第一章

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第一章

ナツメヤシ、ナツメヤシ、ナツメヤシっ。 毎日、毎日、ナツメヤシばかりで、まるでナツメヤシ様の奴隷になったようだ。 ルトは、干したナツメヤシの入った麻袋を持ち上げながら思った。 「ドハさん。今日の分は、ここでいいですか?」 「その辺に置いとけ」 ボロ布で仕切られた露店の裏手で声を張ると、店先にいる店主のドハが、振り返る事もせずに無愛想に言った。 いつもこれだ。 ルトはため息を飲み込んで、麻袋を壊れかけた棚に押し入れた。 ドハだけではない。 どこの店に荷を運び込んでも、対応はこんなものだ。 荷担ぎの仕事を、この町に住み始めたと同時に始めてから、約一年。 毎日、町に入ってきた隊商(キャラバン)から預かった荷を市場(スーク)まで運び、その駄賃で生計を立てている。 最初は失敗ばかりで怒鳴られ続けていたけれど、最近は随分と仕事にも慣れてきた。 (と、思うんだけどな……。未だに気軽に声をかけ合える人が誰もいないのが、僕のだめさ加減をよく表してるけど……) 仕事に慣れ、あつかう荷の量が増えていく度に、出入りする店も顔見知りも増えた。 それなのに、ルトには隊商の男達や、市場の人々と楽しい会話をした記憶がほとんどない。 当然、友人なんて上等なものは誰一人としていなかった。 (いざとなると、上手く話せない僕が悪いんだけど……) 話しかけられても、身構えてしまって上手く話せない。 それを繰り返していると、誰も自分に目線一つ寄越さなくなった。 そもそも、根本的に馴染めていないのが、荷担ぎの仕事に似つかわしくない、この体型だ。 ルトは、薄汚れた白い長衣(トーブ)に包まれた、己の体を見下ろした。 肉体労働をしても、全く逞しくならない貧弱な体に、日焼けなんて知らないような白い肌。 顔立ちだって、男らしさがまるでない。 母譲りの黒髪と琥珀色の瞳は気に入っているが、昔から女性に間違えられてばかりの柔和な目鼻立ちは、母には悪いが嫌いだった。 猫のようだとよく言われた無駄に大きな目も、逆に存在感のない小ぶりな鼻や口も、全部。 市場を眺めると、体格に恵まれた同業者の若い男が、近くの露店の前で楽しそうに笑っている。 確か、あの男は、この町に住みついて間もない。 だが、早速、市場の店主と気がねなく会話をしていた。 (いいなぁ……。体格もよくて、いかにも荷担ぎって感じだし) 羨ましい。すごい羨ましい。 どうすれば、あんな風に市場に馴染めるのか。 どんな話で盛り上がっているのか。 あの男に教えを乞いたいと本気で思った。 「明日は朝一番で、レモンと、追加のナツメヤシを持ってきます」 ドハの背中に声をかけたが、そんな事は分かっているとばかりに無視をされた。 (どうして、どうして、僕はいつまで経っても馴染めずに、無視までされるんだっ) きっと、他の荷担ぎならば、ドハだって無視なんかしないのだ。 仕事は真面目にしている。 口下手で貧弱なのが馬鹿にされる原因なのは分かっているが、当たり前のように無視をされる日々が続くと、心が折れそうになる。  明日の荷運びを止めてしまいたい衝動に駆られたが、そんな事をしてしまえば生活が立ち行かなくなるだけだ。 (僕は、文句を言える立場じゃないよ。でも、返事ぐらいしてくれたっていいじゃないか) 怒りの表情を浮かべながらも、ルトの大きな琥珀色の瞳は悲しみの色に満ちていた。 (だめだ。どれだけ怒りを感じたって、僕には荷担ぎの仕事しかないんだから……) これ以上、嫌な気持ちになりたくなくて、露店市を足早に駆け抜けた。 今日の仕事はこれで終わり。 いつもより早い仕事上がりだ。 時間や体力が余っている時は、市場で買い物をした客の荷物を自宅まで運んで、小銭稼ぎをする事もあるが、最近はどうしてもする気が起きなかった。 先日、それをして客の家に連れ込まれそうになったせいだ。 やけに金払いのいい人だと思ったら、家の奥にむりやり手を引っ張られた。 