憑依の果てに

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憑依の果てに

 『陽子ー!』 節子の声が響き、陽子は思わず目を向けた。 翔から目を離せばどうなるかぐらいは解っていた。 それでも陽子は嬉しかったのだ。 (お母さんが来てくれた) 其処に節子の姿はなかったが勇気付けられた。 (きっと翼にも届いているはずだ。今のお母さんの声で甦ってくれたら……) 陽子は淡い期待をして、そっと翔を見た。 (お願い翼、もう一度私の元にやって来て……) 翔の中に翼が居ると陽子は信じていた。それは今まで体験した数々の愛によって揺るぎようのない事実だと思えたからだった。 本当は翼に生きていてもらいたかった。今もなお、死んだことを否定したかったのだ。 それでも、それだからつい熱望してしまったのだった。 チャイムが鳴った時、翼が帰って来たと思った。 でもそれが翔だと解って怖じ気付いた。 それでもあてにした。自分が傍にいることが再び翼の心に火が灯る切っ掛けになるかも知れないと…… その声は翔の中に居る翼にも聞こえていた。 そっと目を開けて見る。 翼は其処に陽子の姿を捉えていた。  その時。 「陽子ー! 逃げろー!」 翔が自分にナイフを向けて叫んでいる。 それを目の当たりにした陽子は思わずたじろいだ。 「翼! 翼なの!」 それでも嬉しくなって陽子は声をかけていた。 次の瞬間、翔は自分を刺していた。 「あっー、ダメー!!」 陽子には判っていた。その行為によって何が起きるのかが…… 「翼!」 すぐに陽子は翔の元に走り、落ちていたナイフを遠くに投げて背中から翔の体を抱き締めた。 「翼ありがとう!」 思わずそう呟いた陽子。 解っていた。全て承知していた。 陽子を守ることを優先させた結果なのだ…… それでも陽子は又翼に戻ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。 だから血が付着することも構わずに思いっきり翼にしがみついた。 「あっ!」 その瞬間、陽子は息を詰まらせた。心臓が止まっていたのだ。 「びっくりしないで。だから喋れるんだから。陽子が僕が太陽だと言ってくれたから、だから又自分を取り戻せたんだ」 「そうよ翼、あなたは私の太陽よ」 陽子は翔の体にお腹をくっ付けた。 「あっ! 赤ちゃんが動いた!」 陽子は慌てて、翼の頭を陽子のお腹に移動させた。 「翼! 聞こえる? 行かないでって言ってるの! 聞こえる?」 翼は頷いた。 「陽子。僕はやっと気付いた。長い間探していた答えが解ったんだ」 翼は陽子のお腹に耳をあてて、胎動を感じてようと目を閉じた。  「僕は、自分の産まれて来た意味をずっと探し続けていた。その意味が……。それは陽子と出逢うためだった。そして自分の子供を守るためだった」 翼は苦しいそうに、それでも精一杯強く言った。 「そうよ。私はそんな翼を愛するために産まれて来たの。翼は私のことを太陽だと言ったけど、私には翼が太陽だった。だからこれからも、私を照らし続けてよ」 「陽子が太陽の子だと言ったから、僕は……」 翼は自分の意識だけで翔の目を開かせ、陽子が見えるように首を動かした。 陽子の体と太陽が重なる。 「眩しいなー。お祖父ちゃんの家で見た陽子そのものだ。やっぱり太陽の子供だな……。陽子が何時か話してくれた吉三郎も、子供を残して……。どんなに無念だったか! 今更知るなんて……」 翼は静かに目を閉じた。 「僕は今翼だ。嬉しい! もう一度陽子を愛せて。陽子愛している!」 翼は最大限の力を振り絞って言った。  ゆっくりと…… 陽子を見つめるために、翼はもう一度最期の力をふり絞って目を開けた。 それが精一杯だった。 翔の体は既に息絶えていたのだから…… 翼の本体である翔を刺した時にそのことは自覚していた。 それでも翼は陽子と胎児をを守りたかったのだ。 翼の体勢からではもう陽子の姿は確認出来ない。 それでも翼は、陽子をその目に…… その心に焼けつけたかったのだ。 陽子はハッとして、翼と目を合わせられ体勢をとった。  本の少し前まで、翼は自信を無くしていた。 精神に異常を来していた。 時々自分が誰なのか判らなくなる。 暗闇の中で何時もさ迷っていたのだ。 翼の精神はボロボロになっていたのだった。 でもそれは、翼が翔だったからだ。 時々入れ代わる人格。 それが二重にも三重にも絡み合い、今やっと翼は陽子を愛した実感を取り戻したのだった。 そして今、陽子を通して胎児の鼓動を目の当たりに感じることが出来た。 翼はそれだけで満足していた。 翔を刺した時に、こうなることは解っていた。 それでも陽子を守りたい一心で体が反応していたのだ。 それは翼の陽子への殉愛だったのだ。 (僕は何を勘違いしていたのだろう。僕が翔だったなら、下着を一枚外すなんて出来ないはずなのに……あれはきっとハンカチかなんかだ。そうだよ、親父は陽子に触れてはいなかったんだ。