番外編③ さらばミツハシ part5

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廊下を歩く弥生に 「あ…」とは言うものの、誰も声をかけてこようとはしない。 ひそひそと話をするだけだ。 怖くて声がかけられないのかもしれない、と思う。 不気味でなんだか陰のあるオバサンだったものね。自分でそう思うので傷つきはしない。 「あ、常務だ!」 華やいだ声が片隅で聞こえた。 弥生も女の子たちと一緒に、階段上から見ると、ロビーをさっそうと歩く息子の姿があった。 天パがくるりん、と踊っている。 健太郎は視線を感じたのか上を見上げ、弥生に手を振る。 弥生も振り返す。 その光景を見て、女の子たちが不思議そうに首をかしげた。 (こうしてる場合じゃない、急がなきゃ) 弥生は小走りで会長室に向かう。 コンコンコン…。 「どうぞ入って下さい」 会長室の中から声がする。 「失礼します」 出迎えてくれたのは三橋孝太郎会長だった。 「…粋なことしてくれるじゃない。最後に提出しに来なさいって、なによこれ」 弥生は小脇から封筒を出し、中身を取り出す。 そこには婚姻届が入っていた。 三橋の欄はすべて記入済みだ。 「こうでもしないと、弥生は即効で去ってしまいそうだから」 「古橋に見られたかもよ」 「別にいいさ」 三橋は何の頓着もない表情で答えた。 (私と結婚だなんて、あまり知られたくない上に恥ずかしいだろうに…) 「で、返事は?」 「本気なの? この先私と一緒に過ごせる?」 「過ごしたいからプロポーズしたのだけど」 「……」 「まだ信じられない?」 「……だって、夢みたいなんだもの」 三橋は弥生に近づき、力強く抱き締める。 「愛してるよ」 「……」 「君は?」 「……大好きよ。愛してるって言葉じゃ足りないくらい」 動きが止まった三橋を、弥生が心配そうに腕の中から見上げる。 「ちょっと待って…。…いきなり素直すぎて、心の準備が……」 顔が真っ赤になっている。 「やだもう!」 弥生がさらに抱きつく。 「婚姻届書くわ……」  「その前に…」 顎をクイと上に上げられ、唇を奪われる。 (昼下がりの会長室で…キスなんて。伊田のこと言えないわね) 微睡みながら、弥生は情熱的なキスを受け入れた。 婚姻届を書き、再びキスをしてから、 会長室を後にする。 「あ、あの!」 柱の陰から、こりすのようなあどけない女の子が出てきた。 「今までありがとうございました。私が…仕事で困ったとき、いつも助けて下さって」 そして、小さなお菓子を手渡される。 「前西さん、俺もその節は…」 今度は若い青年がやってくる。 顔見知りの課長やら係長も、どこからか沸いてくる。 (この子、最初は古橋みたいな奴だったけど、面倒見てやったっけ…。すっかり立派になって…) 「ありがとう」 弥生は心から微笑む。 (今までやってきたことは無駄じゃなかったのね) あっという間に取り囲まれる。 いつのまにか、会長室から三橋も出てきていて、その様子を優しい笑顔で眺めていた。 (やめてよ、泣かせないで) 気合いで涙を押しとどめる。 そして「本当にありがとう、さようなら」とそそくさと輪から抜け出した。 自席に戻ると、古橋がビクッと肩を震わす。 「…さっきの…どうしたんスか?」 「気になる?」 「……すみません。黙って見ちゃって。あれ…本当なんですか?…なんか一時期、常務の母親は前西さんって噂流れましたけど、はは…冗談…ですよね?」 「…健太郎のこと、よろしくね」 古橋はガタッと立ち上がり、椅子から転げ落ちそうになる。 「そうそう、私明日から三橋になるから。もう前西さんって呼んじゃダメよ。って、明日からもういないんだっけね、えへっ」 弥生は1人で頭をペチンと叩く。 「三橋さん? そしたらさっきの婚姻届は…」 古橋は震え声になっている。 「もちろん提出してきたわよ。 だって会長命令だもの」 そして、左手薬指の指輪を見せつける。 「前西さーん!」 呼ぶ声がきこえ、弥生が立ち上がる。 「じゃあね、古橋クン。これから頑張るのよ」 去っていった弥生を見て、古橋は 「本物の魔女じゃんよ…どんな魔法使ったら会長と結婚できんだよ」とつぶやき、椅子から滑り落ちた。 弥生は駆け足で、小林杏菜筆頭にしたミツハシガールズとすれ違った。 皆がみなツンとして挨拶もない。 「今日で最後か、前西のオバサン」 「あ、あのさ…今一瞬すれ違ったとき……左手薬指に指輪してなかった?」 「見間違いでしょ。どこの誰が、あんなオバサンと結婚するわけ?」 「それよりさ、さっき三橋会長見かけたけど、めちゃくちゃカッコ良かったぁー」 「私は息子の方がタイプ~」 ミツハシガールズがワイワイと騒ぎながら、廊下を通っていく。 日常は変わらず過ぎていく…。 弥生自身はいなくなったが、 「かつて魔女がいて…」と古橋経由で前西弥生の都市伝説は語り継がれることになったのだった。 (完)
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