第一節 春嵐に襲われるはインスタントティー

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 陽子の一人暮らし先への引っ越しの日。  荷物の量があまり多くなく、さらには荷運びは引っ越し業者がしてくれたので、作業自体はそこまで大変なものではなかった。  荷物の運び入れはほとんど業者がしてくれたので、俺は棚やラックの組み立てを任されて、言われるがまま手を動かし続けた。  ただ引っ越し先のマンションに着いたときは正直驚いた。先日の陽子の不可解な含みのある俺への感謝の言葉の正体に嫌でも気付かされたからだった。それは陽子がこれから一人暮らしを始めるマンションは俺の住んでいる下宿先から、歩いて五分くらいの近所だったからだ。 「俺の住んでる部屋からかなり近いところに住むことにしたんだね。驚いたよ」 「そうだよ。だから、この前、涼太くんには感謝してる、って言ったでしょ?」 「でも、それだけでなんで俺は感謝されたわけ?」 「何かあったらすぐに来てくれるような人が近くにいるってことが大きかったんだよ。だから、私に一人暮らしさせてもお母さんたちは、涼太くんがいるから安心だってことでオーケーが出たんだよ」 「えっと……事情は理解できるけどさ、そんな重要人物の俺に、相談や事前に何か一言あってもよかったんじゃない?」 「ごめんね。どうしても驚かせたかったんだ」 「そりゃあ、たしかに驚いたけども……」  陽子は申し訳なさそうに顔の前で手を合わせてみせるが、表情はどこか楽しそうで口元には笑みが浮かんでいるのが見える。悪気がないだろうことは分かっているので、それ以上は何も言えなくなってしまう。なんだか胸の奥がこそばゆくなり、頭を掻きながら俺もため息と一緒に笑みをこぼして、今は作業に戻ることにした。  そんな驚きに満ちた出来事をその日の夜に、もう一人の幼馴染で恋人でもある桑原梨奈に電話で話した。しかし、電話の向こう側から感じる梨奈の空気感や声はどこか機嫌が悪いというか、何か引っかかってるような感じで、明日はバイトだからと早々に電話を切られてしまった。  なんだか最近、メッセージのやり取りも電話での会話も、以前のような熱量がなくなった。大学生になった最初の半年くらいは毎日のように電話をしていたのが、今では週に一、二回話せばいいほどで、どうしても梨奈との間に距離感を感じてしまう。  しかしながら、それでも日々の生活は続いていくもので、バイトに行ったり、こっちでできた友人と遊んだり、陽子と一緒にご飯を食べたりと毎日が忙しくて楽しくて、充実したものだった。  梨奈とのことは、近いうちに帰省するので、そのときに直接会ってじっくり話せばなんとかなると思っていた。顔を見合わせて話せば、お互いにある程度は何を考えているか分かるし、何が足りないかも分かる。  それだけの関係を梨奈と築いてきたという自負も自信もあった。  陽子の引っ越しから数日後。今度は沢井家の引っ越しに手伝いに行った。  前回の陽子一人の引っ越しとは違い、ひと家族分となると、荷物の量も膨大だった。家具や家電は引っ越し業が手慣れた様子で運び出し、俺はそれに交じり、邪魔にならないように気をつけながら、荷物の運搬をしたり、全て運び終えた後の掃除を手伝った。  荷物の運び出しも掃除も終えると、何度も通い、見慣れた沢井家の暮らしていたマンションの部屋は、寂しさすら感じてしまうほどに何もない広い空間になっていた。  しかし、そんな感傷に浸る時間は俺にも沢井家にもなく、引っ越し先の家で荷物を受け取るためにすぐに移動をしなければならなかった。  陽子からも陽子の両親からも俺は感謝され、その流れで陽子の父親から、 「涼太くん、今日は本当にありがとう。それで涼太くんは春休みは実家に帰らないのかい?」  と、尋ねられた。 「数日中には帰ろうと思ってます。もうバイトの休みは取ったし、帰省用の荷物も部屋にまとめてますしね」 「じゃあ、よかったらこれから一緒に帰らないかい? 帰省するのだって、電車代とか安くはないだろう? 涼太くんさえよければうちの車に乗っていくといいよ」  予想もしていなかった申し出に驚きつつも、 「本当にいいんですか? それじゃあ、お願いします」  と、陽子の父親の言葉に甘える形で急遽帰省することが決まった。  そして、なんだか少しだけテンションが上がっている自分がいた。帰省することに対してではなく、自分にとって生まれ育った帰るべき場所でもある、あの古い町並みを残すあの町が陽子や陽子の家族にとっても帰る場所になり、また梨奈も含めて三人で過ごせるようになるかもしれないということが嬉しかったのだ。  梨奈と陽子と三人で大事な時間をいくつも共有した思い出がそこかしこに残っているあの町に、陽子とこれから帰るのだから――。
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