だから……、この子は……間違いなく僕の子だ)  翼は陽子の胎内にいるのが自分の子供だと言うことをハッキリ認識した。 だからその子を守るために、自分の本体だと承知で翔を刺したのだった。 陽子を守るために…… 自分の生きる全てを犠牲にしたのだ。 翔は最期の最後で翼として覚醒したのだった。  「陽子、僕の子供を頼む。陽子のような優しい子供に育ててやってほしい。陽子……僕の太陽」 翼はもう一度陽子を見つめた。 「翔によって気付かされた。陽子は親父に犯されてなんかいなかった。全て翔と僕の妄想だったんだ。ごめん陽子。僕が浅はかだった……」 翼はそれだけ言って、動けなくなった。 (陽子……愛をありがとう。子供を宿してくれてありがとう。その子こそ、僕が生きた証だ。たとえ翔の身体を借りたとしても、その子は紛れもなく僕と陽子の愛の結晶なんだ) 翼は納得したかのように静かに目を綴じた。 翼の腕から…… 体から…… 力が抜けていく…… 「イヤーー!!」 ロープウェイ入口駅の跡地に陽子の悲鳴が渦巻た。 「翼教えて!翼の体は何処にあるの? 何処に行けば逢えるの?」 何も聞こえないのか、翼は黙ったままだった。 陽子は信じていた。 もう一度翼の目が開くことを…… だからその時を待っているのだ。 それでも不安が過る。 だからつい悲鳴を上げてしまったのだった。  『陽子ー!』 節子の声がだんだんと大きくなってくる。 その声で陽子はやっと我に戻って、翼がこと切れていることを確認した。 陽子の目から涙がふき出した。  節子が息を切らせて坂道を駆け上ってくる。 節子は焦っていた。 早く陽子の元に行きたくて気持ちが急いていた。 でもそれが却って行動を制限する羽目になる。 履き物を突っ掛けにしてしまったのだった。 それが歩行の妨げになる。 トイレに入って手紙を見つけた。 一文字一文字確認する。 そしてことの重要性に気付いて慌て出す。 何が何だか解らない。 何をどうしたら良いのか解らない。 とりあえず外へ出て、そのまま電車に乗ってしまったのだった。 靴など選んでる余裕は無かったのだ。  廃止された、三峰神社表参道のロープウェイ大輪駅に向かう道。 其処は全面にレンガを敷き詰めたためゴツゴツしていたのだ。 節子は歩き辛い場所を必死になって登って来たのだった。 この先に陽子がいることだけを信じて。  陽子は次第に冷たくなっていく翔の体を抱き締めながら、それでもまだ翼の声を聞こうとしていた。 それでも翼の死を現実視する自分に気付く。 その度に頭を振る陽子だった。  「陽子ー!」 やっと節子がたどり着く。 「あんたが殺ったの?」 節子は、いの一番にそう言った。 もっと気の利いたことを言いたかったのに。 陽子に抱かれて冷たくなっている翔を見て思わず言ってしまったのだった。 陽子は首を振った。 「殺ったのは翼」 陽子の言葉に節子は首を傾げた。 周りを見ても、翼の姿は何処にもなかった。 翼と翔が双子だと知っていたから出た行動だった。 「翼は翔さんの体の中に住んでいたの」 「何言ってるの。私にも分かるように説明して」 節子は翔を抱いて泣いている陽子の背中から、陽子を抱き締めた。 「純子姉さんから聞いているでしょう? 行方不明の香さんのこと。実は薫さんが香さんで翔さんのお母さんだったの」 「えっ、それじゃあ翼さんは?」 「翼の方が本物の薫さんの子供だったみたい。だから愛されなかったの!!」 陽子は辛そうに吐き捨てた。  ようやく落ち着きを取り戻した陽子は重い口を開き、真実を語り始めた。 孝と薫として生きた香を殺したのは、翔の身体に憑依した翼だった。 合格祝いの宴会の日。 前日から秩父のホテルに宿泊させていた摩耶を爆睡させるために、翔の隙を狙い睡眠薬を飲ませていたのだった。  その後で翼となった翔は、日高家に早朝忍び込んだのだった。 翔はまだ、翼が身体を乗っ取っていることを意識していなかったのだ。 いや、薄々は感付いていたのだ。 だけど、それほどまでに支配されているとは思ってもいなかったのだ。 『親父! いい加減にしろよ!』 陽子が襲われたあの日。一瞬翔に戻って、ベッドで眠っている陽子を見て言った。 背後に感じたのは翔ではない。薫だったのだ。 翔と薫が二階へ上がって来たと思ったのだ。  孝がコーヒーを入れる時、水に拘っているのは知っていた。 いつも今宮神社から汲んでくる龍神水。 あのペットボトルの中に、医師から貰った睡眠薬を崩した作った水溶液を大量に入れておいた。 それは沈殿物で疑われないために濾した物だった。  その後で、中川に出発する一時間前に再び忍び込んだ翼。 居間のカーペットの上に二人を置いて、その上に大きなビニール袋を乗せた。 ビニールの手袋でサバイバルナイフの柄を持ったのも、翔の指紋を消さないためと自分の指紋を付けないためだった。 全てが返り血を浴びないための配慮だったのだ。  そんなことをしなくても翼は翔なのだから、指紋は一緒のはずなのに。 