「第一章 拾われた少年」

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「第一章 拾われた少年」

「序文」  私がこの物語を記すことを決めたのは、妻から勧められたからだった。  結婚して3年ほど月日が経ったころ、妻は唐突に「あなたの過去を知りたい」と言い出した。私は妻との間には秘密を持たないようにして過ごしてきた。ただ一つの「物語」を除いて。妻はそれまで私が胸に秘めてきた物語を知りたいのだという。なぜなら、その物語は、私の幼少期であり、青年期であり、青春であり、現在の私を形作る最も大きな要素だからだ。  私は始めのうちは拒んでいたが、妻の強い思いに押され、最後には秘密を明らかにすることを約束した。口頭で語り始めようとする私を制して、妻は言った。「本にしてほしい」と。それまで筆を握ったことのない私にとって、本を書くことは人生で初めての経験であり、苦難な試みとなることはわかっていた。  だが私は書物として記すことに抵抗を感じなかった。むしろ、文字にすることで、過去の出来事を仔細に思い返すようになった。時に喜びと共に、時に悲しみと共に、恥じらいつつ、わずかな高揚を抱きながらも、私は胸の中にある物語を形にする作業に没頭した。  この本は、私の妻、そして私自身のために書いたものだ。もし、他にこの物語を読む人がいるのであれば、最初に明確にしておきたいことがある。  魔女は実在する。私の持つ能力の大半は、私が師と仰いだ魔女から授けられたものだ。だが、それは魔法と呼ばれる神秘の力などではない。  私が彼女から授けられたのは、知識であり、技術であり、何よりも、生きるための方法だった。私はこの物語を記すにあたり、敬愛するわが師、魔女エルザが与えてくれたものに改めて感謝と敬意を表したい。  願わくば、この物語を読んだ人の心にも、私と同じ気持ちが芽生えてくれればと思う。                                                星歴1045年 冬 「第1章 拾われた少年」  最初に覚えているのは炎の熱と臭いだった。  あの夜、まだ4才にも満たない私の記憶は恐怖と憎悪で塗りつぶされた。  逃げ惑う人々の悲鳴、目の前で血を流し倒れる両親、焼ける村の家屋と死体の山。そして、その景色を作り出した、黒衣の影。あの景色を思い出すだけで、今でも心臓の鼓動が早くなる。私の人生の行先はあの夜に決められた。  そして、あの出来事がなければ、私は「魔女」に拾われることもなかっただろう。  記憶の限りでは、私は小さな村に住む、農夫の一人息子だった。  まだ学校に通う年でもなかったため、昼間は平原や野山を駆け回り、好き放題遊びまわっては家路につくという生活をしていた。断片的ではあるが、家族で囲む夕餉の景色は記憶の片隅にあり、就寝前に母親に読み聞かされた絵本の内容も思い出せた。  そんな世間では平凡で当たり前のような幼少生活は、あの夜に終わりを告げた。  最初に異常を感じたのは、近所から聞こえてきた悲鳴だった。  それは日常生活の中では決して発せられることのない、狂気をはらんだ悲鳴だった。  私は我知らず手にしていた匙を取り落とし、夕餉をよそうために厨房に立っていた母親の肩は驚きで跳ねた。  悲鳴を聞いた瞬間に窓の外をにらんだ父親はしばらく聞き耳を立てるようにしていたが、やがて様子を見に行くといって椅子を立ち、玄関から外へ出ていった。  母親はすぐさま私の椅子の後ろに立つと、私の肩に両手をそえ、強く握った。  近所からは玄関の扉を開く音が聞こえ、何人かの人たちが村の入り口の方向に走っていく気配がした。  私はというと、恐怖で固まったまま、椅子の上で身じろぎ一つできなかった。それだけ、あの悲鳴には心臓を凍てつかせる恐怖が込められていた。  しばらくして、今度は多くの人が走ってくる足音と声が聞こえだした。人々の声は言葉にならず、ただそれが警告であることは感じられた。  私の肩をつかむ母の手の力が強くなった。  