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『たまごを割る時はコツンっすよ、ゴツンはだめです』 『やさしくですね、わかってます』 みはながシンクの角にたまごをぶつけ、ボウルに黄身を投入する。 専用の踏み台をちゃっかり持ってきて、悦巳と並んで調理する背中は、どことなく別れた妻に似ていた。 誠一は並列作業(マルチタスク)が得意だ。一度に複数の作業をこなせなければ社長は務まらない。 別窓を開いてメールを送り、また別窓を開いて契約書を読み、直接捺印が必要な資料はデスクに積み上げておく。 誠一が複窓でノルマを消化する間も、オンラインクッキングは着々と進行していた。 『バニラエッセンスは適量か』 『適量ってなんですか』 『好きなだけってことっす』 「ちょっと待て、適量は適切な量の略で適当な量じゃないぞ」 『こまかいっすね誠一さんは』 思わず口を挟めば、頭でっかちな舅に対するリアクションのように悦巳が鼻白む。 『適量っていい言葉っすね、俺大好きっす』 「お前の料理は概ね適量で成り立ってるからな。今のは適当な量の略だぞ」 『履歴書の座右の銘欄に書きてえくらい』 「転職の予定があるとは知らなかった」 『雇用主のオーボーに耐えかねて』 「たっぷりサービスしてやってるだろ」 『ボーナスもらってねっすけど』 「永久就職したんだと思ってたが」 可愛げない憎まれ口を鼻で一蹴すれば、悔しげに顔を赤らめる。 『えっちゃん、どっかいっちゃうんですか……?』 『へ?嘘うそ、今のジョーダンっすこ~んなかわいいみはなちゃんおいて出てくわけないじゃねっすか!』 悦巳の姿が画面から見切れる。その場にしゃがんでハグしてやってるのか、とんだ茶番劇だ。 悦巳はみはなに対し過保護のきらいがある、ホットケーキにシロップとハチミツとバターを塗りたくったような甘やかしぶりだ。 『次はしゃかしゃかっす』 『了解です』 どうでもいいが、悦巳の説明はやたら擬音が多い。 映像を見ず会話だけ聞き流していると、何の作業にとりりかるのかまったくわからない。 きっと頭が悪いからだな、と誠一は納得する。俺が料理できないせいでは断じてない。 『じゃーん!みんなを幸せにする合法の粉の登場っす』 「おい」 一旦手を止めて窓を切り替える。 スウェットを腕まくりした悦巳がボウルに注ぐ、白い粉末に目がいく。 「ただのホットケーキミックスじゃないか、まぎらわしい言い方をするな」 『非合法の白い粉とでも思ったんすか』 みはなはちんぷんかんぷんな顔をしている。ホットケーキ作りは攪拌の段階にきたようだ。悦巳が戸棚からハンドミキサーを取り出し、『ぎゅいーん、がしゃん!』と先端をセット。いちいち効果音が大袈裟だ、子供の頃はロボットアニメにハマってたのだろか……誠一も人のことは言えないが。 『もったりするまでよーく泡立てるんすよ』 『いえっさーです』 みはながアンディのまねっこをする。 「子供の手には余るんじゃないか?」 『心配性だなー誠一さんは、しっかり支えてるから大丈夫っすって』 お前にだけは言われたくないと腹の中で返す。 カウンターに置かれたノートパソコンの液晶が、青年と幼女がこまごま立ち働くキッチンを映す。 みはなの後ろに回るや二人羽織りの要領で彼女の手をボウルに導き、しっかりとハンドミキサーを握らす悦巳。 『スイッチゴー』 ハンドミキサーが稼働、ボウルの中の材料をよく攪拌。みはなは至って真剣な表情、反対に悦巳はどこまでも楽しげだ。 『ふんふんふふーん、ふんふんふふーん』 「…………」 気にしまいと努めても気になってしかたない、下手くそな鼻歌が集中を削ぐ。 いっそミュートにするか迷うが、悦巳の朗らかな笑顔とみはなの一生懸命さが思いとどまらせる。 「…………」 代わりに音量を絞り、別窓に移ってメールを送信。 『あっ』 「どうした?」 怪我したのか。
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