翼はそれすら忘れて…… ただ憎い翔に罪を被せることだけを考えていたのだった。 翔はその時、完全に翼になりきっていた。 二人の人格は、完全に独立していたのだ。 翼は翔の人格を奪いながら、それさえも気付かずに母を独占する翔を憎み続けていたのだった。 穏やかで誰にでも優しい翼。 でもその心は固く閉ざされていた。 翔が翼の人格を産み出したように、翼も又別な人格を宿してしまっていたのだった。 アンビバレンス。 それは翼の孤独と哀しみが作り上げた両面感情だった。 だから翼は別人格にそれらを押し付けていたのだ。 母を愛していけるように…… 祖父に甘えて生きられるように……  ビニール袋の端を少し上げナイフを振り下ろす。 二人共即死のはずだった。 その上から用意してきたアルミシートを幾重にも被せた 軽くて暖かい、キャンプ用のシートは足の付かないように東京の量販店で少しずつ購入した物だった。 アルミシートは体の熱を逃がさないだろう。 その上軽く後処分も楽だった。 この時、翼はあくまでも翼だった。 これが…… 自分が翔だとも気付かず、翔を犯人に仕立て上げようとする哀しい翼の出した答えだったのだ。  中川の帰りにアルミシートとビニール袋を回収するために再び日高家に侵入した翼。 これで完全犯罪が成立するはずだった。 実は陽子は何も知らされていなかった。 ただ車で待機していただけだったのだ。 それは…… 陽子のことを思い図った翼からの愛だった。  でも翼は戸惑った。 節子と貞夫がお膳立てしてくれた東大の合格祝い。 それをアリバイにしようとしたことを。 勝との思い出の品を汚してしまったことを。  勝が買ってくれたアルミシート。 でも翼はこれ以上の素材を知らない。 翼はもがき苦しみ抜いた。 それでも憎しみがそれを上回り、結局使ってしまったのだった。 「此処に居るのが翔さんなら、私が会ったのはやはりそうだっのかも知れない」 節子は実家を訪ねて来た翼だと思っていた人物に不信を抱いていた。 翼は何時も自分のことを僕と言っていた。 でもあの日、その人は俺だと言った。 節子が気付くと、本音が出たと言ってはいた。  でも節子は何か違うモノを感じていたのだった。 それでも、匂いは同じだった。 一途に婿をと願った翼と同じ匂いだったのだ。 『今度二人で三峰神社に行こうと思っているのです』 節子は翔が帰りがけに言った言葉を思い出した。 『あらっ、陽子は嫌がりますよ。噂を気にしていましたから』 (そうだ!? 私が言ったから此処を……。ああー!? 私ったらなんてことを)  節子は翔を知らない。 勝の話の中の翔しか知らない。 母親に溺愛され、翼を蔑ろにする翔しか知らない。 でも本物の翔は翼と変わりはなかった。 優しい翼そのものだったのだ。  「陽子……、何時までも此処でこうして居られないから警察に連絡するけど、いい?」 節子の言葉に陽子は頷いた。  警察官が到着したのは暫くしてからだった。 「全く今日は忙しい日だ。上町の日高って家で遺体が見つかって」 来る早々愚痴をこぼす警察官。 「えっ!? 今なんて?」 節子が聞き直す。 「だから日高って家で遺体が」 「えっ!? 翼!? 翼の遺体が……」 陽子はフラフラと立ち上がり、坂道を走り始めた。  「誰か! そいつを捕まえろ!!」 警察官の声が響く。 下から上がって来た警察官が陽子の身柄を確保した。 「行かせて! 翼が私を待ってる!」 陽子は激しい抵抗を繰り返していた。 見かねた警察官が、陽子の身柄を拘束した。  パトカーで日高家に到着した陽子は震えて泣いている摩耶を抱き締めた。 二人でこの現実を直視しなければいけないと思った陽子は、摩耶を連れて現場に立っていた。  腐乱状態だったが、しっかり形の残る翼の遺体。 でも…… それは、子供だった。 そしてそれは強烈な臭いを放っていた。 所謂…… 遺体の腐敗臭だった。 でも陽子はそれに翼の生きていた証しを感じていた。  あの時植木屋の見つけたのは、この子供の小さな指先だったのだ。 それは紛れも無く翼の遺体だった。 「白骨化した遺体の手に手を重ねていたそうです」 刑事が節子に言った。 「生きたまま埋められたのですか!?」 節子が聞く。 「いやはや解らん。娘さんの話だと、行方不明になったのは二カ月程前からだと」 「そう聞いてます」 節子は陽子の様子を伺いなから話していた。 「翔さんの結婚式の時、殺されていると実感したの」 やっと陽子が口を開いた。 「そりゃおかしいわ。この遺体どう見ても……、それに子供だ」 刑事は首を傾げた。  陽子は不思議だった。 あの日。 確かに翼と翔の会話を聴いた。 コーヒーを置いた後、おからクッキーを取りに戻った時に…… 『陽子のコーヒーが美味しい』 って。 確かにそう言われた。 でもカップの中のコーヒーは手付かずだった…… あれは翼の妄想。 幻覚…… (翼は一体誰? 翔さんだったの? でも……翼だと、信じたい!) そう…… 陽子が愛したのは、翼だったのだから。 