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夏が来ると、雪子さんは家から出るのが難しくなる。
僕たちの住む町はとても涼しい土地だけれど、地球温暖化の影響もあり、年々暑さが厳しくなっていた。
そんな夏のある日のこと、同僚の田中さんが血相を変えて僕のところに走ってきた。
「隆! 大変だ! 電線に猪が引っかかって、おまえの家が停電になった!」
「えっ!」
僕は顔面蒼白になった。
「バカ! 固まってる場合か!」
すぐに帰れ、と田中さんに怒鳴られて、僕ははっとした。鮮魚売り場の長靴を履いたまま、家に向かって自転車を走らせた。
家に着くと締め切った室内が早くも暖まり始めていた。雪子さんがソファでぐったりしている。
僕は急いで雪子さんを浴槽に入れた。ふだん、雪子さんは冷水で身体を洗っている。水で身体は融けないはずだった。
けれど、朦朧とした意識の中で雪子さんが言った。
「お水は、だめです……。元気な時なら大丈夫だけど、今は、だめ……」
融ける、と消えそうな声で告げる雪子さんは、とても苦しそうだ。
僕はパニックになりながら、どうにか風呂の水を抜いた。
(落ち着け、落ち着け)
雪子さんの身体には濡れた服が張り付いている。お気に入りの水玉模様のワンピース。その中で華奢な身体が融けかけている。
「雪子さん!」
生きた心地がしなかった。
「こ、氷だ……」
震える足で風呂場を出た。急いで冷凍庫の氷をかき集め、雪子さんの身体に載せる。
けれど、家にある氷の量など高が知れていて……。
「お店で、買ってくる。待ってて」
半分泣きながら家を出ようとすると、一台の小型トラックが家の敷地に入ってきた。結婚した時に買った赤い軽自動車の隣に、砂利をまき散らしながら止まる。
「隆! 氷を持ってきたぞ!」
田中さんが発砲スチロールの箱を抱えて降りてきた。
僕の職場はスーパーの鮮魚売り場で、職場のみんなが総出で氷を運んできてくれたのだ。小型の冷凍トラックから次々運び出される発砲スチロール。そこに詰まった氷を見て、僕は泣きながらお礼を言った。
「みんな、ありがとう……!」
「さあ、急いで雪子さんにかけてやれ」
「俺たちも手伝うぜ」
雪子さんの身体が氷に埋まる。浴槽いっぱいの氷に沈んで、雪子さんはようやくほっと息を吐いた。
「ありがとう、ございます……。もう、大丈夫です……」
その日、スーパーの魚売り場には商品が並ばなかった。店長がお客さんにわけを話すと、誰も店を責めなかった。
電気が復旧して落ち着くと、雪子さんはみんなに電話をかけてお礼を言った。
そして、最後に謝っていた。
「隆さんも、ごめんなさい」
「謝る必要なんかないよ。雪子さんは何も悪くない」
「でも、私が雪女なばっかりに、みなさんにご迷惑をお掛けしました」
僕は首を振った。
「迷惑をかけないで生きてる人なんかいないよ。助けてくれたみんなには、本当に感謝しかないけど、たぶん、みんなも迷惑だなんて思ってないから」
大丈夫だよと言うと、赤い瞳で雪子さんが僕を見つめる。
「大丈夫だよ」
僕は繰り返した。
「迷惑を掛け合って、お互いに助け合って、みんなで生きていけたらいいなって、僕は思う。だから、雪女なばっかりに、なんて言わないで」
ね、と笑ってみせると、雪子さんは少し泣きそうな顔で「はい」と言って頷いた。
そしてにこりと笑う。
可愛いなと思った。
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