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俯いたままの彼女に、それ以上何もかける言葉もない。
重い時間が流れた。
でも、彼女は何も言わなかった。
言葉を選んで見つけられないようでも、沈黙を守りたいようでもあった。
そのどちらかが分からないくらい、苛立ちと焦りが体中を渦巻く。
「マンションはもう、いつでも入れるんだ。…今日からあっちに行く。」
半分は引き留めてほしくて口にした言葉にも、彼女は何も返さなかった。
彼女の部屋を出た。
気配をうかがいながら。
追いかけてくるのを待って。
不安を全て流してくれる言葉を待って。
でも、何も起きなかった。
自分の部屋に戻って、身の回りの荷物をスーツケースに詰める。もともと家具は自宅にそのまま残しておいて、マンションでは新調するつもりだった。
二人で選んだ大きいサイズのベッドは既に搬入済みだった。寝る場所があれば後はどうにかなる。
急な出来事なのに、どうしても必要なものがそれほどなくて、悲しくなった。当座の着替えを入れたスーツケースを手にして、携帯と鍵を上着のポケットに、財布をジーンズの後ろポケットに入れたら、もう身支度ができてしまった。
二つ向こうのドアは開いたまま。入口に背を向けて座っている彼女が見える。
「僕が馬鹿だった。」
顔を向けない背中が、声に反応する。
顔すら見せてくれない彼女を見ると、掴んで揺さぶって気持ちをぶつけたくなった。
それなのに、何も答えない彼女に怒りすらぶつけられず、怒りは失望と諦めに変わった。
「最初から、無理だったんだね。…全部、忘れて。」
僕に縋ってくるのを待ったのに、彼女が身動きさえしなかったことに愕然とした。
玄関の鍵を閉めて、その鍵をどうしようか迷ったけれど、荷物を取りに戻ることもあるかもしれない。結局そのまま持って家を出ることにした。
何も考えないようにしようと思った。
恨んだところで、過去のことだ。今、何かしたわけではない。
でも、彼女はずっと黙っていた。
許して受け入れる?
自分だけでなく、母を裏切ったことも?
この気持ちはどこに向ける?
だめだ。
何も考えないことにしよう。
荷物を持って、駅に向かった。
電車で40分ほどの新しい住まいに向かった。
駅を出て電車がスピードを上げ始める手前、ドアの前に立つと見える。
続く塀と木立、日本家屋。
さっと目の前から消えていく。
ーー遠ざかる。
あの家から、過去から。
彼女から。
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