紛れもなく、翼本人だったのだから。 陽子は子供の翼の遺体を見つめながら、ただ祈っていた。 やっと出会えた母親に思いっ切り甘えてほしくて。 (翼はきっとガラス戸に映る自分の幻影に翔さんを重ねていたのね。何時もお姉さんがピカピカに磨いてくれていたから……) ふと、そう思った。 それはまるでドッペルゲンガー。きっと翼にははっきりと翔が見えていたのだろう。 (それとも幽体離脱? きっと翔さんは何時も翼を俯瞰していた) 『きっと翔が飛び立つための名前だと思う。翔はきっとさっきの白鷺のように、僕のことを俯瞰しているのだろう』 陽子は不意に翼の言葉を思い出し、その意味の深さに気付いた。翼は常に翔の幻影を身近に感じていたのだろう。だから自分が映る物全てに語りかけたのだろう。  誰の目にも子供に写る翼の遺体。 でも陽子は、その熱い心を感じとっていた。 翔の体を借りて陽子を愛し守り抜く。 それでも自分の体は愛しい母を追い求める。 悲しい翼がいた。  『ねえ翼、賽の河原って知ってる?』 『名前だけなら……』 『私も良く知らないんだけどね。亡くなった子供達が賽の河原で親を思いながら石を積むと、鬼が出て来て壊すんだって。その子供達を守っているのが地蔵菩薩なんだって』 その話を聞いて一心不乱に祈りを捧げた翼。 陽子はふいにあの場面を思い出した。 (翼は子供の時に亡くなっていた。だから地蔵菩薩に救いを求めたのだろうか? だからあの涅槃像……。翼の心が泣いたのは、自分も守られたかったからなのだろうか?) 陽子は翼の精神を受け入れた、本当は優しい翔に感謝していた。 翼は柿の実事件の時気を失い、母の手により死に追いやられていたのだった。  でも翔は自分が隠した翼のその後を知らない。 その時翔は母のために翼を演じていた。 だから気付かなかったのだ。  翔に憑依した翼。 でも翔はそれに気付かない。 翔は翼を演じていたから、居なくなったことをかえって助かったと思っていたのだった。 最初は意識的だった。 でも翔は次第に翼になっていた。 姿見に映った翔を自分だと勘違いした翼の魂が、翔の精神を奪ってしまったからだった。 そして薫は、自分のための演技ではないことに気付く。 だから翼を恨んだのだった。 だから尚更キツく当たったのだった。 でもそれすら忘れて、翔は翼として生きてしまったのだった。  翼の魂をそれとは知らず受け入れてしまった翔。 そんな息子を心配した薫は一計を講じた。 翔を私立学校に入学させたのだった。 公立では不登校児が騒がれていた。 その対策としてのフリースクールも沢山出来ていた。 翼がそうだとしても問題は無い。 薫はそう考えていたのだった。 でも翔は翼になった。 翼のままで生きていた。 まるで、薫をあざ笑うかのように…… 翼は自分の意思で市内の高等学校に通い、常にトップクラスの優等生になったのだった。 翔は本当は何処にも通っていなかった。 翔は翼になりきっていたから、通学出来なかったのだ。 時々自分を取り戻し……それでもすぐに翼となってしまう翔。 だから尚更翼を恨んだのだった。  本来の意識を取り戻した翔は東大に合格した。 その名前がどちらなのか解らない。 だけど薫にはどちらでも良かったのだ。 高を括ったのだ。 合格したのは翔だと、思うようにしたのだった。 薫は考えた。 翼として、大学に通っても問題はない。 と――。 やっとそう思えてきたのだった。 翼は翔から、肉体も精神も奪っていたのだった。 それは…… 母である薫と堀内家の人達を愛するためだった。 翼の心は大樹のような慈愛に溢れていたのだった。  翔が翼に憑依されて生きていても、薫として生きて来た香にとって翔は翔だったのだ。 愛する孝との間に授けられた、一人息子の翔だったのだ。 誤って殺害した薫。 その一人息子を自分の息子が殺してしまったと言う過酷な運命。香は翼を殺したのが翔だと思っていたのだ。 そんな愛憎の渦に巻き込まれながらも、孝だけを愛した香。 その生き様は殉愛そのものだった。 陽子や摩耶のように、夫を激しく愛しながら生きていたのだった。  陽子は何気なくポケットに手を入れた。 その瞬間レコーダーのスイッチが入った。 『陽子ー! 逃げろー!』 翼の声が響きわたった。 陽子は地面に突っ伏し、激しく泣きじゃくった 。 「そうよ。翼は今まで生きていた! 私を守るために生きていた!」 陽子は渾身の気持ちを込めて激しく地面を叩いた。 節子は陽子を見守るしかない自分を責めながら、抱き抱えていた。  この異様な光景を、愛の深さ故だとマスコミは報道した。 警察は陽子が、姑による睡眠薬強姦事件の被害者だという事実を隠した。 これ以上マスコミの晒し者にさせたくなかった。 この事件の一番の被害者は陽子なのだから。  「お母さん。私この子を優しい子供に育てたい。翼に負けない位優しい子供に」 ようやく立ち上がることの出来た陽子は節子の手を握り締めた。 陽子が翼の大きな愛によって生かされたように、自分も負けない位大きな愛を産まれてき来る我が子に捧げようと思った。 