(六)

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 俯いたままの彼女に、それ以上何もかける言葉もない。  重い時間が流れた。  でも、彼女は何も言わなかった。  言葉を選んで見つけられないようでも、沈黙を守りたいようでもあった。    そのどちらかが分からないくらい、苛立ちと焦りが体中を渦巻く。 「マンションはもう、いつでも入れるんだ。…今日からあっちに行く。」  半分は引き留めてほしくて口にした言葉にも、彼女は何も返さなかった。  彼女の部屋を出た。  気配をうかがいながら。  追いかけてくるのを待って。  不安を全て流してくれる言葉を待って。  でも、何も起きなかった。  自分の部屋に戻って、身の回りの荷物をスーツケースに詰める。もともと家具は自宅にそのまま残しておいて、マンションでは新調するつもりだった。  二人で選んだ大きいサイズのベッドは既に搬入済みだった。寝る場所があれば後はどうにかなる。  急な出来事なのに、どうしても必要なものがそれほどなくて、悲しくなった。当座の着替えを入れたスーツケースを手にして、携帯と鍵を上着のポケットに、財布をジーンズの後ろポケットに入れたら、もう身支度ができてしまった。  二つ向こうのドアは開いたまま。入口に背を向けて座っている彼女が見える。 「僕が馬鹿だった。」  顔を向けない背中が、声に反応する。  顔すら見せてくれない彼女を見ると、掴んで揺さぶって気持ちをぶつけたくなった。  それなのに、何も答えない彼女に怒りすらぶつけられず、怒りは失望と諦めに変わった。 「最初から、無理だったんだね。…全部、忘れて。」  僕に縋ってくるのを待ったのに、彼女が身動きさえしなかったことに愕然とした。  玄関の鍵を閉めて、その鍵をどうしようか迷ったけれど、荷物を取りに戻ることもあるかもしれない。結局そのまま持って家を出ることにした。  何も考えないようにしようと思った。  恨んだところで、過去のことだ。今、何かしたわけではない。  でも、彼女はずっと黙っていた。  許して受け入れる?  自分だけでなく、母を裏切ったことも?  この気持ちはどこに向ける?    だめだ。  何も考えないことにしよう。  荷物を持って、駅に向かった。  電車で40分ほどの新しい住まいに向かった。  駅を出て電車がスピードを上げ始める手前、ドアの前に立つと見える。  続く塀と木立、日本家屋。  さっと目の前から消えていく。    ーー遠ざかる。  あの家から、過去から。  彼女から。
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