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散らかった部屋の中、ネコジャラシを模したオモチャを手に持って、目の前の猫の気を引こうとするけれど、猫は私に関心を示そうとしない。
欠伸を一つして、それから尻尾を少し動かしただけだ。猫に興味が無いのを見透かされたようでハッとさせられる。
「先生、名前は何ていうんですか?」
「花屋敷 環」
「先生のじゃないです。このネコちゃんですよ」
「名前はまだ無い」
「漱石ですか」
「ああ、ソウセキって良いねぇ。メスだけど」
他愛無い会話から生じるノンビリとした空気の流れ。互いの温度を交換してゆくような、穏やかに循環していく言葉と仕草のやり取りが時間を置き去りにしてゆく水曜日。
この感情に名前を付けるとしたら、きっと――。
「ところで君はさっきから猫と遊んでばかりで、僕の引っ越しを手伝おうとしない」
「だって邪魔したら悪いですから」
「やれやれ。君は手伝いに来たんじゃないのかい?」
「だから先生がサボらないように見張ってあげているじゃないですか」
先生は新年早々、捨て猫を拾ってしまい、今住んでいるアパートからペット可の部屋へと引っ越さなければならなくなった。私はその手伝いという名目を得て此処に居る。
女生徒というのは、なんて不便で使い勝手の利かないレッテルなのだろう。
歳の差、教師と生徒。人を好きになるのに理由は必要ないはずなのに、クリアしなければならない問題が多すぎる。
好きな人の近くに居るためだけでも、便宜上の理由をいくつも花束にして用意する必要があるのだから。今の状況だって、かなり際どいグレーゾーンだろう。
「夏休みの宿題は終わったかい?」
「明日、友達と協力して終わりにします」
「そういうことは教師の前で言わないように」
エアコンの下にある窓から、空に向かって真っ直ぐに花を咲かせている向日葵が見えた。
花言葉は「憧れ」「あなただけを見つめる」。ところが大輪になると「偽りの愛」と言葉を変えるのだ。
大きく咲いた愛は、嘘になってしまうのだろうか。
私は距離を保って先生を想うのが相応なのだろうか。
憧れは所詮、愛に成りきれない花なのだろうか。
「先生は曼珠沙華先生のどこが好きだったんですか?」
先生は最近、同僚の先生に告白してフラれた。
「オッパイが大きいから?」
「違うよ」
少しはにかんだ様子で「うーん」と、首を捻ってから口を開くまでの動作が何処か可愛い。
「一緒にいるだけで楽しいというか、彼女の笑顔を見るだけで僕まで嬉しくなるというか……気持ちが勝手に揺さぶられる感覚というものを経験したことないかな?」
先生は照れながら、そんなことを言った。心と呼ばれる私の中の実態のない部分が小さくトクンと痛む。
「先生って真面目ですね。生徒のこんな質問、上手に受け流すのが大人ですよ」
少し意地悪な口調で言ってやった。一方通行な恋慕のカクレンボ。
「そうか……そうだな」と、恥ずかしそうに笑う貴方はやっぱりどこか寂しそう。私も微笑んだものの、その表情を上手く作れたかは分からない。
きっと、二人とも笑顔を作るのに失敗したんだ。
「世の中、好きな人が都合よく自分のことも好きだったなんて、そんな上手い話はないよな」
「ないですねぇ」
本当にそうだ。だって私は――。
その時、ソウセキ(仮)が先生の膝の上に乗って甘えた声を出した。
「ん? なんだい? 御飯の時間はまだ先だぞ」
頭を撫でるその指の繊細で緩やかな動きが、低く通る優しい声のトーンが、不器用で頼りない貴方の生き方が、私の感情を心地良く揺さぶるんです。
――ああ、私はいっそ猫なら良かったよ。
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