翼が運命だと言った自分との出会い。 この子にもそんな日が訪れることを思いつつ、陽子は小さな翼に手を合わせた。 『お前が憎い! 翼を変えたお前が憎い! 努力もしないで出来る奴を焚きつけやがって!』 翔は確かにそう言った。 でも翔は気付いていたはずだ。 自分自身が翼なのだと。 ただ、認めなくなかったのだ。 愛する妻の摩耶以外の女性とのふれあいの全てを。  「この子が翼だって!?」 事件を聞いて駆け込んで来た忍が叫んだ。 「私達の家にいた翼は一体誰だったの!?」 純子も嘆いていた。 「翔さんだったみたい」 節子はやっとそれだけ言った。 節子は匂いを感じていた。 あの日、一人で訪ねて来てくれたのが翔ではなかったことを。 翼を演じた翔であっても、節子には翼だったのだ。 「陽子。此処は私達に任せて摩耶さんの所へ行ってあげて……。何かが判るかも知れないから」 純子が諭すように言った。  節子は陽子をパトカーまで送り届けた後で又現場へとやって来た。 何も知らずに狼狽える娘夫婦に、現実を伝えなければいけないと思ったからだった。 とは言っても節子自信も半信半疑のままだったのだけど…… 節子には本当に解らなかった。 気付かなかった。 翼と翔が…… それは同じ…… 翔が翼と同じ匂いだったから……  (当たり前か。翔さんが、翼さんを演じていたんだから) そう思う。 (違う!! 翼さんは翼さんよ。翔さんであるはずがない) でも、本音は…… そう、二人が同一の体を支配するために戦っていた事実を黙認するしかなかったのだ。 一途に翼を愛してた。 もしかしたら娘の陽子と純子より深く…… 息子より大胆に…… 節子は本気で翼を婿に迎えるつもりだったのだ。  勝から聞いて想像していた。 母親から愛されない翼と言う存在を。 だから余計に惚れ込んだのかも知れない。 だから可愛くて、可哀想でならなかったのだ。  「そう言えば、翼さんと翔さんが二人で居るところを見たことがなかったわ」 「翔が狂うはすだ。薫姉さんのために頑張ったんだから……、翔、偉かったな」 忍はそう言いながら、傍の白骨化した遺体を見つめた。 「これが、行方不明になっていた香姉さん?」 そう呟いた後、忍はあの柿の実事件を思い出していた。 『お父さん何てこと言うの。翔がやるわけないじゃないの。翼よ。翼に決まってる!翼、翔に謝りなさい!』 薫の手が翼の襟を掴む。 翼は抵抗する。 その瞬間。 薫の手が外れ、バランスを崩した翼は後頭部を石にぶつけた。 (そうか!? あの時翼は死んでしまっていたのか? だから翔は……) 忍は翔が全てを背負ったのだと思った。 「陽子の話だと、この骨は薫さんのらしいわ」 「えっ!?」 「香さんも、薫さんを演じていたみたいよ」 節子は辛そうに言った。  「忍さん、一つ聞いても構わない? 白いチューリップのことを翼さんが気にしていたらしいから」 「白いチューリップ? あぁ確か親父も気にしていたな……」 「ねぇ、忍さん。それは香さんが好きな花でしたわね。薫さんは何がお好きだったのですか?」 「親父から聞いたことがあります。薫姉さんは確か忍冬だったかな? 俺が忍だから尚更らしいです」 「忍冬? そうよね。あの花は一ヵ所に二つ咲くからね」 節子はそう言いながら、初夏に甘い香りを放つその花を思い浮かべていた。  忍冬……スイカヅラともニントウとも言う。 四月の終わる頃蔦の先端に二つ蕾が出来、それが長く伸びて花になる。 友愛や絆の証しとして、薫はこの花が好きだったようだ それは薫が双子だったからだと節子は思った。 薫と香は、勝自慢の仲良し姉妹だったのだ。  「あっ、あれは……」 何気に薫の遺体の先を見て節子は驚いた。 そこには、忍冬が一面に蔓延っていたからだ。 (香さん。その優しさを翼さんにも与えてほしかった……。何もこんな姿で放置しなくても……) 香が翼の遺体を此処に遺棄することは出来ないことは百も承知だ。 それでも、翼をこんな姿に変えた張本人だと思っていたのだった。 節子は強烈な臭いを翼が生きてきた証しだと感じて、その場から動けずにいた。 出来ることなら、この胸に抱き上げてやりたいと思っていたのだ。  全てが翔の妄想、錯覚、幻覚だった。 翔は翼として覚醒していたのだ。 その事実を薫は知っていた。 だから疎ましかったのだ。 死して尚苦しめる翼と言う存在が。 だから、翔を…… 翼として生きていない時の翔を溺愛したのだった。 もう二度も翼に戻ってほしくないと願いながら。 忍は、健気に生きた翔を迎えに行かなければならないと思った。 それでも、小さな翼を見守りたいとも思っていた。  でもきっと翔は…… 翼の存在した事実まで消そうとしていた。 苦しみから逃れるために…… 母ではない。 もう一人の人格が翼を殺した。 いや翼自体存在すらしていない。 そう思い込もうとしたのだろう。 出来るはずがないと解っていながら…… そして又翔の中に別な人格が生まれていく。 