ラブレター

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ラブレター

その日、由奈は思い切って扉を開いた。 木製の扉にはめられた綺麗なステンドグラスが光り、カランカラン、と懐かしいような音が響く。 扉の上部に、鐘のようなものがついているようだ。 開いた扉から一歩踏み入れると、そこは期待以上の空間だった。 (素敵……) 広すぎず狭すぎない店内には、カウンターが4席とテーブル席が4つ。 テーブル席の椅子はそれぞれ違ったデザインで、そのうえ統一感があるから不思議だ。 どの椅子に座ろうかワクワクしてしまう。 でも何より目を引くのが、 大きな窓だ。 背の高いアーチ状の両開き窓で、窓際のテーブル席に優しい光を落としている。 (あそこでゆっくり紅茶でも飲めたら…まるで貴族のアフタヌーンティーみたい) 貴族がどんなところでアフタヌーンティーをしていたのかも知らないけれど、由奈はうっとりとそう思った。 「いらっしゃいませ!」 ウェイターににっこりと微笑まれ、由奈はハッとする。 「あ、はい!」 「お好きなお席にどうぞ」 「おすすめは、あの窓際のお席です。とても落ち着きますよ」 そう言ってウェイターは、にっこりと微笑んだ。 (あの席をじっと見てたの、気付かれたかな) 由奈は少し恥ずかしい気持ちになりながらも、ウェイターの気遣いに感心する。 (大学生…くらいだよね) 見たところ、自分とあまり歳が変わらないように思う。 人懐っこい笑顔が爽やかで、声も明るいのに優しい。 由奈は緊張が解れたように、ホッとした気持ちになった。 「…じゃあ、あの席にします」 そう言って由奈は、窓際の席へ腰掛けた。 木製の椅子には、座る部分に手触りのいい起毛素材が使われており、とても座り心地が良い。 「あ、ホットオーレ下さい」 さっきのウェイターが水を運んできたタイミングで、由奈は注文を済ませる。 本当はケーキやデザートも試してみたかったが、今日の目的は別にあるので我慢した。 「あと、あの!あそこの便箋とかって、使ってもいいんですよね?」 由奈は、壁の棚に並べられたたくさんの便箋や封筒を指差した。 「はい、もちろんです。ここは手紙喫茶ですから」 由奈はこの店のことを、友達に聞いて前から知っていた。 店内の便箋や封筒を自由に使って、手紙が書ける変わったカフェ。 そう聞いて、すぐにでも行ってみたい気持ちでいっぱいになった。 由奈は子供の頃から、手紙が大好きだったからだ。 誰かが自分のために選んでくれたレターセットも、言葉も…、手紙というのは、最高のプレゼントだと由奈は思う。 ここに来るなら、一人で来て手紙を書きたかった。 でも一人で入る勇気がなく、今日まで先延ばしになってしまったのだ。 「筆記用具もありますから、ご自由にお使いください」 そう言って微笑むと、ウェイターは去っていった。 「透子さん、ホットオーレひとつ」 英人は注文を受けてカウンターに戻ると、透子に注文を伝えた。 「はい」 静かに微笑んでそう答えると、透子はサイフォンの準備にとりかかる。 「透子さん、あの子、絶対ラブレター書きますよ」 英人はどこか嬉しそうに笑いながら、小さい声でそう言った。 透子はホットオーレを頼んだ女性に一瞬視線を送り、すぐにサイフォンへ視線を戻す。 「英人君の勘は、わりと当たるもんね」 「まあ一応、小説家志望ですから。人間観察が趣味なんで」 「ふふ、ほどほどにね」 由奈は壁際の棚に並んだ便箋や封筒をまじまじと見つめて、真剣な表情で選んでいる。 英人はそれを見て、目を細めた。 英人はこの店で過ごす時間が、好きだ。 サイフォンから漂うコーヒーの匂いも、比較的静かなお客さんたちも、誰かを思って手紙を書く人の横顔も。 すべてが、心を落ち着かせてくれる。 「お待たせしました」 ホットオーレをテーブルに置くと、由奈はありがとうございます、と言って小さく頭を下げた。 いい子だな、と英人は思う。 栗色のボブスタイルがよく似合う、控えめな雰囲気の女の子。 選んだ便箋と封筒をテーブルの脇に寄せ、オーレを置きやすくしてくれた。 (うまくいきますように) 英人は心の中でエールを贈り、テーブルを後にした。 二時間くらい、経っただろうか。 その間に、老夫婦と、カウンターにいた女性が店を出た。 店内に残っている客は由奈だけで、英人はカウンターに座ってペンを握っていた。 英人は店主である透子のはからいで、店が落ち着いている間は小説を書くことを許されている。 時が止まったようなこの店にいると、ペンがよく進んだ。 