「今すぐ、早く」

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「今すぐ、早く」

「僕を埋めてくれませんか?」  そう声をかけられたのは仕事の休憩時間、昼食を終えて近場のコンビニを出て、数メートルの所。  唐突すぎて〝おかしい〟と意識する間もなく振り向くと、そこには同じ年ごろか、もう少し下かもしれない男がいた。  薄茶の髪で白いシャツ、一見清潔にも見えたその姿とは裏腹に浮かべた笑みは仄暗い。仄暗いものだと、気が付いた。  気が付いてしまうと同時に全身が急激に冷え、粟立つのがわかった。けれど反応してしまうわけにもいかない、ましてそれはなにかと聞き返すようなこともあってはならない。何事も、けしてなにもその言葉からはわからない、そうした振る舞い以外には許されない。  きっと、怪訝というよりもずっと奇妙さを向ける顔をした。それにも男は依然、仄暗い笑みで、いっそ心地よく。 「……すいません」  気味の悪さの全てを男に向けて残し、足早に離れた。走り出し、振り切ってしまいたい気持ちを堪えて、まるで〝迷惑な人から遠ざかりたい〟ような振る舞いで。  けれど背後に残る仄暗さはどこまでも追い続けるようで振り切れもしない。まるで背骨を掴まれたまま、ずっと歩き続けているような居心地の悪い気分だった。男の姿はもう見えない、そんな場所に来ても尚、それらを振り切れることもなかった。  職場の工場は所謂中小企業で大きなものでもなく、住宅や商店が混じり合う一角にある。今思えばもっと、どこか違う道を通って戻るべきだった。突然のことでなにひとつ気が向きはしなかった。あれだけ身構えて綿密に用意していたものの全てが、ほんの一瞬で白紙に消えていた。  それ以前、それ以前の問題だ。休憩時間で職場の作業着のまま。よくある紺色の作業着、よくあるとは言っても社名は入っているし、振り向いてもしまった。〝わけのわからないもの〟と幾ら振る舞った所でそれに振り向いてしまってはその言葉を〝意識している〟と男には知れてしまったのではないか。  平静を装っても、職場に戻ってロッカーを開くその手が滑り、うまく掴めない。  窓の外からは休憩時間を利用して運動をする同僚の声が聞こえる。騒ぐ夏の虫の声、車の音、機械の無機質な音。  そこに混ざって聞こえる声が未だ言う。何度も何度も、窓を隔てて聞く音の中に平然と混じって。 『埋めてくれませんか?』  声は何度も何度も、けれど聞き慣れるはずもなく都度それが初めて聞いた言葉かのように脳に責め入った。  男は『僕を』と言った。確かにそう言った。  嗤う暗い目には好奇が、けれどにたつく口元にはもっと別のものがあったようにも感じた。  じわじわと鳴く虫の声が頭の中で飽和していく、反してそこには濁りもしないあの声で、同じ言葉が何度も囁かれた。  夏の所為でも機械の熱の所為でもない汗が額から流れた。  鼻に伝う汗もまた、別のものに感じる。暑さの所為でもなんでもない。  顎に伝う、そこで漸く袖で拭うと土のにおいがした気がした。  仕事にも手が滑るような感覚があって正直上手くやれていたかわからない。けれど同僚に声をかけられる程様子をおかしくしたつもりもなく、その意味では上手くやれたのだと思う。  定時に終わった仕事場を出るのがまた、精神が張り詰めたようだった。なるべく同僚と同時に外には出ないよう、なにかがあっても一人だけで対処出来るようすぐには職場を出ず、のらりくらりと時間をやり過ごしてやっと建物から出たのも、定時から四十分が経った頃だった。これだけ時間が過ぎればきっと、〝ここではない〟と認識されるはず。既に、知られていない場合には。  呆気にとられた程に静かだった。視界にも聴覚にも、気を張るようなものは入り込んでこなかった。目論見が当たった、これで難は避けられた。  きっと、あれは本当に頭のおかしな奴だった。なにも関係のない、過剰にそうであると自分が判断してしまっただけなのだと。  けれど本当の難は翌日からで、それが連日続くとも、思いはしなかった。  帰路にいなければきっといない、そう踏んで出勤した職場の前に、昨日とは少しだけ違った服装の男がいた。それでも白いシャツだけはそのままで、梅雨だと言うのに袖も長い。目が合った瞬間、それとは別の部分で空気がじっとりと纏わりついた。笑っている、あの仄暗さで、今日も。 「考えてくれましたか?」 「なんの話ですか」 「僕を」 「あの、やめてもらっていいですか」  男の横を抜けて入る職場にも、もう駆け込む必要もない。この男は、知っている。