やがて、家の前を走る足音の一つが玄関に飛び込んできた。  今まで見たことのない父親の表情に、私は足元が抜け落ちたかのような恐怖にとらわれた。  おそらく私たちに何か言おうとしたのだろう。だが、開かれた父親の口から出たのは言葉ではなく、鮮血だった。  私は思考が真っ白になったまま、ただその場に崩れる父親を見ているしかなかった。  そして、父の背後に立つ、「それ」を見た。  初めて「それ」に出会ったとき、私は死神がこの世にいることを知った。  カラスの羽を寄り合わせたような漆黒のマントの上に置かれた顔は黒い仮面で覆われ、暗い深淵が穿たれた双眸が私を見返していた。その手に握られた黒い槍の穂先には、父の血が滴っていた。  母の叫び声が聞こえ、途端に目の前が暗転した。そして、重い何かが私に倒れ掛かってきた。耳元で母がか細く「逃げて」といったのが聞こえた。母が私を庇ったと気づいた時には、彼女の背中からはどす黒い血があふれ、床についた私の手に触れていた。  その時、私は本能的に死を覚悟した。私は母の体の下敷きになりながら、恐怖で体が動かなくなっていた。  両親を殺した「それ」は身じろぎ一つせずに私を見下ろしていた。仮面をかぶった下の表情は見えず、私は仮面の覗き穴をただ見返すだけだった。  突如として、それは踵を返し、家から出て行った。間もなくして、家の外から人々の叫び声が聞こえだした。  私は村人たちが虐殺される声を聴きながら、ようやく四肢の感覚を取り戻し始めていた。母の体の下からはい出し、まともに言葉もつづれないのどを震わせながら母親に呼びかけ、その体をゆすり続けた。その間も遠くから人々の悲鳴は聞こえ続け、やがてその間隔は長くなり、そして途絶えた。  「あれ」が戻ってくるかもしれないという警鐘が頭の片隅で鳴り響いていたが、私は両親の側から離れることができなかった。  だが、そのまま留まり続けることは許されなかった。窓の外が明るくなり始め、煙の臭いが立ち込め始めた。  窓辺から外の様子をうかがった時には、すでに炎の波はすぐそこまで迫っていた。私は両親の亡骸を家の外に引きずろうとした。すでに両親が死んでいることはわかっていたが、体をそのままにしておくことはできなかった。しかし、子供の腕力では大人の体を引きずることはできず、やがて、屋内に充満した煙の中で息ができなくなった。私はたまらず家の外に飛び出した。  空気を求めて地面に突っ伏したままあえぎ続け、やがて家の外の景色を目の当たりにした。  この世に地獄があるとしたら、私が生まれ育った村はそうなっていた。  家が燃えていた。道には人の死体が転がっていた。家畜は炎の中を逃げ惑うか、柵の中で焼かれていた。人が人として生活を営むためのすべてが炎の中にあった。  その地獄の先、村の外れにある小高い丘に向かって、生き残っていた村人の一団が走っていくのが見えた。  私は無我夢中でそのあとを追った。周囲は死で満ちており、少しでも生命のある場所に逃げたかった。  村のはずれに差し掛かったとき、焼け落ちて崩れた家屋の一角が私の頭上に降り注いだ。熱さの中で私は絶叫した。手足は動かず、灼熱の炎の隙間から見えたのは、逃げ延びようと走る人々を追いかけ、引き裂いていく死神の姿だった。  やがて、最後の一人が串刺しにされた姿を目端にとらえた後、私の意識は暗転した。  意識を取り戻したとき、私の体は濡れていた。耳がとらえる音から、雨が降っていることを知った。目を開けて周囲の景色をうかがおうとしたが、視界の大半が家屋の残骸に阻まれていた。  わずかに首を上げようとするだけで、喉から痛みを知らせる苦悶の声が漏れ出た。時間をかけて家屋の残骸の隙間をすり抜け、ぬかるみの中に落ちた。泥の中に半ば埋まった状態で、私は次第に昨夜起きたことを思いだし始めていた。体を打つ雨は冷たく、泥と血にまみれる顔に伝う涙だけが温かく感じられた。私は泣きじゃくりながら、泥の中を這いずるように歩き始めた。  泣きながら、知っている限りの人の名前を呼び続けた。かすれた声は雨音の帳に遮られ、生者の耳には届かないようだった。  