これはただの想像じゃない、と聡子は思った。まるで、起きながら夢を見ていたようだ。聡子は首を振り、顔の周りを手で払って、白昼夢の名残りを振り払った。
隣で猫が、空き家を睨んで威嚇するように唸っている。
「どうしたの?」
と聡子は猫に話しかけた。
「何かあるの? もしかして何か見えてる?」
聡子はあらためて空き家を眺めた。猫は、雨戸の隙間の真っ暗な闇を見つめているようだった。あそこに何かいるのだろうか? また別の猫かもしれないが。それともやっぱり、あの少女がそこにいるのか。
聡子は歩いていって、雨戸のすぐ近くに立った。雨戸の隙間から覗き込んでみたが、まったくの闇で何も見えない。闇が濃過ぎて、目がチカチカするばかりだ。懐中電灯を荷物のところに置いてきたことに、聡子は気づいた。
足音が聞こえた。家の中のどこかを、てててと走り回る軽快な足音。長い廊下を走る子供の足音を、聡子は連想した。あれほど深い闇の中を、あんなふうに走れる訳がないのに。
聡子は楠の根元へ走り、荷物の中から懐中電灯を取ってきた。もう一度走って、雨戸のそばに戻ってくる。その間も猫は家から目を逸らさずに、睨み続けていた。
胸のお守りをぎゅっと握り、聡子は雨戸の隙間に懐中電灯の光を向けた。家から勝手に持ち出してきたその懐中電灯はコンパクトなペンタイプで、光は弱く、ほんの僅かな範囲しか照らしてくれない。
雨戸の内側、歪んで外れた木戸が見えた。その向こうに破れだらけの障子も見える。光が届くのはそこまでで、更にその奥に広がる部屋の空間は依然として暗闇の中にある。
光が届く、そのほんの少し先に、少女が立っているのがわかった。
落ちている影が濃すぎて、少女の顔はよく見えない。ただ、少女の形の影法師が雨戸の影に立っていて、じっと聡子を見ている視線を感じるだけだ。
聡子と同じくらいの背丈。同じような痩せた体格だ。まるで自分自身の影が、足元から切り離されて空き家へ逃げ込んでしまったような、そんな気持ちが聡子はした。
おいで……おいで……
影はそう言っていた。
はいっておいで。
いっしょにあそぼう。
「そんな暗いところに行けないよ」
聡子は言った。微かに息が漏れるような、小さな声しか出なかった。
「それに、こんな小さな隙間じゃ入れない」
聡子がそう言うと、少女の影は片手を上げて、左手の方向を指差した。
洋館の方。あそこから入ってこいという意味らしい。
「無理だよ。そんなところまで行けない」
どうして?
「どうしてって。真っ暗な場所は、怖いもん」
こわくないよ。
こわくないから、へいきだよ。
だから、はやくはいっておいでよ。
ここにきて、あそぼう。
あそべる? あそべない?
何て答えればいいのか、聡子は迷った。
「遊べない……訳じゃないけど。私は今、絵を描いてるから」
えなら、おうちのなかで、かくといいよ。
だから、おいで……
こっちに、おいで……
「ちょっと待って。そんなの、無理だよ」
雨戸の向こうの少女の影法師が、手招きするのがぼんやりと見えた。と思うと、すうっと後ろの闇に吸い込まれるように、消えた。
闇に目を引き付けられたまま、聡子はしばらく待っていた。じっと闇を見つめていたが、少女の影はもう見えない。空き家の奥へ、退いてしまったようだ。
聡子が中に入っていくのを、待ってるよとでも言うように。
聡子は洋館を眺めた。薄暗い洋間の奥、奥へと通じる扉が見える。誘うように、扉は半分開いていて、奥の暗闇が見えている。
じっと見ていると、吸い込まれそうになる。ふらふらと、そこへ入っていきそうになってしまう。
首を振って、聡子は誘いの空気を振り払った。楠の根元まで戻って、倒れるように座り込んだ。緊張感が強すぎて、なんだかへとへとに疲れてしまった。
見ると、猫も戻ってきていた。さっきまでの緊張を解いて木の下に座り、自分の体をぺろぺろと舐めているのだった。
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