序章

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序章

 西武秩父線、横瀬駅。 【西武池袋線は吾野駅までの総称で、それより先は西武秩父線と言います。】 線路の見える脇の小道を、女性が走っている。 「良かったー。間に合ったー!」 堀内香(ほりうちかおり)は駅構内に電車のないことを確かめながら小さくガッツポーズをとった。 ホームには、大勢の人が電車の到着するのを今や遅しと待っていた。 四、五段ある階段を駆け上りながら駅前にある《いちご刈り》の幟に軽くタッチする。 それほど今度入って来る電車に間に合ったことが嬉しかったのだ。 香は定期券を軽く改札口にタッチした後、足早にホームに向かった。 【西武秩父線では平成六年より自動改札機での運営を開始した】 ゼーゼーと息を切らした後で、苦しそうな表情は一変する。 西武秩父駅方面に目をやりながら、今度はそわそわと上り電車の到着を待つ。 その表情にはうっすらと笑みが溢れていた。  香はこの駅から徒歩十分ほど行った場所にある、秩父札所九番・明智寺の近くに住んでいた。 香には薫(かおる)と言う双子の姉と、五歳年の離れた忍(しのぶ)と言う弟がいた。 香は今日、西武秩父駅方面ばかりを気にして落ち着きを欠いていた。 実は昨日。 同時刻の電車で気になる人に遭遇してしまったからだった。  ほぼ満員の車内。 香だけに注がれた視線。 そうまるで、痴漢する獲物でも物色するかのような熱い凝視。 最初は気持ち悪かった。 背筋がゾォーっとして、虫唾が走り悪寒がする。 息が出来なくなり恐怖すら感じる。 でも不思議なことに、それが何時しか快感へと変わる。 相手が気になり引き込まれ、何時の間にか自分も凝視していた。 西武秩父駅と横瀬駅の真ん中あたりにある羊山公園の桜が散り、八重桜に代わる頃のことだった。 香はこの月の一日から、西武鉄道沿線の飯能駅近くの銀行で働いていた。  約一時間。 通勤電車がエロス空間に変わる。 香は悶え苦しみながら、その視線の相手である日高孝(ひだかたかし)を見つめ返した。 横瀬駅から吾野駅まではトンネルだらけだった。 その度に明と暗を繰り返す車内。 何とも言えない、独特の通過音。 トンネルに入る度身が縮む香。 それでも凝視を止められない…… 何処かで会ったことがある人なのか? それとも、ただからかうだけが目的なのな? 本当なら恥ずかしがり屋の自分。 何故こんなに真っ直ぐに見つめ返せるのかも不思議だった。  孝は東京にある大学の三期生で、池袋駅の少し手前にある江古田駅近くに下宿していた。 昨日は父親の看病で秩父の実家に泊まり、直接大学へ通うために乗車していたのだった。 父親は孝の実兄と二人暮らしだった。 母親を早くに亡くした兄弟はとても仲良く、父親思いの息子達だと有名だった。 そんな二人もそれぞれの都合があって、父親の面倒は交互に診ると決めていた。 少しだけでも、出来るだけ傍に居たい。 孝はそう思っていた。 だから孝は毎土日、秩父へ帰っていたのだった。 香と孝の出会い。 それは正に運命の悪戯だった。 実は孝は、香の双子の姉・薫の高校時代の部活の先輩だったのだ。  そうとも知らず香は乗り込んだ電車の中で孝を探し求めた。 あのエロスに満ちた視線がどうしても忘れられなかった。 何故なのだか香にも解らない。 ただひたすらあの視線が恋しかった。 西武秩父駅の改札口で待ち伏せしたくて、早く起きて逆方面に乗り込もうかとも考えた。 ホンの一つ先に位置していた西武秩父駅。 でも一駅と言えどかなりの距離があった。 だから、バスで行くことも考えた。 あれこれと悩みながら朝になって、結局横瀬駅から乗る羽目になったのだった。 ジタバタしていた。 そんなことをして嫌われないかと心配していた。 だから…… かえって焦った。 そして時間に追われ、走れるしか手がなくなってしまったのだった。  毎日毎日香は孝を探し続けた。 半ば半狂乱。 それは香自身が一番解っていた。 何故一度しか遭っていない人がこんなにも気になるのだろうか? 