あの時は、どうにか逃げ出せたが。 正直、個人の客相手に荷担ぎをする事が、怖くなってしまった。 (もっと口が上手くて体格が良かったら、少しは町に馴染めて、変にからかわれる事もなくなるのかな) 荷担ぎの仕事が自分に合っていない事には気づいている。 だが、新しい仕事の当てなんかある訳もなく、辞めてしまったら餓死が待っているのみだ。 (これからも、ずっとこんな調子で生きていかなきゃならないのかな……) 悲しみとも、不安ともつかないものが、ルトの心を重くする。 この一年、必死に仕事を頑張った。 仕事の量は増えたとはいえ、体格のいい者に比べると、やはり少ない。 情けないと思う。本当に。 この無力感に囚われる度に、ルトは何度も挫けそうになった。 しかし、色々考えた所で、気立ての良い荷担ぎになれるのならば苦労はない。 生きる為にも、ひたすらに仕事をしていくしかないのだ。 ルトは、土造りの店構えが続く一帯を通り抜けた。 露店の者よりも裕福で、自らで店を持つ者が集まるこの辺りでは、売り物も質が上がる。 細やかな織り模様の絨毯に、真鍮の立派な日用品。 どれもルトの目を引くが、貧しい生活では手にする事は夢のまた夢だった。 そう広くはない市場を過ぎると、ルトは家から近い小さな店で、夕食用に揚げた魚とナツメヤシを買った。 仕事でナツメヤシを運ぶ度に、うんざりしているというのに、結局は安価なこれに頼って生活しているのが、何だかおかしかった。  (今日は早く寝てしまおう。色々考えられる程、贅沢な身分じゃないんだから) 市場のざわめきが、ほとんど感じられないぐらいの町の外れ。 あちこちがひび割れて、廃屋と勘違いされそうな小さな日干しレンガの家に、ルトは住んでいた。 立てつけの悪い扉を開けて、重い心を休めるように木製の寝椅子に横になってしまえば、全ての事が億劫になった。 室内に侵入した砂の掃出しも、夕飯も。 何をする気も失って、ルトは横になったまま薄汚れた天井をぼんやりと見つめた。 一年前までは、自分がこんな生活をするとは考えもしていなかった。 この町から、三つのオアシスを経由してラクダで四日の場所にある、国王(スルタン)が住む大都。 ルトはそこで暮らしていた。 惚れ惚れする程、美しかった国王の宮殿。 宝石が散りばめられた輝く宮殿の円蓋(えんがい)は、豊かな国の象徴で。 大陸一番だと言われていた巨大な市場は、あらゆる国の隊商が出入りして、香料から、絹織物から、華やかなで高価なものが、これでもかと並んでいた。 そんな豊かな都で、国王専属の宝石商人だった父と沢山の使用人に囲まれて、大きな邸宅に住んでいた。  目を閉じれば、父と使用人達の優しい眼差しや、きらびやかな大都での生活が、昨日のように脳裏に浮かぶ。 (昔の思い出に浸っていても、惨めになるだけ……。分かってるのに……っ) 弱い心は、幸せだった記憶にすがりついている。 ルトは、破れかけた小さな皮袋を(ふところ)から出し、中にあるものを慎重に手に取った。 掌半分程の大きさの、綺麗な紅宝玉(ルビー)。 母が流行り病で亡くなり、あまりの悲しみに部屋に閉じこもりきりになった時に、父がくれた物だ。 この紅い石を通して、母はいつも家族を見守っているからと父は言った。 (それなら……父さんも、母さんも、僕の事を見ててくれるのかな……) 窓から入る夕陽にかざせば、紅宝玉は優しい光を宿した。 一年前に、父も突然の事故で天国へと旅立ってしまった。 遺されたものは、紅宝玉のみ。 大都から逃げる時に、持ち出せたのはこれだけだった。  ルトは、紅い石を握りしめた。 寂しい。 一人が、孤独が怖い。 (父さん、母さんっ……。寂しい、寂しいよ……一人はもう嫌だよ、怖いよっ) もう、どこにもないのに。 父と母の愛情に包まれていた日々が、たまらなく恋しい。 幸せだった幼い頃に戻りたくて、どうしようもなかった。  「僕……どうすればいい?」 寂しさをぶつけるように、強く、強く、紅宝玉を握る。 