翼はその新たな人格によって、再び魂を翔の中に挿入する可能になったのだった。 翔に残った僅かな優しさによって。 死に赴く瞬間に取り戻せた人格。 翼は陽子の存在によって産まれて来た意味を知った。 だから翼は、母の手を取ることが出来だのだろう。 翔はきっと翼の魂を返したくて、母の傍に遺体を埋めてあげたのだろう。 忍はそう思うことにした。 全ては翔の優しさだったのだろうと…… 翼の魂を憑依させたのがその証拠だと思うことにした。 憑依の果てに翔が見た物とは一体なんだったのだろうか? 忍はこの二人の生き様を胸の奥にぎざみつけた。 そして翼のように一途に純子を愛そうと思った。 この愛の全てをかけて……  翼を忍に預けて、陽子は三峰ロープウェイ大輪駅跡地に向かっていた。 (この子の父親は、きっと翔さんなのね。本当は優しい人だったのに……。いいえ違う。やはり翼よ。翼が父親よ) 陽子はまだ、現実を受け入れられない自分に心の中では気付いていた。  初めて翔に会った合格発表の日。 (わー!! 初めて見たわ翔さん。みんなの言う通りそっくりね) 陽子が見ている事に気付いた翔は、鋭い眼孔を陽子に向けた。 ――ゾクッ!! 陽子は背中に寒気を覚えていた。 (そうよ! あの人が翔さんよ! 悪いけど翼とは全然違う!) 陽子は本当は信じたくなかったのだ。 摩耶の夫の翔が翼である可能性が高い事実を。  勝の病室で翼と過ごした付き添いのベッドの中から陽子は翼を見ていた。 翼から翔に戻った瞬間をそれとは知らずに目撃してしまったのだ。 『じっちゃん又来るね』 翼は確かにそう言った。 その時覚えた違和感。 それが現実のものになろうとは…… 陽子はただただ震えていた。 (あれは翼ではなかったの? シャワールームでお互いの愛を確かめた翌日に翼では無くなっていたの?) 指で唇を触ると、あの日のキスがよみがえる。 『陽子が悪いんだ』 そう言いながら、優しくキスをされ陽子は翼に身を委ねた。  最初は軽いキスが、息継ぎの度に愛の言葉を囁かれ何度も戻ってくる。 その度キスは次第に深くなり陽子は翼との愛の行為に溺れていた。 (イヤだ!! 翼は翼よ。翔さんである訳がない!!) 翼の遺体を見た以上、否定できない真実がある。 それでも陽子は心は心の中で叫んでいた。  そんな時陽子は、翼と見た数々の大樹を思い出した。 西善寺のコミネモミジ…… 清雲寺の枝垂れ桜…… 今宮神社の駒つなぎの欅…… それらに見入った翼。 でも陽子は、大樹と言う言葉が一番合うのは翼だと思った。 そして、翼こそ自分を照らしてくれた太陽その物だと思った。 翼は自分の全てだったと。 その時陽子は思い出した。 清雲寺の枝垂れ桜を見ていた翼に翼があった日のことを。 その姿を見て陽子はハットした。 (翼がある!!) 陽子はその時確かに翼の背中に羽のような物を確かに見たのだ。 (翼……) 陽子はその時又俯瞰と言う言葉を思い出した。 (翼……あなたの名前は翔さんのためじゃないわ。きっとお母様が一番相応しい名前を付けてくれたのよ) 確かにあの時はそう思った。 でも今考えると少し違うように思えた。 子供の頃に亡くなった翼はきっと天使かキューピットになったのだ。 でも、それすら忘れていたのだ。 愛されたいと一心に願いながらも、叶わなかったために。  (翼……もう少し早く出逢っていれば良かったね。そうすればこんな辛い思いをしなくて済んだのかも知れないね)  魂を翼自身に返そうとして、遺体を埋めた翔。 そのために追い出そうとしたのだろうか? だから三峰神社に向かったのだろうか? 翔は知らなかったのだ。三峰神社が本当は縁結びのパワースポットだと言うことを。 (お母さんは何も悪くない。みんな私が気にし過ぎていたからなのね。お母さんごめんなさい) 陽子は気付いていた。 節子が翔にうっかり話してしまったのではないのかと。  翔は翼の遺体を探していた。 自分が殺したはずの分身を探し回ってていた。 そして冷凍庫で真空パックされている翼を見つけたのだ。 (きっと母がやったんだ) 翔はそう考えた。 その途端、現実に引き戻されたのではないのだろうか? その遺体が子供だったからだ。 柿の実事件の後で、覆い被せた記憶がよみがえる。 二人はそれぞれが翼を殺したと思い込んだのだ。 臭いを漏らさないために薫の取った手段とは、布団用の圧縮袋で密封することだったのだ。 アイロンで口を塞ぐ方式から、スライド式に変わったので扱いが楽になったからだった。 翔は子供の頃、その中に入って遊んだ経験があった。 だから、薫が思い付いたのだろう。  記憶が蘇った時…… 翔は優しい男に戻っていたのだろうか? もしかしたら翔が翼の手を母の手に…… でも翼は凍りついていたはず? やはり翼は自ら手を伸ばしだのだろう。 やっと巡り会えた愛しい母の手に自分の手を添えるために。  摩耶は遺体確認の為に、先に三峰神戸行きロープウェイ大輪駅跡地に行っていた。 摩耶は考えていた。 