コポコポ、というサイフォンの音、透子が食器を置くカチン、という音、靴が床に当たる音、紙の上を鉛筆の芯が擦る音。 英人は、この空間にいられることを心から感謝する。 カランカラン── 「いらっしゃいませ」 ドアの鐘の音が響き、英人はすぐに立ち上がった。 ドアを開けて入ってきたのは、若い男性だった。 明るい色の髪は目に入りそうな長さで、切れ長の目が印象的な男性。 細身の体に、さらりと羽織っているのはブランドもののシャツだ。 男性が入ってきた瞬間、窓際の女性客がビクッと顔をあげたのを、英人は見逃さなかった。 予想通り、男性は彼女の席へ向かっていく。 (がんばれ) そう思いながら、水の入ったグラスを二人のテーブルに置いた。 「あ、コーヒーね」 「かしこまりました」 男性の注文を受けたとき、由奈が膝の上で封筒を握っているのが見えた。 たっぷりと時間をかけて、悩みながら書き上げた手紙だ。 英人はカウンターへ戻りながら、もう一度心の中でがんばれ、と呟いた。 「…伝わるといいなあ」 フラスコの中が、水蒸気で満たされ、黒い液体が香ばしい香りを漂わせ始める。 「…そうね」 透子はコーヒーをカップに移しながら、静かに微笑んだ。 英人は、なにげに由奈の正面に座る男性に視線をやった。 由奈とは正反対で、緊張している様子は見られない。 小慣れたさわやかな笑顔は、まるで雑誌のスナップ写真のようだと思った。 「…でも、」 言いかけて、英人は口をつぐむ。 「…でも?」 「いや、なんでもないです」 「ふふ、そう?」 お客様のことをあれこれ詮索するのは良くない、と思うので、透子はあまり多くを口にしなかった。 ただ、心の中では英人と同じ気持ちを抱いている。 手紙を書くすべての人の気持ちが、相手に伝わればいいのにと──。 カタン! そこまで大きな音ではなかったが、ほかに客のいない店内には充分響き渡った。 英人と透子が目を向けると、由奈が立ち上がり、両手で手紙を差し出していた。 さっきの音は、どうやら由奈の椅子が揺れた音のようだ。 「あの、これ…読んでください!」 由奈は頬を染めながらも、まっすぐに男性を見ながら伝えた。 英人は息を飲む。 透子はコーヒーをトレイに乗せながらも、意識をそちらに向ける。 「あー…、いや、俺手紙とか無理なんだよね〜。字読むの苦手なんだ、ごめんね?」 男性は立ち上がることもなく、ヘラッと笑いながら差し出された手紙を手で遮った。 英人は、止めていた息をふーっ…と吐き出す。 重い気持ちが、息になって流れていくようだった。 「あっ…そうなんですね、ごめんなさい」 由奈は手紙を引っ込めて、力なく椅子に座った。 泣きそうになるのを抑え、口角を上げて笑顔を作る。 それと同時に、今度は男性がスマホを持って席を立った。 「あ、ごめん!バイト代わってくれって後輩から連絡きてるわ〜」 「また埋め合わせするからさ。今度ランチ行こうよ、おしゃれなカフェ見つけたんだよね」 そう言って男性は、由奈の頭にポンッと手を置き、テーブルに千円札を置くと笑顔で店を後にした。 由奈は弱々しい笑顔で男性を見送った後、視線を落として、ため息をひとつ漏らした。 (まだ、心臓がバクバクしてる) 緊張とは違う、別の鈍い痛みがこみ上げて、目の前がにじむ。 (だめ、こんなところで泣いちゃ) 由奈は、目頭を紙ナプキンでそっと抑える。 先輩と由奈は、ゼミで出会った。 由奈から見た先輩はとても優しくて人気があり、本ばかり読んでいた自分とは違う世界の人間だと思っていた。 でも話してみると気さくで、お茶に誘ってくれたり、悩みを聞いてくれたり、純粋にいい人だと思った。 由奈はあんな風に男の人に誘われたのは初めてだったし、先輩といるといつもドキドキした。 (だからって勘違いするとか、私、バカみたいだな…) また視界が滲み始めて、由奈は紙ナプキンを掴んだ。 「…受け取りもしないなんて」 俯く由奈を見ながら、英人は眉間にシワを寄せた。 左手に持ったトレイには、あの男が飲むはずだったコーヒーが乗っている。 「英人君」 透子さんに呼ばれて振り返ると、カウンターには別のカップが置かれていた。 すぐに透子の意図がわかり、英人は少し心が救われる。 (透子さんだって、けっこう人間観察してるよなあ) そう思ったが口には出さず、トレイのコーヒーを降ろし、そのカップに差し替えた。 「お待たせいたしました」 由奈はハッとした表情で英人を見上げ、それからパッと俯いた。 赤くなった目を隠すように、右手で前髪を触りながら話し始める。 「あっ、あの、すいません。