気が付けば、私は自分の家の残骸に背中を預けて座り込んでいた。体は疲労で感覚を失っていた。振り続ける雨の中で自分の体の境界は次第にぼやけていき、やがて私は深い眠りに落ちていった。  遠くから声が聞こえた。誰かからの呼び声に意識は覚醒したが、視界は真っ暗なままだった。  瞼を開いたとき、一番始めに見えたのは、私をのぞき込む一対の青い瞳だった。その瞬間、私がとらえた灰色の世界の中で、その青だけが唯一の色彩だった。 「生きているな」  その問いかけに、私は頭の中で答えた。生きている、と。口の中に冷たい感触を感じた瞬間、私の体は本能的に与えられた水を飲むことに全力を注いだ。体の感覚を取り戻したとき、ようやく誰かに抱きかかえられていることに気づいた。  改めて、自分を介抱している人物の顔を見上げた。それは若い女だった。青く、深い色をたたえた瞳は長く鋭いまつげで縁取られ、銀色の前髪が垂れ下がっていた。ふちの大きい帽子を被っているせいか、彼女の頭上は傘をさしているように暗かった。 「ここで何があった。」  その問いかけに、私の感情は激しく揺れた。摂ったばかりの水分はすぐさま涙に代わり、私の口からは嗚咽の音しか出てこなかった。  青い目は瞬きをすると、周囲の様子をうかがった。その瞳には地獄の焼け跡が映っているのだろう。  「お前には治療と休息が必要だ。私の家に来い。」  返事をする暇は与えられなかった。急に体が軽くなったと感じた瞬間、私は見ず知らずの女性に抱きかかえられていた。  彼女の肩越しに、村の景色を見送り続けた。雨が上がった後の灰色の空の下で、私の生まれ育った村の残骸も無色なままだった。  やがて、何か高いものに乗せ換えられた。私の体の態勢を整えた後、彼女も私の背中から覆いかぶさるように馬にまたがった。  「私の家までは1日ほどだ。しばらく我慢するがいい。」  そういうと、彼女は馬を進めた。私はマントで包まれた彼女の腕の中でまた深い眠りに落ちていった。  次に目を覚ました時、私の頭上には見慣れない天井が広がっていた。いつもの丸太がむき出しの屋根裏ではなく、板張りの天井だった。  自分がどこにいるかもわからないまま、首を動かす。その拍子に額から湿った手ぬぐいが滑り落ちた。誰かが看病してくれていたらしい。自分が寝ているベッドは柔らかく、簡素な模様が描かれた掛布団からは日の臭いがした。  左側に頭を動かすと、小さな洋服箪笥と、背もたれ付きの小さな椅子がおかれていた。枕元の物入には読書灯と、水が入っている小さな桶が乗っていた。クローゼットのわきにはこの部屋ただ一つの扉が見えた。右側に頭を動かすと、四角い木枠の窓からは、柔らかな日が差し込み、ベッドの足元に降り注いでいた。  居心地の良いベッドの中で、私の頭の中は混乱していた。見知らぬ家で眠っている理由がしばらく思いつかなかったが、身を起そうと体に力を込めた時、全身が痛みにうずいた。  そして、自分の身に起きたことを思い出した。血にまみれた両親、燃える村の景色、そして、その元凶たる人物の仮面に穿たれた暗い穴が脳裏によみがえった。  心臓の鼓動は早鐘のように鳴り、私は胸にためた空気をすべて追い出すかのように喘いだ。  そのとき、部屋の外で小さな音がした。顔を上げると、ドアが開かれ、一人の女性が立っていた。 「ようやく目を覚ましたか」  わずかに低く、凛とした声だった。おそらく私を拾ったであろう、その人物は私の枕もとに近づき、椅子に腰かけた。私はベッドの中で固まったままなにも言わず、ただ彼女を見返した。  焼け跡の灰色の中で唯一鮮やかに色彩を放っていた、深い水底を思わせるような青い瞳。その瞳を縁取るまつげは長く鋭く、彫りの深い精悍な顔は、彼女が聡明な人物であることを伺わせた。綺麗に整えられた眉は鋭い剣のようであり、わずかに癖の入った銀色の前髪が額を覆っていた。彼女の肌は白くなめらかで、健康に満ちていた。長い後髪は一つの大きな三つ編みにされ、左耳の横から体の前に垂れていた。私はその髪の結い方に母親を思い出した。