すると、徐々に手の温もりが石に移って、ほのかに熱を帯びていく。 (ん? やけに温かい……) 握り続けていると、ルトは紅宝玉に違和感を覚えた。 体温を超えて、紅い石が発熱しているように感じたのだ。 勘違いだろうと、再び紅宝玉を目前でかざした瞬間、焼石のようになったそれが、ルトの指を熱した。 「あつっ……あっ! 紅宝玉がっ」 指先を焼かれそうな熱さに、思わず紅宝玉を放るように手放してしまう。 放物線を描きながら飛んでいく紅い石に、ルトは自分が寝椅子に横になっている事を忘れて、手を伸ばした。 (しまった……落ちるっ……!) 紅宝玉を無理な体勢で追いかけてしまった体が、寝椅子の上から派手に転げ落ちた。 床にぶつかる痛みを前に、固く目をつぶる。 しかし、体を襲った衝撃は予想外に柔らかいものだった。 (あれ……? 床に落ちたのに) 不思議に思いながら目を開くと、視界いっぱいに瑞々しい草。 (え、何……!?) 土の床は消え、生き生きとした緑が体に触れた。 「うそ……?」 起き上がって周囲を見ると、ルトは見知らぬ美しい庭にいた。 足元から遠くまで続く草の絨毯。 その緑を彩るように、一面に咲き乱れているアネモネの花。 それだけでも、とんでもなく綺麗なのに、(すもも)(あんず)無花果(いちじく)桜桃(おうとう)といった木々が、そこかしこで狂ったように熟れた果実をみのらせている。 薄い雲が空を覆っているせいか、庭全体が幻想的な優しい明かりで包まれていて、まるで、お伽噺の中にでも迷い込んでしまったかのようだ。 「ここ、どこ……?」 ルトは呆然と呟いた。 こんな美しい庭、ルトは生まれて十七年間、見た事も聞いた事もない。 大都の宮殿にだってないだろう。それぐらい、現実離れをした美麗さだ。 庭の中には人の気配は全くなく、遠く、木々の間に小さく塀が見える。 「あ……えっ!?」  もっと周囲を観察しようと後ろを向いて、再びルトは驚いた。 背後にあったのは、小さな宮殿だった。 しかし、美しい庭とは、あまりにも対極なものだった。 黒石造りのそれは、壁から窓まで全て暗闇色で、中の様子が全く見えない。 これまた見た事も聞いた事もない、不気味な宮殿。 庭の異様な美しさと不可解な宮殿に、ルトは背筋を冷たくした。 本当に、ここはどこなのだろうか。 まるで、この世のものとは思えない。 夢でも見ているのだろうか。 だが、不可思議な場所なのに、圧倒的な現実感がある。 草の感触も、熟れた果実の甘い匂いも、しっかりとルトは感じていた。 (どうすればいいのかな……誰もいないし、この庭も宮殿も……怖い……) 宮殿を見上げながら立ち尽くしていると、木々の間に見えている塀の向こうから、小さく獣の唸り声のようなものが聞こえた。 何かが、塀の外にいる。 ルトの胸に嫌な予感が押し寄せる。 (今の声……人じゃない……何?) 声がした辺りを視線を移すと、何体もの黒い塊が塀を飛び越えているのが見えた。  「え……!?」 驚きと恐怖で動けずにいる間に、その黒い塊達は、ルトを目指して一直線に向かってくる。 (逃げないとっ。今すぐに!) 直感的にそう思うのに、足が震えて動かない。 黒い塊は、もの凄い勢いでルトに近づいてきて、体の輪郭がはっきりと見え始めた。 (なに……あれ……!?) 腐りかけのように赤黒い、巨大な体。 異常に長い手足や、せり出て垂れる腹。 個体によって姿は様々だったが、口が裂けて血走っている目はどれも同じだ。 (ば、化け物、化け物がっ……!) 鋭い牙と爪を光らせて、アネモネの花を無残に潰しながら、嬉しそうに吠える異形達。 体の向きを変えて逃げなければ。もしかすると、黒い宮殿の中に逃げられるかもしれない。 (早く、早く、早くっっ!) 心は焦っているのに、体が重い鉛になったようだ。 やっとの思いで体の向きを変えて、黒い宮殿に向かって走り出す。 もう、異形達は逃げられない距離にまで来ている。 体が震え、足がもつれる。 (お願いっ、動いて、動いてっ) 声にもならない情けない音を口から漏らして、どうにか駆ける。 すぐ後ろで唸り声がして、それに気を向けた瞬間、草に足をとられて大きく転んだ。 (もう、だめだ……) 沢山の足音が、耳元で騒ぐ。 もはや、再び立ち上がる時間も、気力もない。 この庭に来てしまったのは、この異形達に殺される為だったのか。 (夢なら、早く覚めてっ) 恐怖に閉じた瞼の向こうで、異形達に囲まれたのを感じた。 (父さん、母さんっ) 家族の顔を思い浮かべて、体を丸める。 化け物の荒い吐息が、体にかかった。 全て、終わりだ。 (僕、死ぬんだ…っ) 痛みと死を覚悟した刹那。 「戻れ。お前達の居場所は塀の外だ」 異形達の向こうから、よく通る低い声が響いた。 (誰……?) 異形達はピタリと動きを止めると、急にルトに興味を失って塀の外へと走り去って行った。 「大丈夫か? 四百年ぶりの人間に、食人鬼(グール)が興奮したようだ」 ルトは恐る恐る目を開いて、声の主を見上げた。 こちらを気遣わしげに見つめている、綺麗な黒緑の瞳と視線が交わる。 (わ……凛々しくて、きれいな人……) ルトは目の前の男に、瞬きも忘れて魅入った。 二十代の半ばぐらいの年齢だろうか。  艶やかな漆黒の髪。 形の良い眉に、涼しげな切れ長の黒緑の目。 鼻筋は高く、薄めの唇は上品に口角が上がっている。 どこかの王族といわれても頷ける、気品のある顔立ちだ。 背丈は、ルトより随分と高く、金糸の縁取りがついた機能的で上質な黒い長衣(トーブ)を身に付けていた。 「あ、あの……」 あまりの美丈夫ぶりに、視線を合わせているだけで顔が熱くなる。 「怪我をしているのか?」 言葉が続かないルトに、男の表情は心配の色を濃くした。 「だ、大丈夫ですっ。助けて下さって、ありがとうございます」 まさか、見惚れていましたなんて言えない。 礼を言って、慌てて立ち上がろうとしたが、ルトの意思に反して体が動かなかった。 「どうした?」 「あ……こ、腰が抜けちゃったみたいで」 何と気が弱いのか。 羞恥に目を伏せるルトに、男は優しく笑いかけた。 「グールを見たのは初めてか? もう、あいつらは寄って来ないから安心しろ」 男はそう言って、ルトを軽々と横抱きにした。  「えっ、その、平気ですからっ。すぐに元に戻りますしっ」 凛々しい顔がぐっと近づく。 男が焚き染めているだろう龍涎香(りゅうぜんこう)の香りが鼻先に漂い、再び腰が抜ける思いがした。 「それまで庭に転がっておくのか? あの東屋まで運ぶだけだ」 視線の先には、アネモネの花に囲まれた、雪花石膏(せっかせっこう)の優美な東屋があった。 「すみません……」 布越しの逞しい胸と腕の感触に、胸が鼓動を速める。 (さっきまでは、化け物に襲われて心臓がバクバクだったっていうのに。何だか、もう訳が分からないよ。やっぱり、夢なのかな) でも、自分を優しく抱き上げてくれている男を、夢の中の幻だとは思いたくなかった。 「グールが庭に入って来たから何事かと思ったが、まさか人間がいるとはな」 男はルトを東屋にゆっくり下ろすと、自らも隣に座った。 「僕、ずっとグールなんて、昔話の中だけの化け物だと思っていました」 襲いかかってきた赤黒く醜い巨体達。 あれが昔話によく聞く、人間をいたぶる化け物なのだ。 (この人が来てくれなかったら、今頃、僕はグール達に引き裂かれて……) ルトはぶるりと身を震わせた。 「普通に暮らしてたら、まず縁のないものだからな。ここは異常な場所だから、大量にお目にかかれるが」 異常な場所と聞いて、ルトは身を乗り出した。 「あ、あのっ。ここはどこですか? 僕は家から突然、この庭に来てしまったんです」 「突然? という事は、何も知らないのか? そうか……。俺の方が色々聞きたかったんだが」 いかにも残念だという風に、男が小さく笑った。 「ここは紅宝玉(ルビー)の中だ。身近に紅宝玉があっただろ? その中に、この世界がある」 「紅宝玉の、中……?」 ルトの琥珀色の目が、零れんばかりに見開かれた。 