連れに急用ができて…お代は払いますから、コーヒーはキャンセルしてもらえますか?」 「私が飲めればいいんですけど、コーヒーだけだと飲めなくて…」 次の瞬間、目の前に置かれたカップの中身を見て、由奈は驚いた。 そこにはクリーミーなホットオーレが入っている。 「あの、これ…」 「オーレのおかわりです。よかったらどうぞ。コーヒーはキャンセルしておきました」 由奈はもう、ほとんど泣きそうだった。 温かい気遣いに感動するとともに、振られたシーンを見られて、同情されていると思うと恥ずかしさでいっぱいになる。 浮かれて声の大きさも気にしなかった自分が恨めしい。 「み、みっともないですよね…すみません」 「センスいいですね」 「え?」 思いがけない返しに、由奈は思わず顔をあげる。 「そのレターセット、僕も好きなやつです。シンプルだけど、紙も上質でいいですよね」 英人は、由奈が膝の上で握ったままの封筒を指差した。 白い封筒には、右サイドだけに紺の二本線が入っている。 「…男性に送るなら、シンプルな方がいいと思って…。それに、私も紙の質感が気に入ったんです」 「でも」 由奈は涙がこぼれそうになるのを堪えながら、精一杯の笑顔を作った。 「無駄にしちゃいました」 「無駄ではないと思います」 英人は優しく、でもキッパリと言い切った。 「誰かに伝えたい自分の気持ちを書くのが、手紙だと思うから。受け取ってもらえるかどうかは、また別の話です」 「無駄な手紙なんて、ないと僕は思います」 それは慰めでもなく、英人の素直な考えだった。 手紙は、書くことに意味がある。 たとえ、渡すことができなくても。 由奈は、ついにポロリと涙を流した。 すぐにセーターの袖で拭き取る。 英人は見ないふりをして、こう続けた。 「それにほら、ここには「ブラックホール」もあるんですよ」 「ブラックホール…?」 英人が手を向けた方を見ると、壁際の小さな丸テーブルに、まん丸の球体が置かれていた。 球体は真っ黒で、白い文字で「ブラックホール」と書かれている。 ちょうど真ん中で開くようになっているのか、古めかしい南京錠がかけられているのが見えた。 「あれは、色んな事情で渡せない手紙を入れる箱です」 「渡せない、手紙…」 「案外多いんですよ。渡せないけど、手紙を書きたいことって」 「ブラックホール、僕が考えたんですけどね。結構人気なんです」 そういって英人は人懐っこい笑顔で笑う。 「中の手紙は、どうなるんですか?」 「透子さん─店主が1日のはじめに取り出して、封筒のままシュレッダーにかけます。誰の目にも触れることはありません」 そう言われてカウンターを見ると、若い女性が、俯き加減に何か作業をしている姿が見えた。 (綺麗な人…女性で店主なんて、かっこいい) こんな素敵な店を作るのだから、きっと素敵な人に違いないと、由奈は考える。 オーレのおかわりだって、店主である彼女が了承してくれたからなのだろう。 由奈は、手紙をシュレッダーにかける店主を想像する。 (あんな人に消してもらえるなら、それもいいのかもしれない…) 「手紙の、お墓ですね」 そう呟いたが、思ったよりも寂しい言葉に少し胸がキュッとする。 「…それはちょっと、違うかな」 見上げると、英人は優しげな笑顔を向けてくれた。 「ブラックホールって、まだ色々解明されてないでしょ?だから、思わぬ形でどこかに繋がってるかもしれない」 「あそこに入れた手紙も、相手が変わったり、形が変わったり、時間がかかったりするかもしれないけど、いつか誰かに届くかもしれない」 「俺はそう思って、作ったんです」 そう願って、かもしれない。と英人は思う。 (形を変えて、いつか誰かに…) そう考えると、途端に寂しさが軽くなる。 「ごゆっくりどうぞ」 そう微笑んで、英人はカウンターへと戻っていった。 由奈がしばらく目で追っていると、英人はカウンター席にの端に座り、何かを書き始めた。 独特の雰囲気がある店だな、と由奈は思う。 静かで、気遣いも行き届いているのに、じろじろ見られているような気がしない。 お客さんもスタッフも、それぞれ自分の時間を過ごしているような気がする。 由奈は湯気のあがるホットオーレのカップを持ち上げ、こくりと飲んだ。 甘味と苦味が口いっぱいに広がり、少し冷えた体を暖めてくれる。 「…え?」 ふと、由奈はソーサーに何かくっついていることに気がついた。 ちょうどカップが乗っていたソーサーの真ん中部分に、小さな付箋がついている。 (^ ^) そこには、にっこりと笑う絵文字が鉛筆で描かれていた。 由奈はハッとして、カウンターに目をやる。 