どこで働いているのかも、それも、自分のことも。  それからも、男は何度も現れた。正確には一日に一度、必ず。そしてあの仄暗い顔で嗤い、問い掛け、確認する。その気にはなったかと。職場に、その近くのコンビニに、男は必ずその道に現れた。  その日も、男は昼食を終えて戻った道にいた。「考えてくれましたか?」と笑って、その横を通り過ぎる。何日も続けば、雑作もないことになった。  けれどその日、遂に男の行動が変化した。帰路、もうアパートも真横、後は敷地内に入るだけの場所。自分が来た道とは反対側の街灯の下で、男は待っていた。  それはつまり、男が自分を待っていたということだ。  男は知っている、自分が誰で、どこに住んでいるかすらも。  続く梅雨のじとつく空気よりもずっと、心地が悪い。  夜に鳴く夏の虫も、ただの耳鳴りにすら感じた。 「あんた、あんたいい加減にしろよ」  自ら声をかけてしまったのもきっと、体に纏わりつく気持ちの悪さからだった。払いのけるように声を出して、男の口端が吊り上げられたのを見て失態に気が回った。 「警察でも呼びますか?」  けしてそうはならないことを知って言う言葉に込められたものを感じると、こうもこみ上げるものがあるのか。  あらゆる音が飽和する。虫の声も車の音も、どこかで喚く若者の声も、自分の体内で鳴る音も。  殆ど駆けだす速度で男の横を過ぎる間際聞こえた言葉で全身に湧きだったものは恐怖でもなく、諦めや決意に近かった。 『木の下で眠るのはさぞ心地良いことでしょうね』  アパートの階段を上る足も、鍵を差し込む手も、自分の思うようには動かなくなっていた。  自分が開いて引いた扉に背中を押されて入った部屋は、籠った空気が重く濁っていた。息苦しく思えるのはそれに対してでもない。  吸った空気が濃度も薄く、正しく体に作用していない気分だった。判断能力が著しく鈍っている、今なにかを考えるべきではない。もっと、自分自身がしっかりとした時に。なにかを考える時には必ずそうすると、必ず。  それから男は職場周辺には現れなくなったが、その分、帰宅すると必ず男がアパートの前で待っていた。自分が来た道とは反対側の街灯の下、そこに、毎日必ず。  毎日、毎日、やがて梅雨も終わりに近付き、耐える自分の心も限界を迎えた。  今日も男は街灯の下で自分の帰りを待っていた。あの仄暗い笑みも、今や自宅のベッドのように和やかに思えていた。  この日は夕方から小雨が続き、男の髪も濡れていた。いつからそうして待っていたのか、そんな、そんなものの為に。 「わかったよ」  半ば、諦めと苛立ち両方を言葉でぶつけ、足早にアパートへと戻った。開けた扉と同時に傘とバッグを放り投げ、靴を履いたままで部屋に上がった。照明をつけずともわかる場所にあるものを手に、差したままの鍵を回してすぐにまた、階段を折りた。男はまだ街灯の下に居る。こちらの動きに合わせて、視線を動かしながら。  階段を降りきった自分の手元にあるものを見て、男の仄暗い笑みが明らかな好奇に変わった。喜んではいるのだろうが、それを嬉しいとは思わない。 「乗れよ」  駐車場の車を指し、遠隔で鍵を開けると男は戸惑うことなく助手席に乗り込む。自分は後部座席にショベルを放り込んでから車に乗り込んだ。じっとりと濡れた男は好奇の笑みでこちらを見ている。構わずエンジンをかけ、車を出した。  道中、男は静かだった。あの笑みも最初に向けてきただけ、ずっと、正面か自分の側にある窓を見て大人しくしていた。ここで気を損ねては望む通りにはならないと踏んだのだろう。そうまでして叶えたいのか、他に、隠した先のものがあるのか。  真っすぐと〝男の〟目当ての場所へと向かう。次第に周囲に建物がなくなり山道へと入り込み時刻は深夜を回った。〝あの場所〟へと近づくと男は前のめりになってフロントガラスの先へと輝く目を向け始めた。 「あそこですね」  知っていなければ目的地が〝そこ〟であることもわかるはずがなかった。けれど男が何故脅しっや強請もなく、ただ嬉々としているのかがわからない。いっそどちらかであれば考える必要もなくことを選べた。悩む必要もなく、同じことができたのかもしれない。  男の声に合わせて停車し、エンジンを切った。深夜で射す陽もなく明るい内よりは随分と涼やかでずっとクーラーが必要なわけでもなかった。 「歩ける明るさまでは動かない」 「四時前ですね」  知っていたように男は、言う。いや、知っていたのだろう。  梅雨の空が人工の明かりがなくとも明るむまでの間山道で停めた車の中で男と待つ。なにも、素性のひとつも知らない男を自分の車に乗せ、横に座らせている。