子供の目から見ても、その女性が綺麗な人であることは分かった。  彼女は不意に私の額に掌を当てた。わずかに冷たいその手肌の感触に、私は心臓の鼓動がまた早くなるのを感じた。彼女が私の額に触れていたのはわずかな間だったが、私は耳が熱くなるのをはっきりと感じた。 「熱は下がったようだな。外傷としては火傷が多いが、深刻なものではない。安静にしておけば、7日ほどで回復するだろう。」  彼女は私の身体状態を簡潔に話すと、私の額から手を放し、手櫛で前髪を整えてくれた。その手つきは丁寧でやはり母親を思い出させるものだった。  私は見知らぬ女性からの介抱に緊張しながらも、ようやく疑問を口にすることができた。 「こ…こ…は… 」  かすれた、か細い声が出た。  彼女は瞬きすると、感情を感じさせない口調で説明した。 「ここは私の家だ。お前のいた村からは馬で一日ほど離れた場所にある。霧降山のふもとだ。」  霧降山という地名になじみはあった。自分の村から遠くに見える山だったが、今まで訪れたことはなかった。  彼女は短い回答を済ませると、黙ってまたじっと私の顔を見た。彼女の目の表情から、私からの質問を待ってくれていることが分かった。 「あな…た、は 」  その問いを聞いてから、彼女が答えるまで少しばかり間があった。 「エルザだ。私の名前はエルザ。」  それだけ答えてから、少し間をおき、また口を開いた。 「私があの村を訪れたのは、旅の帰り道に大きな炎が見えたからだ。村にたどり着いた時には火事は雨で鎮まっていた。だが…」  わずかな時間、彼女は視線を泳がせたが、やがて私の顔に視線を戻した。 「生存者はお前を除いて誰も居なかった。お前だけが生き残っていた。」  私は足元が抜け落ち、奈落の底に落ちていくかのような感覚に襲われた。どこかで分かってはいたが、やはり受け入れがたい事実だった。  皆死んだ。母親も、父親も、お隣の夫婦も、友達も、市場の店員も、村長も、ひそかに思いを寄せていた、あの娘も。私の思考は止まり、手足がしびれたように動かなかった。  私は握りしめた両手の拳を見下ろすだけだった。そのまま世界が止まったかのような静けさが訪れた。  唐突に、動物の鳴き声のような低い音がした。その音でようやく、自分がひどく空腹なことに気が付いた。 「何か食べるものを持ってこよう。少し待っていなさい。」  エルザと名乗る女性はそう言って、部屋を出て行った。  私の脳裏には、母親の得意料理だった鶏肉と玉ねぎの煮込みが思い浮かび、それ以外に考えられなくなった。  しばらく経つと、盆を持ったエルザが戻ってきた。枕元に置かれた盆の上には、湯気の立つ透明なスープと、黒麦パンが二切れ置かれていた。湯気から立つ臭いに私の腹はまた低い音を立てた。  エルザは滑らかな光沢を放つ木の匙を手に取り、スープをすくって、何度かそっと息を吹きかけた。そして私の口元にゆっくりと近づけた。滋養の塊のようなそれを口につけた瞬間、私は生きていることを実感した。エルザは何も言わず、ただスープを私の口に運び続けた。私はただ運ばれる匙に夢中で口をつけていたが、やがて、こらえきれずに器をエルザから受け取ると、中身をかきこんだ。差し出されたパンをむさぼりながら、ふと目端に熱さを感じた。あふれてくる涙と鼻水をぬぐいながら、私はひたすらパンを咀嚼し、スープを喉に流し込んだ。  食物を腹に収め終わると、私は枕に倒れこんだ。  エルザは手拭きで私の口元をぬぐうと、布団を胸元までかけなおしてくれた。  空腹を満たした後の満足感と疲労感で、私はまた眠りへと落ち込んでいった。意識が暗闇に沈んでいく間際、遠くから声が聞こえた。 「哀れな坊や。今は安心して眠るがいい。」  その口調は相変わらず感情のこもっていない単調なものだったが、私は命の恩人であるこの女性は優しく、親切な人物なのだと単純に思い込んでいた。  彼女が「魔女」と呼ばれる存在だと知るまでは。
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