何かを書く、英人の後ろ姿。 (…人生初めての告白が、この店でよかった) 由奈は付箋を剥がして手の中に収めると、泣きそうな気持ちで微笑んだ。 (結局私は、先輩のことなんて何も見ていなかったのかもしれない) 由奈は、手紙を断った時の先輩の仕草を思い出していた。 一瞬困った顔をしたけれど、先輩はすぐいつもの笑顔に戻った。 そして何事もなかったように、またランチに行こうと私の頭を撫でた。 (あれは、ワルい男の仕草だ) 恋愛経験がなくても、恋愛小説なら山程読んできた。 あれはきっと、まったくその気はないけれど、自分を好きな状態のままキープしておきたいということではないだろうか。 そして先輩にはきっと、そんな女性が何人もいる。 由奈は、また一口、オーレを口に含んだ。 (でも、きっとお互い様だ) 由奈は、今までの二人を思い返してみる。 私だって、先輩の何を見て、知って、好きになったというのだろう。 ただ初めて男の人に優しくされて、気さくに話したり、二人でランチをしたりできて、勝手に浮かれていただけではないか。 あれが先輩じゃなく他の誰かだったとしても、私は浮かれて恋に落ちた気分になっただろう。 由奈はオーレをぐっと飲み干し、席を立った。 封筒を握って、壁際へ向かって歩く。 結構人気なんです、という英人の言葉を思い出し、少しブラックホールを持ち上げてみた。 軽く振ると、カサカサ、と紙の擦れる音が聴こえる。 (入ってるんだ…) 出せない手紙を書く人、受け取ってもらえなかった人は、他にもいると思うと、また少し心が軽くなる。 ブラックホールの上部には、封筒が入るくらいの穴が開いていた。 由奈はそこに、封筒を差し込み──手を離すのを、一瞬躊ためらう。 (確かに、他の誰かでも同じように浮かれたかもしれない) でも、声をかけてくれたのは、楽しい時間をくれたのは、誰でもない、先輩だったのだ。 ワルい男だったとしても、確かに、私の初恋だった。 指の力を抜き、ストン、と手紙が離れた。 乾いた音をたてて、他の誰かの想いと混じる。 由奈は目元をぐっと拭った。 「ありがとうございました!」 笑顔でオーレのお礼を告げて、由奈は店を後にした。 そんな由奈を笑顔で見送り、英人はふう、と息を吐き出す。 「…でも正直、始めからあの子にあの男は不似合いだなって思ってたんですよね」 「俺の顔も見ないでオーダーしたし」 英人はカウンターに置いたトレイとダスターを手に取りながら、誰に言うでもなく呟く。 「…ふふ。それが「でも」の続きね」 透子が微笑むと、英人はイタズラっぽく笑ってから歩き出した。 「透子さん!」 少し弾むような声で呼ばれ、透子は顔を上げる。 「ちょっと来てください」 さっきまで彼女が座っていた窓際の席で、英人が手招きしていた。 透子が向かうと、英人は嬉しそうにテーブルを指さした。 「ほら、これ」 テーブルの上には、真っ白いメッセージカードが置かれていた。 四方がレース模様になっているのが素敵で、透子が買いつけたものだった。 ありがとうございました。 いつかきっと、素敵な恋人と一緒に来ます!その前に、今度はケーキを頂きに来ますね(^_^) 可愛らしい文字で書かれたメッセージに、二人とも思わず笑顔がこぼれる。 「…ラブレターって、今この時の気持ちを閉じ込めた宝箱みたいなものだと思うの。この恋が終わったとしても、受け取ったラブレターはずっと残るでしょう」  透子の言葉に、英人は深く頷く。 「何十年経っても、読むたびにその時の宝物を楽しむことができる最高のプレゼントだわ。あの男性は、人生の宝物を一つもらい損ねたわね」 ふふ、と透子は微笑んだ。 (…絶対透子さんも、あの男のこと気に入ってなかったよなあ) 英人は少しおかしくなり、ふっと笑う。 でも、まったく透子の言う通りだと思った。 彼女はまた恋をして、またラブレターを書くことができる。 でも彼は、今日あの子が書いたあのラブレターを、もう二度と受け取ることはできないのだから。 それが宝物だったと、いつか気付く日がくるかもしれないし、一生気付かないかもしれない。 「…また来てくれるのが、楽しみね」 「ですね!透子さんのケーキはおいしいから、きっと彼女も気に入りますよ」 「…ふふ、じゃ、お客さんも引いたし、私たちもお茶にしようか。ブラウニーの余りがあるのよ」 「やったあ!お皿用意しますね!」 サイフォンがまたコポコポ、と音をたて、温かな湯気が揺らめいては、消えた。
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