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時を止めたかのようにひっそりと静まり返る深夜の宮殿の一室で、シャオエは鼻歌まじりに自身のドレスを選んでいた。
床に、ソファに、ベッドに一面埋め尽くされているそれは、夜会の為の肌が露出する派手派手しいものではない。
またお茶会のように、派手さよりは気品を強調する衣裳でもない。
真っ黒なドレス───所謂、喪服を選んでいたのだ。
ロタはこれまでシャオエの望みを全て叶えてきた。そしてシャオエは自身の望みが叶わないことなど無いと信じていた。
だからシャオエは、ロタからの朗報を、ここで静かに大人しく平然とした態度で待っていれば良かった。
けれどどうしたって浮き立つ気持ちは隠せない。
シャオエはもともと我慢をすることがとても苦手だった。感情を押さえることは、まるで何かに屈伏させられたような気持ちになる人種だった。
けれど、打算ができる女性でもあった。
だから日中は、普段の自分を演じることに専念した。多少苛立ちから、侍女に手を上げ、足で踏みつけたりもしたけれど、それくらいは許されることだろうと勝手に判断をした。
そして侍女たちも、シャオエの異変に気付くことはできなかった。
気性が激しく攻撃的なシャオエの性格は、侍女にとったら常軌を逸するものであり、その行動がいつも通りなのかどうかなど考える余裕などなかったから。
「───……ベルベットは、光沢があり過ぎるかしら?シルクはありきたりかしら?ならウール?それともシフォン?新しく仕立てるには、少し時間が足りないわ」
鈴のような声で言葉を紡ぎながら、足の踏み場もない程に散らばったドレスや靴、黒光りする宝石たちを眺めながら小首を傾げるシャオエは、その心根とは裏腹に、今日もとても美しかった。
そしてその美しい花に群がるミツバチのように音もなく、少し灯りを落としたシャオエの部屋に一人の男性が現れた。
「あなたは何を着ても美しいですよ。シャオエさま」
その声が誰だかシャオエは、すぐに気付けなかった。
本来この離宮の奥は一部の衛兵と騎士を除いて、男子禁制の場だ。けれど、ここへは何人かの男性がシャオエの独断で入室を許されている。
でもその中の誰でもない。けれどシャオエは動じることはなかった。
なぜならシャオエは自分が美しいことを知っているから。そしてその美しさに惹かれた誰かだと思ったから。
「ふふっ、こんな夜更けにどなたかしら?」
シャオエは淑女の部屋としては恥ずべき状態であるのに、可憐な笑みを浮かべ声の主に微笑みかける。
そして男もその声音に吸い寄せられるかのように、ゆっくりとシャオエの目の前に立った。途端に、シャオエは目を見張った。
「まぁ、セリオスさまったら。こんな夜更けに……わたくし驚きましたわ」
ぱちぱちと長いまつげに縁どられたシャオエの瞳が濡れたように輝いた。
シャオエはアルビスの寵愛を望んでいる。いや、受けるべきものだと決め込んでいる。けれど、他の皇族に愛される自分も悪くないと思っていた。
そして、目の前にいるセリオスはとても美しい男であり、アルビスが万が一亡き後、彼が皇帝となるのは周知の事実であった。
だから保険を掛けておくという意味でも、今日はこの男と伽をするべきだ。そう判断した。
「わたくしのことをお望みで?」
シャオエ唇が、言葉を紡ぎながら淫猥に弧を描く。
「ええ。そうです。話が早くて助かります」
「ふふっ、せっかちなお人なのね。でも夜は長いですわ。ゆっくり楽しみましょう」
しなを作りながら、うっとりと見上げるシャオエに対して、セリオスは口元だけ笑みを浮かべていた。
そこでシャオエは何かおかしいと気付いた。ある種の警鐘が頭の隅で鳴った。意味もなく身体が震えた。
けれど、シャオエはそれを夜更けの冷え込みのせいにした。直感より、欲望を優先してしまった。
それを間違いだとは言わない。
