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3.秘密
「仁科配管です」
この町にしてはひどく暑い日だった。
インターフォンに向かって声を張った。はあい、ただいま、といつもの奥さんの声がする。
「由悠季ちゃん、ごめんなさいね、忙しいのに」
「いいえ、こちらこそいつもありがとうございます」
親父の代からつき合いのある、整骨院の奥さんは俺をちゃんづけで呼ぶ。中学生の頃から知っているから仕方ないのだが、若干恥ずかしい。
「それで今日は?」
「エアコンが動かなくなっちゃって・・・施術室だから困ってたの」
「わかりました。ちょっと見せてもらいますね」
「あ、それでね、あたし今から出かけるので、何かあったら主人に聞いてくれる?」
「・・・わかりました」
奥さんはピンクのユニフォームの裾をはためかせて二階の住居に上がって行った。
施術室は1階。そして今日は、ご主人の先生だけ。
嫌な予感がしたが、努めて明るくドアの前で声を出した。
「仁科です、失礼します」
20年選手の古めかしい引き戸。俺が子供の頃からこの、木枠とすりガラスが揺れて、がらがらと音がする施術室の入り口は変わっていない。野球の試合で捻挫したとき、ここを通ってお世話になったのを覚えている。手の大きな、優しい口調の先生だった。
しかし、それは子供の頃の話であって。
「ああ、由悠季くん。よろしく頼むよ。暑くてかなわないんだ」
確かに、引き戸を開けた瞬間、むわっとした空気が部屋の中から漏れ出した。
回る椅子にゆったりと腰を下ろしている先生は、森岡という。
「本当に暑いですね。ちょっと見せていただきますので、先生、涼しいところにいらしてください」
「僕は由悠季くんの仕事現場を見るのが好きなんだ。見ていてもいいかな?」
「・・・もちろんです。じゃあ、失礼しますね」
森岡先生に笑顔で返して、俺は梯子を肩から降ろした。
前回ここに仕事に来た時も、その前も。先生の視線がやたら粘着質だった。
気のせいかと思ったが、3回目の今日、それは気のせいではないと分かった。
「・・・由悠季くん」
作業を始めて15分。
汗をかきながら作業している背後で、森岡先生の不穏な声がした。
先生は多分、50過ぎぐらいだ。毎週末はゴルフをやっているそうで、体は引き締まっている。若い頃は人気のイケメン俳優に似てるとよく言われたらしい。最近は髪に少し白いものが混じり始めたが、それがまたいい具合で、要するに美中年、と言われる類だ。
俺は梯子の上で、表情を作って振り返った。
驚いたのは、先生が梯子のすぐ下に来ていたことだった。
「先生・・・?」
「・・・そのまま」
低くつぶやいた先生は、梯子に跨がった俺の右太腿の外側に触れてきた。
やっぱりか。
「あの・・・?」
「由悠季くん、僕はね・・・君が大人になるのをずっと待ってた。やんちゃな時期も可愛かった…なのに、まさか山口の娘と結婚するなんてな」
3年前、俺が29の時に結婚した妻の旧姓は山口。義父と森岡先生は同級生だったそうだ。
先生は俺の太腿を膝から尻に向かってゆっくりと撫でている。
俺は先生の手を掴み、笑顔を作って言った。
「梯子降りてもいいですか」
「だめだ」
被せ気味に先生は言った。背筋がぞわりとした。俺の太腿を撫で回す手のひらに肉を掴まれる。
と、外側にいた手がするりと太腿の内側に移動した。そして遠慮なくきわどいところに近づいていく。
いつしか先生の呼吸は荒くなり始めていた。
「落ちそうなので、降りたいんですが」
状況に不似合いな明るい声で俺は言ったが、常軌を逸した瞳で見つめてくる先生は、俺の内腿の肉を握って言った。
「逃げないか」
「・・・はい」
しぶしぶ手を離した先生は、俺が梯子から降りる間に施術室の鍵を内側からかけた。
「由悠季くん・・・僕は・・・」
先生は切羽詰まった表情で俺に近づいてきた。室温の暑さで吹き出す汗と、冷や汗が混じって背中を伝って流れ落ちる。
俺は飽くまでも、意図を読みとれない風を装い続けた。
「・・・先生、俺、男です。既婚者ですし」
「わかっている。・・・そんなことは関係ない」
先生が俺の至近距離まで近づいてきた。
物言いたげな目で見つめられ、先生の手が俺の両足の間に添えられた。
「君は・・・気づいていないのかい?」
「・・・え・・・?」
「同類だろ?」
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