紅宝玉の中に、この庭があるというのか。 確かに、常識では考えられないような美しい場所だが、宝石の中に、こんな世界があるなんて。 「信じられないか? この世界は魔法で造られているんだ」 「……魔法? そんな……魔法なんて、本当にあるんですか?」 魔法の指輪に、魔法のランプ。 そんなものは、食人鬼(グール)と同じく、昔話の中だけの絵空事だと思っていたけれど。 「もちろん。俺は魔人(ジン)だしな」 「ジ、ジン……っ?」 ルトは口を閉じる事を忘れて、隣に座る男を見上げた。 この眩しいぐらいに凛々しい青年が、数々の伝承の中で恐れられている、強い魔力を持つ魔人だというのか。 「そんなに驚かなくてもいいだろ」 呆けた表情のルトを男が笑う。 「ほ、本当に……ジンなんですか?」 「グールは自分の目で見ただろ? グールがいるなら、ジンがいたっておかしくない」 「そうですけど……」 「半信半疑ってやつか? なら、嫌でも信じさせてやるよ」 魔人の男が、指先を軽やかに動かした。 途端に、東屋が風に包まれる。 「いい匂い……」 果実の甘い香りを乗せた風で、ルト達の髪が優しくそよぐ。 東屋を満たした風は周りのアネモネをさらい上げ、可憐な花びらが視界いっぱいに広がった。 「わぁ……! すごいっ」 色とりどりの花びらは、東屋の中にも舞い落ちて、ルトの頬をくすぐった。 「とても、綺麗です……!」  ルトは幻想的な光景を眺めながら、微笑んだ。   なんて素敵な魔法なんだ。 どんな夢より美しいと、ルトは思った。 「信じてくれたか?」 「はい」 異様なまでの美しい庭に、とんでもない異形の化け物。 そして、目の覚めるような美青年。 指先を軽やかに動かすだけで、東屋が世にも綺麗な風とアネモネの花びらに包まれて。 この人が魔人だというのは本当のようだ。 「名は? 俺はファリスだ」 「僕は、ルトといいます」 「ルトか。良い名だな」 ファリスは穏やかな表情を浮かべると、ルトの黒髪についている花びらをそっとつまんだ。 それだけの事なのに、ルトは恥ずかしそうに頬を染める。 (ファリスさんは同じ男なのに、何を意識しているんだ、僕は) 「紅宝玉は、どうやって手に入れた?」 「……父からもらいました」 「石と一緒に、金の腕輪はなかったよな?」 「腕輪? もらったのは紅宝玉だけでした」 「……だよな。ここに来た時に、前触れは感じたか?」 「いえ、何も……」 「質問ばかりで悪いな。実は、この世界は外界との接触が出来ない。だから、ルトがここにいる事は奇跡なんだ」 「え……じゃあ、ファリスさんは……?」 「俺は、訳あって四百年間、この庭と宮殿に一人で閉じ込められている」 「よ、四百年間、ずっとですかっ?」 想像を絶する年月に、ルトは耳を疑った。 「ああ。ずっとだ。人間だったら気が狂うような時間だが、俺はジンだからな。人間ほど、孤独感はない」 「でも、四百年もだなんて……」 あの窓すら黒い宮殿と、ひたすらに美しい庭。 ここで四百年間、ただ一人。 どれだけの寂しさだろうか、どれほどの悲しみだろうか。 この庭と宮殿の中で、くる日もくる日も一人で生き続けるファリスを思うと、胸が締め付けられる思いがした。  自分の、たった一年の孤独など、砂粒同然ではないか。 「四百年……人間からすれば長い時間だよな。だが、ジンである俺にとっては数百年程度の時間など、大した長さじゃない。と思っていたんだが……」 ファリスは黒緑の瞳を優しげに細めて、ルトの髪をゆっくりと撫でた。 「ルトと話したら、俺がどれだけ長い時間一人だったか実感したよ。誰かが隣にいるだけで嬉しくなるな」 ファリスの手の温もりと感触に、心がきゅっと切なくなる。 「ぼ、僕も、ちゃんとした会話をするのは久しぶりなんです。といっても、たった一年ぐらいなんですけど」 「家族は?」 「両親は病気と事故で亡くなりました。兄弟はいないので、父を亡くした一年前から、一人で暮らしています」 本当は、家族と呼べる存在がいるにはいる。 