自分が愛したのは翔だったのだと。 遺体は一体誰なのだろう? 翔? それとも翼さん? 答えなど出るはずはない。 母親が双子で、父親が一緒なら、DNAだって一緒になるかも知れない。 翼と翔は紛れもなく、兄弟だったのだから。 異母兄弟だったのだから。 双子だと思っていた。 だから会ったことのない翼を色々と想像した。  でもまさか…… 翔が二人分を生きていたなんて思いもしなかった。 優しかった翔だから、きっと陽子さんにも優しかったはず…… そう思いながら摩耶は身を焦がした。 嫉妬やヤキモチとは違う。 それは陽子に対する同情と慈しみだった。 摩耶は陽子のことを、愛しいと思うようになっていたのだった。  閉鎖された三峰神社行きロープウェイ大輪駅は撤去され、今はコンクリートの枠組みだけ残している。 摩耶は半狂乱の状態で翔と対面していた。 無理はなかった。昼の翼の遺体発見等で精神は混濁していた。 翼に支配され、自分を刺した翔。 それでも穏やかな表情だった。 「翔は本当は優しい人でした。だから翼さんの人格を受け入れてしまったのではないでしょうか」 翔の体の中に翼の魂が宿っていた。と言う信じがたい事実を警察から告げられ、摩耶はやっとそれだけ言った。  生き急いだ翔。 愛する人を守るため戦った翼。 突っ走ってしまった二人の肉体と精神。 自分を見失い。忘我の末に辿り着いた境地。 子供の頃、翼の殺害現場を目撃してしまったという現実。 忘れるために…… 母を守るために…… その魂を受け入れて、自ら翼を演じてしまった翔。 それは、失意の果てに辿り着いた翔の生き様だった。 でも…… 翔自体忘れていたことがあった。 それは、あの柿の事件の後のことだった。 薫が手を離した時、翼は石に頭を打ち付けて死んでしまった。 その事実を…… 翔は、薫が翼を殺した事実を封印してしまったのだった。 全ては母のために……翼が勝のために翔の身体を奪ったように、翔も母のためにその犯罪を無き物にしようとしていたのだった。 だから翔は、翼の魂を受け入れてしまったのだった。  全ては母を殺人者にしないためだった。 だから翔は翼の遺体を隠したのだった。 勝の前で翼を演じる。 あの赤穂浪士の話を聴いていたのは翔だったのだ。 二人分の人生を生きて来なければいけなった翔。 その苦しみから逃れるために…… 翔は知らず知らず多重人格になって行ったのだった。 主人格が翼だとも気付かずに、時々正気に戻る。 恨みつらみを言いたい。 でも翼は何処にも居ない。 気持ちだけが空回りする。 その果てに…… 翔は自分の中に居る翼の人格に気付いたのだった。 そして翔は、翼が死んだ事実さえも封印してしまっていたことにやっと気付いたのだった。  「分かります。でも翼さんだけではないと思います」 摩耶は震えながら翔を見つめた。 「優しかったり、激しかったり、翔は寂しかったんだと思います。だから受け入れてしまうのかな?」 摩耶は血潮の上で夜叉となった翔に抱かれたことを悪夢のように思い出していた。  あの時摩耶は妊娠したばかりだった。 だから流産してしまうことを怖れたのだ。 摩耶は自分のお腹に手を当てて授かった生命が無事なことを確認しながら、この子を立派に育てようと強く思っていた。  「お義父様もお義母様もきっと翔の体に。そうでいとあの激しさは」 摩耶は泣いていた。 でも摩耶に迷いはなかった。 たとえ誰に憑依されたとしても、翔は確かに自分を愛してくれた。 その真実を胸の奥に刻んだ。  翔もまた被害者だったのではないか? 偶然の悪戯がもたらした運命の。 摩耶はただ翔を信じ愛してきた。決して財産目当てなどではなかった。 翔の分まで生きるために、そして翼の分まで勉強するために。 子供が産まれたらまた学生に戻ると摩耶は言った。 それが二人の供養になると信じていたのだ。 摩耶もまた陽子に負けない位翔を愛していた。 摩耶は翔と暮らし始めた事件のあった家で暮らすことが一番の供養になることを感じていた。 陽子は摩耶の決断に意を唱え反対した。  いくら翔と翼の供養のためだと言っても、日高家は殺人事件の現場なのだ。 それも翔の愛する母を弟である翼が殺し…… その翼を兄である翔が殺した。  そして…… 香に殺された薫が埋められ、孝を狂わせた庭。 優しいかった孝に狂気を植え付けた庭。 庭の片隅で愛する薫を思い、愛して行かなければならない香を思う。 その過酷な運命を何度も呪い、睡眠薬強姦魔へと導いた庭。 そして何より愛する夫が妄想で弟を殺し…… 見つけ出した遺体を埋めた庭。 自ら選んだ南天が暴いてしまった真実。 それと向き合わなければならない現実。 摩耶に耐えることが出来るのだろうか? ここで悪夢と戦いながら本当に暮らしていけるのか? 陽子は摩耶が心配だった。 そして初めて摩耶を愛しいと思った。  産まれて来る子供のために陽子が出来ること。 自分の職場である保育園で預かること。 陽子は摩耶をサポートしたいと考えていた。 