ただいま、おかえり

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翌朝、僕はいつも持ち歩いている短めのキーボードをケースに入れて手にした。約束している時間が近づいてきた。僕はリュックにケースごと挿して、部屋を出た。 チェックアウトを済ませ、スーツケースをフロントに預けた。ホテルを出て山道を登っていく。 一伽に電話したりメッセージを送ることはしなかった。これで来なかったら僕は本当に振られたんだと思うことにしよう、と考えていたから。 久しぶりの山の散歩道は、二年近く前と風景が変わらない。良かった、これならあの場所に辿り着けそうだ。 木々で日の光が遮られている遊歩道は、まだまだ気温が低くて吐く息が真っ白だ。ポケットに手を突っ込んで歩いた。寒すぎるせいだろうか、歩いている間、誰ともすれ違わなかった。 少し身体が温まってくる。道の脇に溜まっている枯葉を見ながら歩く。 たった二年弱の間に、リョウくんは枯葉の中を探索することを止めギターを手にした。彼の中でどんな変化があったのだろう。そして、一伽の中でも。 ここから下って行ったところだったな。僕は少し緊張しながら歩みを進めた。 一伽は来てくれるだろうか。 三分ほど歩くと、じっと立っている人影が見えた。 「一伽!」 僕は彼女の名前を呼んで駆けだした。間違いない。一伽だ。 真っ白い息を吐きながら肩をすくめて彼女は僕を待っていた。 「一伽……」 お待たせ、とも何も言わずに僕は彼女を抱きしめた。 懐かしい彼女の香りがする。そうだ、一伽はこんな香りがしていた。嘘じゃないんだ。一伽はちゃんと来てくれた。 彼女のぬくもりがコートの上からでも分かるくらいの時間抱きしめた後、 「寒かったろ、待たせてごめん」 やっと僕は彼女の顔を見て一言言った。 触ってみると頬が氷のように冷たい。一伽の頬を両手で包むと、僕はずっと焦がれていたその唇に触れた。彼女の唇の温度が上がるまで。 「……爽……さん」 ポロポロと涙を流す一伽に言った。 「まだ好きなんだけど、信用してもらえないかな。僕は、フィリップ・ヤンじゃない」 「でも……でも、私は……」 「着いてきてほしい所があるんだ。それから考えて」 僕は昨日の不動産業者に連絡を取った。 「昨日リョウくんに会ったよ。ギター持って習い事に行ってる途中に」 「会ったの?」 「僕が海に向かってたら偶然ね。今の住まいじゃ楽器弾きにくいだろ?」 「うん……遠慮してる。アパートだから」 「ちょうどね、この近所に僕がスタジオにしたい物件が見つかったんだ」 「え?」 「僕が向こうにいる間、ここを管理してもらえると嬉しいんだけど。住み込みで」 昨日見た物件に着いた。 「どういうこと⁈」 車を降りて僕は一伽の手を引いて、昨日と同じ不動産スタッフの後ろに着いて行った。家の鍵を開けた後、察しの良いその人は、何かお聞きになりたいことがあればお呼びください、私は車におりますので、と言った。 「ちょっと上がって見てみて」 僕は一伽を促した。 「え? こんな広い家を?」 「こっちに来てよ」 僕はアトリエに一伽を連れて行った。 「ここをスタジオにするつもりなんだ。春からリョウくん中学生だろ? 入学までにやってもらうから引っ越しておいでよ。楽器だって自由に弾かせてやれるよ、ここなら。僕は向こうにいることが多いけど、曲作りで籠る時はここに帰って来るから」 「そんな、爽さんに甘えられない!」 「一伽、結婚して。リョウくんの将来も考えなよ。音楽やるのは金がかかるって分かるだろ?僕を使って」 「ダメ、私、一人で育てるって、決めたの……」 目の縁を真っ赤にして一伽はポロポロと涙を零した。 「僕、リョウくんと上手くやれると思うよ。話した感じだと」 「話したって……」 一伽は驚いて僕を凝視する。 「さっきリョウ君に会った時にさ。山で会ったおじさんだって覚えてくれてたよ。鍵盤なら教えてやれる。ここなら君の職場も近いし、問題ないと思うけどな。今夜遅い便で帰るから、夕食三人で食べないか?」 「どうして? あなたなら周りに綺麗な人いっぱいいるはずなのに……こんな子供のいる……」 僕は一伽の手を引いてリビングに向かった。目の前いっぱいに広がった海の風景に、彼女が息を飲んだのが聞こえた。 「この風景を一緒に見たいのは、一伽とだけなんだ。お願いだ、結婚してくれ」 僕は彼女を抱きしめた。こんなに細い肩だったかと思う。 長い沈黙が流れる。……これで断られたら、キッパリ諦めよう。 一度震えるように深く息を吸って、一伽は答えた。 「ほんとに私でいいの……?」 「一伽がいいんだ」 「……よろしくお願いします、爽くん……」 やっと一伽は、僕のことをハトさんに呼んでいた時みたいに、爽くん、と呼んでくれた。 一度も寝ていない人と結婚するなんておかしいだろうか? けれど僕はそんなのは関係ないことだと思った。何度寝たって一緒にいたいと思わない人がいる。 一伽は、あの時二日、数時間会っただけなのに、一生共にいたいと思った。 僕はすぐに契約し、諸々のリフォームについて話を詰めた。 帰り道、一伽は言った。 「本当に後悔しないの?」 「しないよ」 「リョウと仲良くしてくれる?」 「もちろん。当たり前だろ」 繋いでいる手を、しっかりと繋ぎ直した。 僕は、一旦ホテルに戻り、荷物を持ってある場所に行った。 「リョウが返ってくるまで、うちに来る? 狭いけど」 「うん、ありがとう」 狭いアパートだったけれど、きれいに保たれていて、リョウくんが描いた絵が貼ってあったりした。 「適当に座ってね」 そう言って一伽はキッチンに立った。 「何してるの?」 「お昼、食べてないでしょ?」 「作ってくれるの?」 「そんなに喜ばないで……あるもので作ってるんだから……」 一伽の耳がピンク色に染まっていく。 食事の後、一伽はたくさんの話をしてくれた。リョウくんの名前は夏に生まれたけれど風が涼しい時だったから、涼とつけた、とか、今までのこととかを。 「……ねえ、涼くん何時に帰って来るの?」 「えーっと、四時ごろかな」 「じゃあ、時間あるよね」 「何の?」 「もう我慢しないよ」 僕は部屋のカーテンを閉めた。 ……どうして、彼女の唇は僕をおかしくさせるんだろう。 キスだけで、こんなにも体中が痺れる。何十分キスをしても飽きない。 「爽、くん……」 途切れ途切れに一伽が僕の名前を呼ぶ。 彼女は声が漏れないように、必死で手で口を押えた。 「僕が押さえててあげる」 繋がったまま一伽の手を外して頭の横に置くと唇を塞いだ。それだけで彼女は背中を反らせて涙を流す。 「一伽、愛してる」 こんなに素敵な人を捨てるなんて、フィリップ・ヤンは馬鹿だな。 けれどこうも思った。 フィリップ、彼女を捨ててくれてありがとう。そうじゃなければ一伽を僕のものにできなかった。 いや、きっと最初から僕のものだったけれど、出逢う順番がズレていただけだ。 彼女が一番気持ちがいい時に上げる声まで、全部僕の好みなんだから。
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