でも、もう二度と顔を見たくなかった。 「まだ若いのに、一人で暮らしているなんて偉いな」 「全然……そんな事、ないです。少し寂しい思いをしたぐらいで、何もかもが終わりだなんて気持ちになって。ファリスさんと比べたら、話にならないですよ」 「どうしてだ? 一年でも、四百年でも、寂しい気持ちに変わりはないだろ? 寂しいのは辛いし、悲しい。人間なら尚更だ」 ファリスは、悲しみを秘めたルトの琥珀の瞳を、しっかりと見つめた。 「愛する者を亡くすと、全てを奪われたような気持ちになる。ルトは、家族を亡くしてから、ずっと一人で頑張っていた。たった一年だと、簡単に言える日々じゃない」 「ファリスさん……」 まっすぐに自分だけを見つめてくる魔人の顔を見上げて、心の奥底に追いやろうとしていた思いが溢れ出るのを感じた。 父が死んだ実感のわかないままに大都から逃げ出して、小さな町に辿り着いた一年前。 市場の人間に声をかけ、どうにか荷担ぎの仕事を得た。 そして、崩れそうな家を借り、少しずつ日用品を買い足して、新しい暮らしの基盤を作った。 全てが手探りで不安の中、必死でつかんだ新しい生活。 毎日が戦いだった。 けれど、この生活の先には、きっと新しい幸福が待っている。 そう漠然と考えて、目の前の事に全力を尽くしていた。 そんな生活に、少しばかり慣れた頃。 自分の心を支配したのは、どうしようもない喪失感だった。 父がいない。もう、どこにもいない。 母が死んだ時は、父がずっと傍にいてくれた。 苦しみも悲しみも、全部、一緒に共有してくれた。 でも、もう誰もいない。愛する家族は、世界中、どこを捜しても――。 それから、自分なりに一生懸命頑張ったが、市場にも、荷担ぎの仕事にも、上手く馴染めたとは言えなかった。 自分の嫌な所ばかりが目につく日々。 己の存在が意味のないものに感じて、何度も自棄を起こしそうになったが、その気持ちを受け止めてくれる人などおらず、ただ孤独感が増すばかり。 「僕は……僕は……っ」 ルトは言葉を詰まらせ、嗚咽した。 ファリスの顔が、涙でにじむ。 (僕は、ずっと聞いて欲しかったんだ。寂しいって、たまらなく悲しいって……!) 押し込めていた感情が爆発して、ルトの大きな目から涙が零れた。 ファリスがしっかりと自分の目を見つめてくれた事が、優しく触れてくれた事が、何よりも嬉しい。 「ルトは、悲しみや寂しさを一人で我慢していたんだな。一年間、辛かったな」 温かい腕が、優しくルトの体を包んだ。 慈しむような抱擁に、心が喜びでいっぱいになる。 「ファリスさん……僕、ずっと寂しくて、怖くて……。父さんも、母さんも、僕を置いて死んじゃって。誰もいなくなったのに、仕事にも、周りの人にも、上手く馴染めなくて……っ」 気持ちばかりが空回りして、次第に過去の記憶ばかりに浸るようになった。 思い出の中の幸せな自分。それだけが心の灯で。 「一人は、何よりも恐ろしい。俺も、ずっと恐怖を心の奥に閉じ込めていたんだって、ルトに会って実感したよ。俺達は一緒だな」 流れ続ける涙で肩が濡れるのを厭わずに、ファリスがルトを抱き締める。 温かい、温かい。 こんなにも、人の優しさが温かいものだなんて。 少しの労わりで、寂しさに固くなっていた心が、こんなに柔らかくなるなんて。 何も、知らなかった。 「涙が枯れるまで泣いてしまうか。俺達は今、一人じゃないしな」 ファリスの手が、ゆっくりとルトの髪と背を撫でる。 涙が止まらない。 出会ったばかりな上に、ファリスは自分なんかよりも、もっと長い間、孤独の中にいたというのに。 ルトは涙で潤んだ琥珀の瞳で、ファリスの凛々しい顔を見上げた。 「ファリスさん……ごめんなさい。突然、こんなに泣いてしまって」 「謝るなよ。俺達は、ずっと一人で我慢していた仲間だろ?」 ファリスの長い指が、濡れた頬をそっと拭った。 「だから、敬語も必要ない。俺は、そんなに偉いジンじゃないしな」 「でも……」 「いいから。