香はその答えを知りたくて来る日も来る日も待った。 人見知りで恥ずかしがり屋の自分が、真っ直ぐに見つめられる相手が乗っている電車を。 そしてそれは、自分だけを見つめている人がいると言う悦楽に繋がっていく。 そして一週間後。 二人は互いの視線を絡ませあった。 一週間に一度の逢瀬。 言葉を交わす訳でもない、二人だけの時間。 やっと見つけ出し時の安堵感。 再び凝視される喜び。 熱い熱い凝視は、自分への愛だと香は受け止めた。 香の心の奥に刻まれる。 永い永い一週間が地獄となり、より深い愛を育む揺りかごとなった。 それはもう後戻りの出来ない激しい恋路の始まりだった。 孝も、この可愛い香を大好きになった。 でも、孝は勘違いをしていた。 香を後輩の薫だと思い込んでいたのだった。  薫と孝は高校時代の一時期交際をしていた。 電車内でのハプニングが元で二人は知り合っていたのだった。 孝の持っていたテニスラケットが薫のお尻に当たり、痴漢と間違えられた。 それが始まりだった。 薫に睨み付けられた孝。 全く身に覚えがないから言いがかりだと思った。 でも必死に言い訳をした。 傍にいた同級生に勘違いされたくなかったのだ。 最初は汚い物でも見ているような態度だった薫。 でも孝の手が遠くにあったことを知る。 痴漢など出来るはずがないと、薫はやっと納得した。 て、ゆうか…… 薫は表情を変えたのだ。 孝の甘いマスクに心がトキメク。 髪はスポーツ刈りだったので、余計に爽やかに見えた。 瞬きする度に揺れる、付け睫でも施してあるような瞼。 汚れを知らないような深い色をした瞳に釘付けになった。 薫は孝に恋をしてしまったのだった。 薫はその時、ラケットの入っていたスポーツバッグに付いていた高校のマークを見逃さなかった。 だから薫はその高校へ入学したのだった。 それは、薫にとっての初恋だったのだ。  孝は大学で建築学を専攻していた。 父親はアパートなどの不動産を沢山所持する資産家だった。 だから少しでも役に立ちたいと思って大学に入ったのだった。 でもそれは誰にも内緒にしていた。 驚かせたかった。 喜んでもらいたかった。 大学の卒業が決まる年。 孝の父親が長い闘病生活の末に亡くなった。 兄は悲しみにくれながらも気丈に喪主を務めあげた。 孝はそんな兄を影から支えた。 母親を幼い時に亡くしていた兄弟に、父は財産分与の遺言を残していた。 アパートなどの不動産を相続した孝は、働かなくても食べていけるようになった。  大学時代に形だけ就職活動もしていたが、父親が長くない事実を知り止めていた。 少しでも傍にいて親孝行をしたいと思ったのだ。 そうすることで、孝は莫大な財産を受け取ることが出来たのだった。 でもそれが目的ではないのは兄が理解していた。 孝の大学専攻の本当の目的が、父のためだと言う話も聞いていた。 リフォームの技術を身に付けたら、父に打ち明けようとしていたことも。 孝の心意気は確かに兄にも伝わっていた。 だから何も言わず、遺言書に従ったのだった。  孝は一生懸命だった。 本気で、薫との結婚を夢に描いていた。 そのために上町にあるオンボロのアパートをリフォームすることにした。 昭和の時代を彷彿するような木造二階建ての古いアパートは、孝の力で生まれ変わろうとしていた。其処は孝の父が最初に建てた駐車場付きのアパートだった。 父の思い入れが一番強いこの場所に住みたかったのだ。それは父に対する尊敬の念だった。 それと同時に、孝は趣味であるテニスを後輩の薫とやりたくて、空き地にテニスコートを作り上げた。 孝は本当に真面目だった。 何時も電車で逢う薫と、愛に満ちた生活を送ろうと考えていたためだった。 結婚式の日取りなどを決める口固めの日。 出会ってしまった香と孝。 運命の皮肉さを恨んだ。 そして、本当に愛しているのは香だと気付き半狂乱になりながらも冷静に行動を起こす。 それは誰にも言えない、卑劣な行為だった。
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