なぜなら既にシャオエの運命は決まっていたから。ここで自分の直感を信じて、何かしら行動に移しても、それはもはや手遅れであったから。
そしてそれを証明するかのように、セリオスは、冷ややかな笑みを浮かべ辺りを一瞥した。
「その前にお伝えしておきますけど、あなたがこれを着る必要はないです。まぁ、あなたの為にこれを着る人はいるかもしれませんけどね」
「え?仰っている意味がわかりま───」
「黙りなさい。うだうだ煩いんですよ。あなたは投獄、後に処刑。以上です」
「なっ」
態度が一変したセリオスに、シャオエはここで初めて狼狽した。
けれどそんなシャオエを無視して、セリオスは何かの合図を送るように片手を上げる。そうすれば、派手な音を立てて、数人の衛兵がこの部屋に飛び込んで来た。
そして瞬きをする間もなく、シャオエを拘束する。
「放してっ。どうして私がっ」
世界中の不幸を見に背負ったような表情を浮かべるシャオエに対し、セリオスは汚いものを見る視線を向けるだけ。
そしてそれは衛兵も同じであった。
「罪状は言わなくてもわかりますよね?私も、汚らしい罪名を告げる気はありませんから。さようなら、シャオエ嬢───……連れていけ」
衛兵達はセリオスに短い返事をすると、暴れるシャオエを力任せに引きずりながら、部屋を出て行った。
それは本当に一瞬の出来事だった。
シャオエは部屋を出る直前に、衛兵の手で無理矢理、痺れ薬を飲まされていた。
だから深い眠りに落ちている者なら、物音にすら気付くことはなかっただろう。もし仮に起きている者がいても、きっと些末なこととすぐに忘れてしまうだろう。
とはいえセリオスとしたら、あっけなく片付いた一件に少し物足りなさを覚えたのか、すぐにこの部屋を出ることはしなかった。
「あー疲れた。それにしても……まったく片付けなんてできないくせに、こんなに散らすなんて。侍女泣かせなお方だ」
室外と区別ができないほど黒一色になっている部屋に苦笑しながら、軽く伸びをした途端、背後から厳しい女性の声が飛んできた。
「何か疲れたですか。たったこれだけのことで愚痴を零すなど、情けない」
足音を立てず姿を現したのは、女官長のルシフォーネであった。
ちなみにルシフォーネは、此度の件は全て把握している。
そしてつい今しがた、佳蓮を連れて戻ってきたアルビスの代わりに、セリオスが動いたということも。
そしてここに足を運んだのは、無事にことが済んだかを見届けるため。
ただセリオスとしたら、まるで信用されていないのようにも受け取ることができるので少し不服そうに唇を尖らした。
「そう言わないでください、ルシフォーネさま。今回の僕は、なかなかの演技だったでしょう?ま、これも花嫁を連れ戻した兄上へのご褒美ってことで。褒めてくださいよ」
「何がご褒美ですか。もう少し働いて下さい。このままでは陛下の身が持ちません」
絵に描いたような呆れた表情を浮かべたルシフォーネは、ゆるく首を横にふった。そこにはアルビスの体調を気遣う様子があった。
つられるようにセリオスも同じ表情を浮かべる。
「いやぁ、まさか真冬の水堀泳いで、結界の中で魔法をぶちかまして、そんでもってまた真冬の水堀泳いで。すごいよね、兄上は」
「あなたは職位を剥奪されて、一度、その足だけで地方を巡ってみたらいかがですか?その腐りきった性根も少しはマシになるでしょう」
「あっ、それはご勘弁を。これからはもう少し頑張りますよ。兄上が聖皇帝になれば、僕ももう無能なフリをしなくてすみますから。ね?叔母上」
セリオスの最後の一言に、ルシフォーネの眉がピクリと跳ねた。
「人前ではそのような発言を慎むように」
「はい。肝に銘じます」
素直に頷くセリオスに、先々代の側室だった母親に瓜二つの女官長は、溜息を一つ落とすと、静かに部屋を後にした。
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