気にするな」 遠慮がちな視線を寄越すルトに、ファリスは微笑みかけたが、その表情が一瞬にして曇った。 「……好きなだけ泣いて欲しい所だが、どうやら時間が迫ってきたみたいだ」 「え?」 「足元を見てみろ」 ファリスのいう通りに足元に視線を移して、ルトは驚きの声を上げた。  「なっ……どうして……っ?」 ルトの足先が白く発光していた。 「ルトの体が外の世界に戻ろうとしているのを、俺の力で止めている。光っているのは、二つの力が反発しているからだ」 「反発……?」 「心配するな。閉じ込めたり、体を消そうとしている訳じゃない。ただの時間稼ぎだ」 「時間稼ぎって事は、僕だけ戻るの? ファリスは?」 「俺は閉じ込められているから、どうやっても無理だ」 「そんな……どうすれば出られるの?」 ルトはファリスの腕を強くつかんだ。 このまま自分だけが戻ってしまうなんて、絶対に嫌だ。 一人で戻るぐらいなら、二人でこの世界にいる方がいい。 「ルトが持っている紅宝玉は、四百年前まで金の腕輪にはめ込まれていたんだ。その腕輪に紅宝玉を戻せば、俺は出られる」 「だから、さっき腕輪がなかったか僕に聞いたんだね」 ファリスは頷いた。 「四百年前、俺は塀の向こうにいるグール達の暴走を止める為に、あいつらと共に自分自身を腕輪に封じた。仲間に俺の封印を解くように頼んでな。だが、上手くいかなかった。仲間が俺を解放する前に、紅宝玉と腕輪が別れてしまった。多分、そのまま二つとも紛失したんだろう」 「なら、その腕輪を探し出して紅宝玉をはめ込めば、出られるんだね」 「……無理な願いだとは分かっているが、頼まれてくれるか?」 黒緑の瞳が、細い糸にすがりつく思いで、ルトを見つめた。 四百年前に紛失した腕輪を見つけ出す。 それは、とんでもなく無謀な事だ。 「四百年前も前になくなった腕輪を、僕が見つけ出せるかな……」 「紅宝玉と別れてから、腕輪が運ばれた場所なら見当がついている。アレムの都だ」 「アレムの都っ?」 久しく耳にしていなかった都の名を聞いて、ルトは驚いた。 「実在するの?」 「四百年前は存在していた。もしかして、伝説にでもなっているのか?」 「うん。アレムは誰も住まず、場所を知る者もいない伝説の都だって、子供の頃に父さんから聞いたよ」 「……俺が腕輪の中にいる間に、状況が変わってしまったらしいな。ルトがいるのは大陸のどの辺りだ?」 「北側だよ」 「アレムの都は、大陸の南方にあるハドラントの砂漠の中央にある。今、都がどうなっているのか分からないが、腕輪の手がかりがあるとしたら、そこしかない」 足先を包んでいた光が、膝から太腿へと徐々に上がってきている。 きっと、この光に全身が包まれたらルトは帰らねばならない。 この世界にいられるのも、あと少しだ。 「人生を変えるような、辛い旅を強いる事になる。会ったばかりで、どんな奴とも知れないジンの俺が頼むような事じゃない……だが、お願いだ、ルト。腕輪から俺を解放してくれ……」 ファリスの手が、力強くルトの両手を包んだ。 人間ほど孤独感はないと言っていた魔人のファリス。 だが、四百年も、美しい庭に囲まれた黒い宮殿で一人きり。 寂しくない訳がない。悲しくない訳がない。 (四百年、ずっと一人ぼっちだなんて、考えるだけで絶望するよ……) もし、ルトが何もしなかったら。 ファリスはこの世界で、先の見えない孤独な日々を送り続けなければならないのだ。 (そんなのだめだっ! 絶対に!) 「僕、探すよっ。アレムの都に行って、腕輪を見つけ出す。そして、ファリスを外の世界に解放するよ!」 ルトは固い決意を琥珀の瞳に宿して、ファリスを見つめた。 「ルト……ありがとう」 ファリスはルトの体をぎゅっと抱き締めた。 その間にも、白い光はルトの体を覆い続け、腰まで到達していた。 「腕輪は、確実に一度はアレムにあった筈だ。紅宝玉と腕輪は引き合うから、二つが近付けば、互いに反応を示す」 「腕輪を見つけたら、すぐに紅宝玉をはめればいいよね?」 「そうだ。