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海辺の街
生まれて初めて海を見た。
所々つぎの付いたボロのニット帽を押さえながら、列車の窓からから顔を出した。向かいに座る骨ばった師匠の手が、座れと促すように僕の服を掴む。
「ハットさん、だって、海ですよ!」
「…海なんて陸の端に出れば必ずあるんだ、旅をしてればそれほど珍しくなくなる。」
そうは言ったが海を見たことがないのだろうと察した彼は、僕を座らせようとするのを諦めたようだ。
「気をつけろよ。」
とだけ言うと、分厚い本の続きを読み始めた。この両と隣の両は、我らがフィアンマ劇団が貸し切っている。地方巡業に慣れた他の団員たちは、大人しく本を読んだり、談笑したり、ゆったりとくつろいでいた。興奮しているのは僕だけだった。
「あら、ぼうやは海が初めてなのね。」
美しい女性がはなしかけてくる。僕は慌てて帽子を取ると、軽くお辞儀をして俯いた。目を合わせるのが憚られるほど、彼女は美しく気高い。
「アリア、ぼうやと呼ぶのはもうやめろ。もう名前を決めてある。マットだ。」
「マット?ハットにマット?芸名までおそろいなの?」
「からかうな。ハット&マット、ゴロがいいだろ。次から公演に出す。」
「ほんとですか師匠!?」
「ああ。」
僕は顔おあげてまじまじと師匠を見た。師匠は相変わらずの無表情だったが、やると言ったらやる人だ。
「よかったわね、マット。ちょっとくらいの失敗は気にしないで。私たちがフォローするわ。思い切り、やりなさい。」
「はい!」
アリアを見た…彼女は妖艶な笑みを浮かべていた。アナウンスが流れる。ついに次の公演の地に到着する。まだ数度しか経験していないが、この瞬間がいつもドキドキする。緊張と興奮。自分の身の回りの荷物を確認しながら、マットはそわそわと停車を待った。
「ほほう、これはこれは、噂の一座のお出ましですね。」
町長の元へ、挨拶に来ていた。
「フィアンマ劇団を率いる、歌姫アリア。なんとお美しい。噂以上です!」
「光栄ですわ。」
アリアが微笑むと、町長の顔がだらしなく緩んだ。誰にも聞こえないほど小さな声で、ハットが鼻を鳴らす。呆れているようだ。
「こちらは、脚本家兼、トップ役者のハットです。」
「どうも。」
「これはこれは、ど、どうも。」
町長はハットと握手をしながら、少し怯えたように彼を見上げていた。無理もない。ハットは、ゆうに190センチは超えるだろうと言う大きさで、きっちりとした紳士風の黒味のスーツを着込んでいるが、服から垣間見える肌は青白く、頬はこけ、まるで骸骨のような見た目の男なのだ。おまけにいつも仏頂面。初対面の人は必ず怯んだ。
「すみませんね、彼役者のわりに無口で。いい人なんですよ。才能もあって。」
「え、ええ、いや、なんとも、その、大きいなと思いまして。ははは。」
「本当に、何を食べたらそんなに大きくなるんでしょうね、公演の時はこれにシルクハットをかぶるものですから、もっと大きいんですよ。」
アリアがフフフと笑う。町長がまただらしなく笑い、ハットは今度は聞こえるように鼻を鳴らした。
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