過酷な運命を自分と分かち合うことが出来たなら、少しは支えられるかもしれない。 それが自分が死に追いやった翔への供養になるのかもしれない。 翔の体から翼を呼び覚ましたのは確かに自分なのだから。 そう思った時陽子は、この家に住むことを考え始めていた。 翼の運命を変えた、過去と戦うために。  翔から優しさを奪った現実と戦うために。 そして産まれて来る、二人の子供のために。 そう思った時、答えは決まった。 やはり自分もこの家に住み、この家で生活して行こうと。 二人で互いを支え合う。 出来るか出来ないか解らない。 それでも遣ってみる価値はあると思った。 でも恐ろしい…… 怖くて仕方ない。 それでも立ち上がらなければいけない。 二人は同士になるべきなのだと思った。 それが偽装双子として運命づけられた、翼と翔の魂を癒せる一番の方法ではないのだろうか?  でもその前に遣らなけばいけないことがあった。 それは、翼の死と向き合うことだった。  翼の遺体は解剖の結果、凍死だと判断された。 カフェの奥の奥の冷凍庫で殺されたのだった。 陽子は翼の押し込められていた冷凍庫を見せてもらうことにした。 (翼の心を癒やすためには見ないと何も始まらない!) そう決意したからだった。 寒すぎる冷蔵庫。 更にその奥にある冷凍庫。 それはどうやら、香専用の業務用小型冷凍庫のようだった。 陽子は暫くその場に立ち尽くしていた。 (何だろう!? 見たことがある!) それが何処なのか陽子はすぐに思いあたった。 「ああだからなのね。だからあんなに……」 それは…… コミネモミジのお寺の涅槃像。 あの下にあった四角い無縁仏だと思われたお墓…… 「あのお墓と同じ……」 陽子はあの日。 翼の心が泣いていたことを思い出した。 「翼ー!!」 陽子は其処から動けなくなった。 見かねた節子と純子が駆けつけてくるまで、陽子は冷たい床に突っ伏したままで泣いていた。  そして陽子は思い出す。 勝と行った西善寺のコミネモミジを。 光の中から現れた翼を…… 涅槃像に熱心に合掌していた翼を…… 翼は自分が本当は死んでいる事実に気付いていたのだろうか? だからお釈迦様に頼ったのだろうか? 自分の死に場所が、同じような形だと知っていたのだろうか? 圧縮パックの中の、僅かに残った空気で呼吸をしながら凍死していった翼。 でも翼は生きたいと願ったはすだ。 だから自分の振りをして勝の話を聴く翔に自らの意志で憑依したのだ。 薫の振りをした香はきっと、自分への罰だと思ったのかも知れない。 それだけど、それゆえに翔だけを愛したのだ。  そう思った時…… 陽子が何時も疑問に思っていた謎が解き明かされと感じた。 何故翔のことしか言わないのだろう? それは、翔しか居ないからだった。 そう、翼はとっくに殺されていたのだ。 だから話せなかったのだ。 疑われないように取り繕いたくても、目の前には翼に支配されている翔しか居ないのだ。 それがどんなに香を傷付けていたのかは知るよしもない。 それでも陽子はそれを香の苦しみだと感じていた。  翼の秘密基地に陽子と摩耶が立っていた。 それぞれの胸には産まれて来た子供が抱かれいた。 陽子と摩耶は走ってくる電車を見ながら、人の痛みが分かる子供に育てようと誓い合っていた。 地面にしっかりと立って、根が張れる子供。 何時か二人で行った、コミネモミジのような子供。 陽子はこの子供達のために、太陽のようになりたいと思った。 大樹と言う言葉が一番合う翼のためにも、翼の心を翼自身に返そうとして遺体を埋めた翔のためにも。 憑依の果てに翼が見たものは…… 家族の優しさだった。 勝・忍・純子の愛だった。 そして何よりも…… 陽子の殉愛だった。 殉愛とは身命をかけて信じた愛に従うこと。 そう…… 陽子はそれほどまでに翼を愛していたのだった。 翔だと知らずに一途に愛を捧げたのだった。 陽子と摩耶に抱かれた子供達は、異母兄弟になる。 でも二人の元ならきっと、大樹のような子供達に育って行くだろ。  「摩耶さん。翼のお母さんの好きだった花は忍冬なんだって」 「あっ、それで……。遺体のあった近くで見ました。きっと慰霊のためだったのかな? 実は私も大好きなんです」 「私も好きよ。だから忍冬の花言葉のように支え合って暮らして行きましょうね」 陽子は囁いた。 薫を思って香が植えた忍冬は、直に甘い香を放つだろう。 四月から学業に復帰する摩耶と、本格的に保育士の道を目指す陽子。 床の上の正座にも、絵本の読み聞かせにも馴れた。 でも陽子は馴れないことがあった。 それは隣に翼が居ないこと…… 陽子は未だに翼を愛していた。  母のために翼になりきろうとした翔と、翔を自分だと勘違いした翼。 二人の精神はシンクロし、気付かないままに大人になった。 翼の愛した陽子と翔の愛した摩耶。 二人は何時までも翼の秘密基地で通り過ぎて行く列車を眺めていた。 完
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