こちらはなにも知らない。けれど相手は、男は自分のあらゆる問題も、素性も知っている。  不可侵のような互いの空間は物質的には遠い。けれどこちらのなにもかもは男に握られて、こちらがすべき選択はたった二択までしか残らなかった。 「あの日もこうしていましたね」  梅雨の空が濃い青から薄いものに変わった頃に男が言って、その時刻も本当に〝丁度〟の頃だった。  車を降りて後部座席のショベルを持ち、知った道を歩く。男はそれにただついて歩いた。 ――なんでこんなことに  今日も、あの日も、そんなことばかり考えていた。  あの日も今日と同じく深夜に車でここまで来た。けれど今日とは多少違ったこともあった。一緒に車に乗っていたのは生きていた人間ではなかったし、動いてもいない。助手席でもなくトランクにいた。  歩く自分の後について歩くこともなく、その体を担ぎ上げ、更に重いショベルも手に、道中は身体的に重かった。けれど今日は体だけは軽い。体以外への負荷だけが大きかった。  穴を掘るのも、最初は勢いがあってよく進む。だが途中からはショベルの重みと力任せに刃先を土に突き刺す反動が腕に残って怠くなる。土建の作業員がよくなるやつだ、同僚からもよく聞いた。  穴を掘る後半は殆ど〝相手〟への憎しみが動力となっていた。もう済んだ部分のものではなく、こうなった結果での感情だった。こんなことにならなければこんな面倒にもならなかった、全て、お前の所為だと。  殆ど刃先を地面に殴りつけるような勢いで突き刺しても、そこから持ち上げて土を投げるのが、もう辛い。あの日は完璧に心身ともに疲れ切っていた、その上でこん作業ともなって自分がなにをしているのかもわからなくなる程だった。  穴が深くなればなるほど上げる腕も上がった。作業が進むにつれ体力は減るが使わなければならない力が増した。  なんでこんなことに、なんで自分がこんなことに。  穴を掘る後ろで男は語る。その声は顔を見ずともうわずって感情の昂りを知らせていた。 「――最初は当然車から降りた姿に興味を持ちましたが、ぼくが惹かれたのはその後、自暴自棄になって穴を掘る姿に心を奪われ、〝ゴミ袋〟を少し乱暴に穴に放り込んだあの仕草、顔。気付けば僕は一心不乱に自慰をしていて、手のひらも目の前の木にも出した後でした」  がつん、と刃先が何度目かの石に当たって衝撃が肩にまで響いた。もう、肘から下には痺れが始まって、手首から先はぼんやりとしたものが溜まっているようだった。  地面はもう、膝上まで掘り済んでいた。しゃがみ込んで作業を眺める男とは殆ど同じ視線にいて、その恍惚とした表情を見て、更に背筋がざわついた。我に返った、そんな表現にしかならないが言葉通りのものではない。 「……なんで、なんであんな日に、こんな場所にいたんだよ……」  誰もいないと踏んだ時間、場所、どれもを確認したあの日、あの時間、この場所。  上がる自分の呼吸よりもずっとうわずった男の呼吸は既に上り詰め、その手も下半身に伸びていた。  張り詰めたものを握りながら男は嬉々としたように笑う。まるで幾つもの笑い声をぶつ切りに繋げてでもいるように。「早く、ぼくを、埋めて」と、自分のものを扱きながらうわずった声で喚いた。 「あ、あは、は、あは、あは、」  ぶつ切りの笑い声を繋げる男を穴に横たえた。「あの時のように」という男の望みの通り、担ぎ上げ、それでも生きている体には引けて投げ込むことは出来なかった。  男が穴の底から見上げる。えも言えぬ恍惚とした表情でうわずった呼吸で「早く、早く」と言う。  最初の土をかぶせた時には既に、男は果てていた。擦る手は止まらず更に土をかぶせると、悲鳴にも似た嬌声を上げて喚いた。 「ああ、あ、」  早朝の湿っぽさと梅雨が重なった土も葉も、濡れてじとりと重く空気すらもにおう。  男を埋めた、生きている男を埋めた。  埋めれば男は喜んだ。埋めれば男は知っていることを誰かに打ち明けることもなかった。埋めればそれを共有していることを、漏らすこともなかった。  ただ男を埋めればよいだけだった。望まれれば穴を掘り、望まれるように土をかぶせ、その為に掘ったばかりの穴に埋めた。  穴を掘る姿にも、埋められることにも男は悦んだ。恍惚とした表情で、喚いて、笑って、果てる。  望まれた日に望まれたように男を埋める。  今日も男を埋めている。それはまるで何度もあの日を追体験しているようで、高揚した自分自身の脳もまた、男のそれと同じく煮え滾ったように熱くなった。 〈了〉
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