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目立たない路地の奥にある建物の重厚なドアを開けて、繭村妙子は耳障りの良い音量のジャズがかかる隠れ家的バーの中へ入った。 自分にはとても不似合いな場所だと分かっていても、何故か妙子はこの場所だけは物おじせずに足を踏み入れられる。なぜなら、ここの妖しく美しいマスターが笑顔で迎えてくれるからだ。 「いらっしゃいませ、妙子さん。一ヶ月ぶりですね」 マスターはそう言って妙子の前にコースターを置く。 「最近仕事が忙しくて。やっと来れました」 マスターの視線に照れながら妙子はそう言って、最初の一杯目のカクテルを注文した。 妙子は地味で目立たない。お洒落も気にかけることもなく、小学生の時からずっと眼鏡をかけており、化粧もほとんどすっぴんに近かった。 唯一の自慢は、一度もパーマもカラーもかけていない、美しい長い黒髪だけ。 そんな妙子がこのバーを訪れるきっかけとなったのは、この店のマスターの財布を駅で拾ったことがきっかけだった。 「拾ってくださってありがとうございました。よろしければ、私バーを経営しているんですが、お時間が有ればお礼にうちの店で一杯ご馳走させてください」 マスターの誘いに妙子は戸惑った。 悪い人には見えなかったが、やはり警戒してしまう。 「でも私なんて、バーに行ったこともないし。私なんかがお邪魔してもご迷惑では?」 「いいえ。確かに最初の一歩は勇気がいるでしょうが、来ていただければそんなふうに思うのもすぐに忘れてしまいますよ」 マスターの美しく物腰の柔らかい所作と笑顔に、妙子は何故か気後れすることもなく素直に受け入れることができた。 とても不思議な人と言う印象だった。
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