俺は魔法で紅宝玉に封印されているから、完全に解放されるには魔力を持つ者が必要だが、外に出るだけなら、腕輪を手首につけて名を呼んでくれるだけでいい。そうすれば、俺はルトの使い魔として、ここから出られる」 「分かったよ」 「決して急ぐ必要はない。ルトの安全を一番に考えて、少しずつでいいから、ハドラントに向かってくれ」 「うん。僕は旅をした事がないから、すごく時間がかかると思う。でも、絶対にアレムの都に行くから」 例え、誰も場所を知らない伝説の都だとしても、何としても辿り着いてやるのだ。 「すまない……この世界で俺に会ったばかりに、ルトに重い願いを背負わせてしまったな」 「そんな風に言わないで……!」 ルトは強く首を横に振った。 白い光は、ルトの胸を完全にのみ込み、腕は完全に光の中へと消えてしまっていた。 「僕、すごい嬉しかったんだ。仲間だって、泣いていいって言ってもらえて……。こうやって話ができて、一人じゃないんだって思うと、僕はとても幸せな気持ちになれた。ファリスに会えて良かったと心から思えるんだ。だから、今度は僕の番だ。僕がファリスを、孤独から解放するよ」 「ルト……」 「だって、仲間でしょ? もう一人ぼっちじゃないんだ!」 ルトは、ファリスにとびきりの笑顔を見せた。 その笑顔に、魔人の黒緑の瞳が喜びや希望に煌めく。 「ああ……。もう、一人じゃないな。俺はルトが名を呼んでくれる時を、待っている」 「うん。僕、頑張るよ……!」 応えたルトの首は光の中に消え、残すは顔のみとなっていた。 「外に出た時は、俺の魔力でルトの願いを何でも叶えよう。金銀財宝、何でも思うがままだ」 「本当? すごいねっ。楽しみだな」 ファリスはルトの体を光ごと抱き寄せた。 「ルトに出会えた事は、俺にとって得難い幸運だ」 「僕もだよ」 見つめ合った瞬間に、ルトの顔が光の中にのまれる。 「次に会う時は、外の世界だ」 「ファリスっ。必ず……っ!」 ファリスの温もりと、美しい庭の気配が、急速に遠ざかっていく。 「わっ……!」 目の前が暗闇になったかと思うと、体が宙に浮いた。 恐怖に歯を食いしばると、体に固い衝撃が襲った。 一瞬で景色が明転する。 空気が、匂いが、ルトのよく知ったものになった。 目の前には、今にも壊れそうな木製の寝椅子。 土色の天井には、細かいひび割れ。 (僕の家……戻って来たんだ) ルトの体は、寝椅子の横に転がっていた。 伸ばされた手の先には、床に落ちた紅宝玉。 何も変わらない、自分の家。 紅宝玉の中の世界に迷い込んでいたなんて、本当に夢のようだ。 (夢か幻って思う方が納得いく。でも違う。あの庭は、ファリスは……決して夢なんかじゃない) 甘い果実の香りが漂う美しい庭に、不気味な黒石造りの宮殿。塀の向こうの、おぞましい食人鬼(グール)達。 そして、四百年間、紅宝玉に閉じ込められている魔人(ジン)のファリス。 全て現実だ。 ルトは、涙の跡を残す頬に触れた。 吐き出してしまった寂しさを受け止めてくれた、ファリスの優しさと温もりは、すでにルトの心に深く根ざしている。 話をしたのは、本当に短い時間だ。 (だけど、僕にとってはどんな宝物よりも得難い時間だった……) 名を呼ばれ、視線を交わして話をしてくれる存在が、どんなに自分を心強くしたか。 ルトは起き上がると、床に転がった紅宝玉を拾って握りしめた。 寂しくて、悲しくて、周りを怖がってばかりいた心に、太陽のような眩しい光が差すのを感じる。 ファリスは人生を変えてしまうような旅になると言っていた。 望むところだ。 先程までの自分の人生なんて、掃いて捨てても誰も気付かないぐらいのものだった。 でも、今はファリスが待っているのだ。 他の誰でもなく、ルトただ一人を。 「さっそく旅の準備を始めないとっ!」 ルトは、小さな部屋の中で、新たな決意を胸に刻んだ。 もう、紅宝玉を見つめながら過去の思い出に浸ってる暇などないのだ。
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