幕開け

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幕開け

 炎。工場をなめ、消火活動をあざ笑うような激しく勢いの衰えない炎。  片瀬(かたせ)翔吾(しょうご)は、逃げまどう従業員達に遅れ、顔に負った火傷の痛みに耐えながら出口を目指していた。  年に何度もあるわけではない形ばかりの取締役の視察。秘書である片瀬が、上司である専務の神宮寺(じんぐうじ)拓己(たくみ)と共に、現場の人々の案内で工場を見て回った。その夜だった。  備品を食い物にして炎は一気に増大した。壁が壊れ、天井が崩れる。そんな中をかいくぐり、片瀬は必死で足を進めた。  が、その元壁だか天井だったかの区別がもうつかない残骸につまずいてはひざまずくことの繰り返し。その何度目かに必死で顔を上げたその先で、煙の向こうのがれきがかすかに動いた。  神宮寺拓己がもがいていた。仕立ての良いダブルのスーツはあちこち黒ずみ、普段はほとんど表情が読み取れないその顔にはハッキリと苦痛が見えた。挟まれている足を引き抜こうともがき唸っていたが、大きな怪我などは無さそうだった。 「専務!」  片瀬は急いで駆け寄った。不思議と足がちゃんと動く。そして、神宮寺の足の上の一番大きながれきをどかそうと試みたが……動かない。細かく山積みになっているものから一つずつ取り除き、崩していくしかない。 「片瀬か?」 「はい」  汗と血と煤、そして煙の妨害もあって顔がわからなかったらしい。片瀬は咳き込みながらがれきをどかしていく。だがそれらは高熱を持ち、思うように触ることができず、作業はなかなか進まない。 「速く――速くしろ!」 「もうすぐですから」  息苦しそうながらも、神宮寺はいつもの冷静で能面のような声で、平然と命令した。こんなときにまでこの人は。片瀬は聞き流そうとした。  と、神宮寺が続けて何か言い放った。  懸命にがれきをどけていた片瀬の手が止まった。ゆっくりと振り返ると、神宮寺と真正面から目が合った。  何度も何度も見てきた、もう見飽きたはずの神宮寺の、人を小バカにした目が――そのとき片瀬にこれからの全てを決めさせた。
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