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内心でため息をついた。階段の踊り場で絡まれるなんて、最悪も最悪だ。背後の様子にちらりと目をやった。美笠くんは怯えきっている。
「ご、ごめんね、幸田さん……」
そう言いながら、美笠くんがしがみつくようにして私の背中に隠れる。
確かに、私よりも小柄な美笠くんにしてみれば、ラグビーや柔道でもやっていそうなガタイのいい相手が目の前にいたら圧倒されるのは仕方ない。なんとなくもやもやする気分を抱えたまま、美笠くんをかばうようにして踊り場の隅に追い詰めてきた相手を見据えた。
「だからさ、そんな怯えなくても。オレら、別にとって食おうってわけじゃないんだし」
目の前にいる2人の20代前半だろう男性のうちの片方が一歩、こっちに足を踏み出す。
「だからさ、いいでしょ、連絡先くらいー」
「あの、さっきから言ってますけど、私の後ろの子は女装してるだけで男子なんです」
「またまたー」
「そんなかわいい男子いないっしょー」
ぶはっと吹き出して、2人の男性が笑う。もうこの繰り返しだ。全然信じてくれない。
「本当にすみません。戻らないとならないので、通してください」
通ろうとすると立ちふさがるように動かれる。
メイドカフェの宣伝で校内を練り歩いていた時、小柄な美笠くんが何かを避けようとして人にぶつかった。それだけならよかったけれど、「ああ? いってえな」と苛立つように言いながら振り返ったその人は、青ざめた美笠くんを見てすぐに態度を変えた。「弁償しろ、嫌ならこれからちょっとつきあえ」と。運悪くクレーマー気質の相手にひっかかってしまったのだ。
その連れの男性もまたたちが悪かった。さすがに他の人たちが「まずい」とか「先生」とか言うのが聞こえた。
「あーあー、痛いなあ。これは骨折れてっかもなあー」
「こいつは放っておいていいからさ。ねえ、校内案内してよ。それくらいならいいっしょ?」
男の人が私の手首をつかんだ。一瞬恐怖と嫌悪感が手首から全身にゾワッと走った。
その瞬間、その男の手首を別の手がつかんだ。
「い……っ!」
手首を掴まれた男の顔が痛みに歪んだ。
「だから、なんでオレ頼んないの」
聞き慣れた声がして、思わず「周!」と名前を呼んだ。
「つうか、なにそのカッコ。すっげえかわいいんだけど。え、今めっちゃキスしたい」
「え?」
状況がわかってるはずなのに、周が小さくクスクス笑いながら、男の手首をつかんだままで顔を近づけてこようとする。
自分のクラスの模擬カフェの制服らしいバリスタエプロンと白いシャツに黒いスラックススタイルの周はひどく大人っぽい。
ドキドキして、そんな場合じゃないのに見とれてしまう自分がいる。
「おいコラ、てめえ、なんだよいきなり。そいつ離せよ」
唖然としていた別の男の声でハッとした。男が周に近づいた。
その瞬間、周は掴んでいた男の手首をひねるようにしてその場に昏倒させて、近づいてきた男の懐に入り込むようにその正面に立った。その素早さに、男の目が驚いたように見開かれる。
「すみません、お友達を転ばせてしまいました。もしよければ、本部にご案内させていただきますので、手当がてらお話聞かせてもらってもよいでしょうか?」
にっこりと極上の笑みを浮かべた周に、男が怯んだ。床に転ばされた男が起き上がり、「やってらんねえ」と吐き捨てて階段を早々に降りていく。むしろ逃げていく格好だ。取り残された形の男が戸惑ったように友人の背中を見て、それから周を見た。そしてすぐに舌打ちすると、友人のあとを追いかけるように走って去った。
「口ほどにもないなー」
周はため息をついて私を見た。
「なんですぐ呼ばないの。ほら、手首赤くしてんじゃん……」
そう言って周が私の手首をそっと持ち上げると、そのままゆっくり少し赤くなった部分に唇をつけた。びくっとして、思わすその場に硬直する。周はそのまま、うやうやしく手の甲に、そして薬指にキスをした。それからさらに指先に、ときて、慌てて我にかえった。
「ちょ、ちょっとまって、周! な、なんか、」
変な感じになる。
心臓がドキドキするのはいつものことで慣れないけれど、それよりももっと別の感覚。周囲の目も恥ずかしさも飛んで、引き寄せられてしまうような。
慌てて手をひこうとした瞬間、周が一歩近づいて、私の腰を抱いた。
「けがは? ほか、変なふうに触られたりしてない?」
抱き寄せられて間近に迫ったきれいな顔と、ざわつき始めた周囲の視線に恥ずかしくて、顔をそむけた。
「周、本当に目立ってるから……!」
そう言っても、周は私の言葉を聞き流して、つかんだ手のひらにそっと唇を押し当てた。そのま手首の内側に唇がするりと移る。
あまりの甘さと蠱惑的な色気にあてられて、体の深くで何かが頭をもたげる。それがあまりに恥ずかしくて、涙がにじんだ。
「周、お願い……」
周が、はたと動きを止めて私を見た。そしてそのまま頭を自分の胸に押し当てるように抱き込んだ。
「ごめん、嫌がらせるつもりじゃなくて」
「わかってるけど……皆見てるのに」
くぐもった声で小さく泣きそうな気分で抗議すると、周がまた「ごめん」と私をあやすように背中を撫でた。
「ああ……そうだ、君、真尋のクラスの人だよね?」
周が私を胸の中に抱き込んだまま、背後にいるはずの美笠くんに声をかけた。
すっかり忘れていたけれど、クラスメイトのど真ん前でラブシーンみたいなの演じてるって、本当に恥ずかしすぎる。よけいに顔をあげられてないでいると、周が美笠くんに続けて言った。
「別に立ち向かってほしいわけじゃないけど、真尋、これでもオレにとっては世界で一番大事な彼女なんだよね。だからこれからは気をつけて?」
「ご、ごめんなさい……」
美笠くんの小さな声が震えている。思わず腕の中で非難する声音で「周」と顔をあげた。
「今回は運が悪かっただけだから。結果として何もなかったんだから、責めないで」
「結果としてはそうだけど……真尋はオレに何個命があればいいと思ってるわけ?」
「それは……」
「あの、あの、田ノ上くん、幸田さん、本当にごめん。ごめんなさい。どうしても身がすくんじゃって……」
美笠くんの必死な声に、「大丈夫だよ」と言いかけた私の言葉に周がかぶせた。
「じゃあ、あとの宣伝は頼んでいいかな?」
「周?」
周は私の手から看板をとりあげると、美笠くんにつきだした。有無を言わせないその圧に、美笠くんが気圧されたように手をのばした。
「ちょっと待って。宣伝はクラスの」
仕事だからと言いかけた私に、周は一瞬にして唇を奪った。すでに関心を失いつつあった周囲がざわっとした。
真っ赤になって絶句した私は、当然、美笠くんを見る余裕なんてない。私の言葉を飲み込ませるための意地悪いキスをした周がにっこりと悪い笑みを浮かべた。
「真尋。文化祭デート、しようよ」
甘えたようなその声は、私にも有無を言わせない響きだった。
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